幸せな日常・・・後
やばいなぁと綾乃が思ったのは体育の授業の最後のほうだった。 というのも、持久走の授業の内容が、最初グラウンド5周。少し休憩してまた5周。最後に10周というものだったのだが、体育の前の薫や翔との話で綾乃は少しがんばってしまった。 それがいけなかったのだろうと思う。 グラウンドを5周した者から休憩に入り、最後の一人が終わるまで待たなければならない。最後の一人が3分は休憩してから次の5周が始まるとい流れ。そして最後の10周も終わった順番から休憩して、最後の一人が走り終わった頃にチャイムが鳴った。 ようは、5週や10週を早く走った人ほど休憩時間が長いのだ。 そして綾乃は少しがんばってしまった為に、思いのほか休憩時間が長かった。その間に、走ってかいた汗が冷たく乾いて身体を冷やしてしまった。次の5週も同じ事で、さらに最後の10周にいたってはチャイムが鳴る頃にはすっかり寒さに震えていた。 「ケホッ・・・ケホッ」 「綾乃、大丈夫?」 学校が終わる頃には朝よりも咳が出るようになっていた。 「うーん・・・ちょっと喉が痛いかも」 「ぜってー体育だよ。俺もあれで身体冷えたもん」 「確かに。あの進め方はどうかと思うね」 ―――あ、メール。 仕事の合間があったのだろうか、雅人からまたメールが入っていた。 "体育はどううでしたか?風邪はひどくなっていませんか?" 「やばい・・・」 「どうしたの?」 携帯を見つめて少し困った顔になった綾乃に、薫は何々と携帯を覗き込んだ。 「え、綾乃元々風邪気味だったの?」 「ううん、そんな事ないよ。朝、2,3度咳をしただけなのに風邪じゃないかって心配されてただけなんだけど・・・、ホントになっちゃいそうっ、ゲホッ」 「あーあ。今日は生徒会も寄らずに早く帰ったほうがいいぜ」 「うん、そうさせてもらおうかな。いい?薫」 「もちろん問題ないよ。でも・・・帰り電車?大丈夫?」 心配そうに薫が顔を曇らした。しんどそうな綾乃が電車と徒歩で帰るのが心配になのだろう。 「大丈夫。熱があるとかじゃないし」 けれど綾乃は、心配そうに見つめる二人の顔におおげさだよと笑って首を横に振った。 そして二人に、また明日、と手を振ってコートをしっかりと着込んで門をくぐった。 電車では運よく座ることが出来たので、メールの返事を送るために携帯を取り出した。けれど、なんと打っていいのか少し悩んでしまった。 大丈夫、というのは少し嘘をついている気がする。しかし、風邪を引いたといえば心配させてしまうかもしれない。さてどうしたものかと、液晶画面をしばらく眺めて考えて。迷いながらも文を作った。 そしてどきどきしながら送信ボタンに手をかけると、ちょうど電車が下車駅に滑り込んだ。綾乃は勢いで送信ボタンを押して、慌てて電車から降りた。 ・・・・ その夜、風邪の具合がますますひどくなってきた。9時前に雪人が風呂に入るとすぐに綾乃も風呂に入ってあったかくして、湯冷めしないうちにと10時を待たずにベッドに身体を横たえた。 咳は相変わらずで、喉が少し痛い。身体が少し熱い気がするのは、お風呂であったまった所為か、もしかして熱の所為だろうか。 ――――まいったなぁー・・・ 綾乃は、自分の記憶のある限り風邪を引いた経験は1度しかない。それは、小学校2年の時。 あの時は最悪だった。綾乃が風邪をひいたからといって、病院に連れて行ってくれるわけでもなく、薬をもらえるわけでもなかった。特別におかゆを作ってくれるはずもなく。一人布団の中でうなっていた。普通の食事は喉も通らなくて、1日中たった一人布団に包まって空腹と乾きに襲われて苦しくて、子供心にこのまま死ぬんじゃないだろうかと思った。