希望と想いと嫉妬と不安 17




 その日は、お昼から雪人の荷造り―――といってもたいした量ではないのだが―――を手伝って。
 夕飯は明日からの合宿を乗り切れるようにと、鰻メインのものを相変わらずの雪人と2人の風景で平らげた。こんなに精つけて、雪人くんってば今夜寝れるのかな?とちょっと心配になってしまうほど。
 そんな心配をしつつ、綾乃も衣服の詰めた鞄を見つめた。
「・・・遅いな」
 明日からの事もあるから早く眠りたいんだけど、しょうがないと綾乃は昨日道場に行った時に誠一より渡された日程表をパラっと捲った。
 それを見ると、合宿とは言いながら、みんなで楽しく旅行することがだいぶメインになっている気もする。泊まるのは、毎年お世話になっているらしいお寺で。食事も自炊。カレーやバーベキューをする様だ。
 最終日は、花火も。
「ほんと」
 ―――――楽しそうだ・・・
 ベッドに凭れた身体が、ぐっと沈んで綾乃の瞳が我知らず閉じる。
 寝ちゃいけない、そう理性が落ちていこうとする意識を引き止めて襲い来る睡魔と闘う事数分、理性の劣勢が明らかになったその時。
 ふっと人の気配を感じて。
「―――」
 綾乃の理性は最後の力を振り絞って目を開いた。
「―――っ」
 ハッと息を飲む気配と、驚きに瞳を開いたその顔。
「・・・さと、さん」
 どうやらだいぶ睡魔に侵食されていたらしい、舌足らずな声に赤くなった瞳。それでもその瞳で、ちゃんと雅人を捉えた。
 久しぶりに見る、その顔。
「すいません。起こしてしまいましたね」
 雅人はそう言うと視線をスイっと逸らして、綾乃の身体に布団を掛けようとする。その視界の端に、綾乃が今まで見ていた日程表が写った。
 それを、無言で拾い上げる。
「雅人さん、・・・おかえりなさい」
 綾乃はそっと身を起こす。
「ただいま、帰りました」
「それ・・・合宿の日程表。控えは、松岡さんに渡してあるから」
「そうですか」
 雅人はまるでそれ以上見たくないとでも言うように、中身を読み通す事はなく鞄の上に置いて、そのまま部屋から出て行こうと足を扉に向ける。
「待ってっ」
「綾乃っ」
 呼びかけに反射的に、雅人が声を発した。
 その雅人は綾乃の方へ顔を向けないまま数秒。その数秒に、どれほどの葛藤を抱えて、どれほどの強さでその思いを奥底にねじ込んだのだろう。
「――――こないだ、私が言った事は忘れてください」
「え?」
「もちろん大学には行って欲しいのですが、その先までは綾乃の思う道を進んでください」
 久保の告げた言葉と、同じ言葉。
「待って、――――待ってよ雅人さん」
 綾乃が思わずベッドから立ち上がって、雅人の腕を取る。
 ぐっと引っ張って、その力に押されるように雅人が綾乃を見た。その雅人の瞳の色からは、何も読み取れない。
 上手に隠してしまっていて。
「あの時は、仕事で色々あって。つい、いらぬ事を言ってしまいました。本当にすいませんでした」
 そう言って笑う雅人の顔が、―――――哀しかった。
 それが本心なんかじゃあ無いんだって事は、綾乃にだってわかったから。
「・・・雅人さん――――」
「合宿も、楽しんできてくださいね」
 じゃあ、とそれで全てを終わりにして立ち去ろうとする雅人の腕を綾乃は離さなかった。
「なんで?行くの、ほんとはヤなんでしょ!?」
「綾乃」
「行って欲しく無いんでしょ?」
 雅人の顔が苦く、歪む。
「本当は、僕が秘書になって欲しいんでしょ?」
 瞳が辛そうに、揺れる。
「あれが、雅人さんの気持ちでしょ!?」
「じゃあっ!」
 綾乃が瞳を大きくして、雅人を見上げた。
「―――じゃあ、そう言えばそうしてくれるのですか?」
 なんて、なんて苦しそうな声だろう。
「そうなんですか!?――――――違うでしょう?」
「でもっ」
 ―――――そうだけど。
「でも、隠さないでよっ。嘘――――つかないでっ」
 ―――――隠してしまわないで欲しい。
 まだ上手に読み取ることが出来ないから。
「綾乃・・・」
 綾乃がぎゅーっと雅人の腕にしがみつく。
 確かに、言われたからってそう出来るかわからない。先の事なんて、見えてるようで全然見えてなくて、360度全部に道が伸びていてどっちに足を踏み出したらいいのか、まったくわからない。
 その一歩がなんだか物凄く重大に思えて、怖くてただそこに立ち尽くすしかない。
 けれど。
「わかんない。どうしたらいいのか、どうしたいのか全然わかんない」
 雅人がそっと、綾乃の肩に触れる。
「僕は、自分の事も雅人さんの事も、全然わかってないよね。雅人さんが今までどんなふうだったか、どんな子供だったかとか、会社でどんななんだろうとか全然知らない。でも、好きになった」
 グズっと鼻が鳴る。