夜中に這うようにしてキッチンに向かって、ぐびぐびと水を飲んで、汗だくの服を一人脱いで着替えた時のあの寂しさと惨めさは、子供心に強烈で忘れられなかった。 あの時、何があっても病気にだけはなっちゃいけないと思った。思ったのに・・・・・・ あの時以来の、風邪。 綾乃は、遠い過去の日々が急にリアルに思い出されて、わけもわからず寂しさがこみ上げてきてしまって、布団をぎゅっと掴んだ。 その時、遠慮がちに扉がノックされた。 「失礼します」 「あっ、松岡さんっ?」 ノックされたドアに続いて松岡が顔を覗かせた。綾乃は今にも込み上げてきそうだった涙を引っ込めて、慌てて上体を起こす。 「ああ、寝ててくださいっ。・・・大丈夫ですか?」 松岡は湯気のたつカップをお盆に乗せて、ベッドの脇へと座りこんだ。起き上がって乱れた綾乃の掛け布団を直してやって、おでこに手をあてる。 「少し熱が出てきたかもしれませんね。苦しくないですか?」 「はい。ゴホッコホッ。・・・喉がちょっと痛いだけです」 「生姜湯を作ってきました。こちらに置いておきますね。他に何か欲しいものはありますか?」 松岡の問いの綾乃は首を横にふるふると振って身体を少し起こす。 「飲みますか?」 その仕草に、松岡が綾乃の身体を支えて起こしてやりながらカップを口元に持ってくる。なんだか、すっごく重病人にでもなったようで、綾乃は少しこそばゆい思いに包まれたながら口に運んだ生姜湯は、ほどよい暖かさで体中に染み渡った。 「おいしい・・・」 「それは良かった。さ、もう横になってください」 松岡は今度も綾乃の身体を支えて横たわらすと、また掛け布団を直して綾乃の身体がしっかり布団に包まれるようにした。 「熱が出るかもしれませんね。苦しかったらすぐに言ってください」 松岡はそういうと、電話の子機を綾乃のすぐ枕元へと持ってくる。何かあれば内線ですぐに呼び出せる様にだ。 「すいません、迷惑かけちゃって・・・」 「迷惑だなんて事ありませんよ。風邪なんてものは、誰だってひくものなのですから」 松岡の優しい言葉が綾乃の胸にしみた。 「・・・うん」 風邪の所為か少し気持ちが不安定で、さらにその言葉が胸に詰まってきて綾乃がジーンとした気持ちを噛み締めていると、夜の10時とは思えないような荒々しい音をたてて誰かが階段を駆け上がってくるのが聞こえてきた。 「・・・何?」 綾乃の呟きと同時に扉が開けられる。 「綾乃っ、大丈夫ですか!?」 「っ、雅人さん」 10時に帰宅なんて、雅人にしてみれば"早すぎる帰宅時間"と言ってもいいくらいだろう。しかも、その慌てた様子に、せっかく横になった身体を綾乃はまた起こそうとする。 「綾乃様寝てください。雅人様も何時だと思っているんですか。もう少しお静かに。雪人様はもうお休みになっておられるのですよ」 「あ・・・すみません」 そこに松岡がいることを考えていなかったらしく、26にもなった大の男で偉いさんでもあるはずの雅人が、急にしゅんとうな垂れた。 「雅人さん、おかえりなさい」 そんな初めて目にする雅人が少しおかしくて、綾乃はくすくすと笑いながら雅人に声をかける。 「おかえりなさいませ、雅人様」 「ただいま帰りました。・・・綾乃、喉は大丈夫ですか?」 雅人は少し神妙な顔を作っていつものように挨拶を返すけれど、やっぱりそれどころじゃないらしく、すぐにそんな顔は引っ込めておろおろと綾乃を伺った。 「はいっ、ゴホ・・・、大丈夫です」 笑顔でそう言おうとも、咳をしていれば説得力がない。雅人はますます心配そうな顔になっていく。 「では、私はまだ下で仕事が残っていますので行きますが、もし何かあればすぐに言ってくださいね。雅人様も、綾乃様はもう寝た方がよろしいのですから、あまり長居はしない様になさってください」 「・・・はい」 「ありがとうございます」 再び綾乃の布団を直す松岡に綾乃が礼を言うと、松岡の顔が優しく微笑んで。持ってきたお盆を手に部屋を出て行った。 その扉が閉まるやいなや、雅人は今まで松岡が座っていた場所に座り込んで綾乃の顔を覗き込んだ。 「綾乃、これ喉飴です」 雅人はそう言うと、手にした袋からガサガサと大量の喉飴を取り出して見せた。 「・・・凄い」 「綾乃がどういう味が好きかわからなかったので、色々集めさせました」 雅人がそう言って見せる飴は確かに色んな種類のものがあった。一般的にCMでも見る種のものから、ちょっとお目にかかったことのない様なものまで。いったいいくつあるのだろうか。 「これなんかは、朝鮮人参のエキスが入っているらしいですよ」 雅人はそういうと、取り出した飴を枕元にあるサイドボードの上、松岡が入れておいてくれた生姜湯に並べて置いた。そこには飴でこんもり山が出来ている。 "少し、喉が痛いです" 綾乃が帰宅途中に送ったメール。心配させるかもしれないと思いながらも、少し心配させたいようなそんな思いも沸き上がって、思い切って送ったメール。 雅人はそれを見るや即久保に飴を手配させて、自身も移動の途中になんとスーパーに寄って買い入れたのだ。その集めた数は、一体風邪を何回引いたらいいの?と聞きたくなるような量になっている。間違ってもこの1年、綾乃が飴を買う事はなさそうだ。 けれど――――・・・ 「ありがとう、ございます」 「綾乃?」 ちょっと涙声の綾乃に、雅人が慌ててその瞳を見つめると、その瞳も少し濡れていた。 「へへ・・・、・・・なんか、うれしくて」 「嬉しくて?」 「うん」 「風邪がですか?」 雅人の言葉に綾乃は思わず笑ってしまって、首を振る。その拍子に一生懸命とどめていた涙が、目の端から零れ落ちた。 「早く帰ってきてくれて、うれしい・・・っ」 心配してくれて。お土産を抱えて帰ってきてくれた雅人。 こんな時間。きっと無理して帰って来たに違いなくて。その想いが嬉しい。 「・・・ありがとう」 心配そうにおろおろして、いつもより静かにしていた雪人。 風邪で喉が痛そうだからと、夕飯の予定メニュー麻婆茄子を急遽揚げだし茄子に替えてくれて、身体が温まるようにとあったかいトン汁を作ってくれた松岡。 心配そうに見送ってくれた薫と翔からは、メールも入っていた。 全部が嬉しくて。 全部が、嬉しすぎて。 幸せは、心を運んできてくれたから。 「・・・綾乃」 そんな綾乃の言葉に出来ない思いがわかるのか、雅人は優しくその目じりにキスを落とした。言葉は、きっと簡単なんだろうけど、それじゃぁ本当の思いを伝わらないし、綾乃の心の奥底にまだある不安感は拭えないから。 何もいえない想いを、雅人はいつもキスに乗せる。 「仕事、へーき?」 「ええ、久保に押し付けてやりました」 雅人が楽しそうに笑う。今度からしばしばこの手で仕事を逃げてやろうかなんて思っていたりもしているなんて綾乃には内緒。 もちろん、久保が知ったらとんでもないと怒り狂うだろうけれど。 「さ、もう寝てください。風邪には寝るのが1番です」 「うん」 雅人はそう言って、綾乃の頭を優しく撫でてやる。その仕草が気持ちよくて、目を瞑ったら本当に寝てしまいそうだと綾乃は思うけれど、なんだかせっかく雅人が傍にいるのに寝てしまうのが勿体無いようで、目をつぶれない。 「私がいると気が散って寝れませんね?