「好きになって、ずっと傍にいたいと思った。だから、もっと知りたいって思う。――――南條家の事も」
「綾乃?」
「まだっ、先の事はわからない」
 怖くて。
「何も言えない」
 ハッキリした事を口にするには自信が無くて。
「無責任な事したくないし。・・・僕はこれまで生きてくだけで、先の事とか希望を持って見たことあんまりなくて。だからこれからいっぱい考える。今までの分もいっぱい考える。だから、もうちょっと・・・待ってください」
 雅人の指が、愛おしそうに綾乃の髪に差し入れられた。
「だから、大学も行く。そしてもっと僕の知らないことを知りたい」
 傍にいるために。
「はい」
 もっともっと、知るために。
「我侭言って、ごめんなさい」
「何をっ、―――何を謝ることがあるんですか」
 雅人は綾乃の顎に指をかけて、上へ向ける。
「考えてくれて嬉しいです。・・・私の方こそ、焦ってしまって申し訳ありませんでした。綾乃の世界が広がっていく事が―――――怖かったんです」
「え?」
「もっと色々知っていくうちに、私じゃない誰かを・・・選んでしまうんじゃないかと」
「そんな事っ」
 あるはずが無い。
「先の事は誰にもわかりません」
 ―――――だから、縛ってしまいたかった。
「もちろん、信じてますけどね」
 ほら、こうして言葉で縛ろうとする。優しさにつけ込んで。
「合宿だって、本当は行かせたくないんですよ。あの、下田とかいう師範はどうも下心がありそうですし」
「・・・下心?なんの?」
「綾乃をヨコシマな目で見ている気がします」
「はぁ!?」
 雅人の言葉に綾乃は、何を言ってるの?と呆れた声を出して肩を落とした。
「樋口くんもいない様ですし、・・・十分気をつけてください」
「薫がいなくたって平気だよっ」
「そうですか?」
「そうだよっ。だから――――」
「―――?」
「・・・裏から手とか、回さないでよ」
「っ、綾乃・・・」
 ギクっと少し固まった雅人に綾乃は怒った顔を向ける。
「そういうの、もう止めてね」
「・・・しかし」
「ヤなの。そんな風に守られたくないよ。そんなんじゃあいつまでたっても強くなれないよ。中田先生のことにしたって、1年生のことにしたって」
 もう嫌だと、それだけははっきりとした意志で告げた。
 そりゃ、その方が助かるし楽だし。嫌な思いしないでいいし、悲しい気持ちになったりしないでいいけど。
「ですが・・・家のことで綾乃に嫌な思いは・・・」
「でもっ!でも、それも全部含めて雅人さんでしょ?」
 この家も。名前も、地位もお金も、嫌な事もいい事も全部ひっくるめて雅人自身だから。
 その一部だけでも否定して欲しくなった。
 それを全部ひっくるめてわかって、理解して、それで傍にいたいから。
「・・・ね?」
 そこから目をそむけさせないで?
 逃がさないで?
「僕は、まだまだ弱いけど」
「綾乃っ」
 きっとこれからも、躓いたり逃げそうになったり蹲ったりしちゃうし、戸惑う事も多いけれど。
「ちゃんと、知りたいから」
 じゃなきゃ、僕は何にだって――――――なれないよ。
 綾乃は、ぎゅーっと雅人を抱きしめた。ありったけの強さで、ありったけの思いを込める様に抱きしめた。
「綾乃・・・」
「好き、だから・・・っ」
 その言葉に雅人は綾乃を強く抱きしめた。綾乃の気持ちが、嬉しかった。
 嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。
 "ありがとう"
 耳のかすかに聞こえた雅人の声。
 その声に弱さに、綾乃は胸が締め付けられて。雅人がどれだけの思いを抱えているかを感じ取った。
 今はまだ何も返せないけれど。











 翌朝、早朝。
 そこには当たり前の日常が、戻ってきていた。
 夏らしい晴天の空。
 綾乃と雪人はちゃんと雅人に見送られて、元気よく家を出た。

 その合宿先での小さくない事件は、また別の話―――――――――












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アトガキ
「希望と想いと嫉妬と不安」お付き合いありがとうございました。
綾乃が抱えた、この時期の進路への悩みや将来への漠然とした不安感や、僅かな反抗心などを書けたらなぁと思ったのですが、
上手く伝えられたでしょうか。
本当は合宿偏やアメリカ偏も入れる予定だったのですが、そうすると果てしなく長くなりそうなので1回ここで切ります。
今の段階で、合宿偏とアメリカ偏を書くかどうか…未定です。すいません。
言いたいことの半分くらいしか伝えられて無い気がするのですが…そこが力不足ですT_T
読んでくださった皆様、また感想など聞かせていただければ嬉しいです。お付き合いありがとうございました。