・・・向こうへ行っていましょうね」 そんな綾乃の態度を、寝にくいのかと勘違いした雅人が立ち上がると、綾乃はハッとしたように雅人のスーツの裾を掴んだ。 「あ・・・」 「綾乃?」 ――――行かないで・・・ 今は一人になりたくない。 「どうしました?」 雅人は上げた腰を再び下ろして綾乃の顔を覗き込んだ。 「大丈夫ですよ?」 安心させるように微笑むと、頼りなげに小さく開かれた口をしっかりと塞いだ。下唇にかすかに歯を立てて、ゆっくり舌を差し入れて綾乃を味わってから離れた。絡み合った唾液が糸を引く。口の端も少し濡れていて、雅人がそれを拭うように優しくキスをすると。 「だめ・・・、移っちゃうよっ」 綾乃は今更そんな言葉を口にする。 「かまいません。人に移すと早く直りますから。私でよければどうぞ」 そう言って、ついばむようなキスを繰り返してくすっと笑う。 「綾乃、寝ないと」 いつまでたっても目をつぶらない綾乃に雅人が少し困ったように言う。 「目を瞑ってください」 ――――・・・やだ・・・ 「松岡に怒られますから」 ――――・・・だって・・・・・・ 「風邪が治りませんよ?」 雅人の言葉に綾乃は唇をきゅっと噛み締める。ちょっと切なくなくて胸がぎゅっと苦しくなった。こんな事、言っていいのかわからないけれど、でも今は一人じゃぁ返って眠れない。 「じゃぁ・・・、ね?」 「はい?」 綾乃はドキドキしながら、息を吸い込んだ。だって今までこんな言葉を誰かに言ったこともないから。どんな反応をされるのかわからない、こんな我侭な言葉。 けれど、どうしても、どうしてもそうして欲しくて―――・・・・・・ 「・・・眠るまで、傍にいて・・・」 意を決して紡いだ言葉は、最後のほうは小さな声になってそのまま消えてしまった。 「はい、いいですよ」 綾乃のドキドキに比べると、返ってきた雅人の言葉は簡潔で。でも雅人の声音が暖かで穏やかで、その顔は自然と蕩ける様な甘い笑みが広がっている。 「・・・、っ」 「ずーっと傍にいます」 綾乃の言葉に、綾乃の想像以上に雅人は嬉しさに包まれていた。 普段から、ああしてこうしてと自分の意思をあまり言えない綾乃が、自分に何かを望んでくれる。しかもそれが甘えるような言葉となれば、それはどれだけ甘美な響きをもって心を突き刺すのか、綾乃はまだわかっていないのだ。 「綾乃が寝ても、ずーっと傍についていますから。苦しくなって目が覚めても怖くないですよ」 そう言いながら雅人がポンポンと布団を叩く。 そして先ほどより部屋の電気を落として、再び綾乃の傍に座り込んだ。布団の端をめくって手を忍び込ませて、綾乃の手をぎゅっと握ってやる。 「・・・おやすみなさい」 少し照れた様な響きをもって綾乃が言うと、雅人もおやすみなさいの言葉とともに、おやすみのキスを綾乃にした。 ぎゅっと握った手が、雅人に繋がっていることが安心するのか、傍にいてくれる気配が嬉しいのか、その後すぐに綾乃の安定した寝息が聞こえてきた。 けれどその手は、ずっと離される事はなかった。 夜中に、やはり起きていた松岡が様子を見に来て、そんな雅人に驚いて毛布を運んだり、そっと着替えをしたりした事は、綾乃は知らない。 きっと松岡もずっと寝ないでいてくれた事も。 なぜなら、綾乃は安心したようにぐっすり眠って、一度も目を醒ますことはなかったから。 さて次の日、雅人が風邪をひいてしまったかどうかは――――皆様のご想像に・・・ キリリク・風邪ひき綾ちゃん・・・クリアしてるかな?ドキドキ 個人的にはコメディっぽい感じにしたかったのに、甘いお話になったかなぁ。どうかな? |