昨日はナツを学校まで迎えに行って、そのまま抱いてしまって。夜も何度もしてしまった。少し自制心が足りなかったと反省はしている。
 けれど、どうしようもなくて。不安に駆られて無理をさせてしまった。
 心の中の後悔を悟られたくなくて。きっとこんな事になってしまったのは、俺のミスだから。…ごめんね。
 そんな簡単な言葉も伝えられなくて。
 ナツは、疲れてしまっていて当分起きそうにない。
 本当に、いつまでたっても大人になれないな・・・
 俺はナツの寝顔に、軽くキスをして部屋を後にした。いい加減頭にくるし、そろそろ決着をつけなくてはいけないから。
 嫌がらせをされて、ちょっと落ち込んで甘えてくるナツはとってもかわいかったけど、またエスカレートしてナツに怪我をさせないとも限らない。
 足をちょっと引きずって歩く姿を見た時は、頭の線が焼き切れるかと思った。
 俺の大切なもの、たった一つの宝物を傷つけるなんて許せるはずもない。
「じゃぁちょっと出かけてきますので、よろしくお願いします」
 俺はリビングの掃除をしていた久保さんに声をかけて、玄関へと急いだ。
 お昼の用意はすませておいたので、後のことは久保さんに任せておいても問題はないだろうが、出来ればナツが起きるまでに戻ってきたいから。
 ベージュ色の別珍素材のテーラー襟ジャケットに、薄手のグレーのニットと同色のパンツという、いつもより少しラフな格好で出かけた。私用なのにスーツというのも変かと思ったのだ。
 奥様にお願いして調べておいた住所はここからすぐだったので、歩いて行く事にする。
 外は雲ひとつない見事な秋の晴天。明日も天気が良いそうだから、ナツと一緒に紅葉を見に出かけるのも良いかもしれない。
 二つ向こうの駅に大きな公園があるから、そこにお弁当を持って出かけてもいいか。
 昔一緒によく行った所。まだこんな風に付き合ったりするずーっと前。ナツがまだ小学生だった頃。奥様がお弁当を作ってくれて、ナツと私と真理子様も潤様と4人でよく遊んだあの場所。
 そうだ、久しぶりにそれもいいかもしれない。
 それはもう随分昔の事の様に思えるけれど、両親を一度に失くして空っぽになっていた俺が癒された場所。
「ああ、ここか」
 アパートまでの地図と、アパートの正面写真を目の前にある建物と見比べてみると、確かに間違いない。ここだ。
 考え事をしながら歩いていると、本当にすぐに着いてしまった。ここの203号室に冬木譲は一人で住んでいる。
 築年数は少したっているかもしれないが、そこまで古くもない下4軒上4軒の典型的な形。その2階の左から2番目の部屋。
 コンコン・・・・・・・・・コンコン・・・・・・
「――――はい?」
 2度目のノックで、扉の向こうから小さな声が聞こえてきた。
「おはよう、譲くん」
 それだけで名乗らなくてもわかるだろう。
 予想通り、すぐに扉が開かれて譲くんの驚いた顔が覗いた。
「・・・・圭」
「話があって来たんだ。入ってもいいかな?」
 譲君の顔が少しこわばっている。それもそのはずだろう。けれど、彼には俺を拒絶することなんて出来ない。
 その扉を開くしかない。
「どうぞ」
 予想にたがわずその扉は開かれた。俺はにっこりと笑ってあげる。
「ありがとう」
 通された室内は、驚くほどに物がなくて殺風景だった。5畳ほどのキッチンダイニングに6畳の和室。テーブルに机、少しの衣服とテレビ。わずかばかりの書籍。
 それだけに、彼の孤独と寂しさが伝わってくるようだった。
 少し自分の姿と彼がダブって見えた。佐々木家にすぐに引き取られた俺は、実際にこんな家に住んだ事はなかったけれど、あの頃の俺の心の寂しさはきっと今の譲くんとそんなには違わないだろう。
「どうぞ」
「ありがとう」
 勧められた椅子に腰掛けると、譲くんは慌てたようにヤカンに火をかけた。
「お茶しかないけど」
「気を使わなくていいよ。話がすんだらすぐに帰るから」
「――――そう・・・」
 けれど、譲くんはやはりこちらには背を向けたままだった。その背中が緊張しているのが分かる。どうしてこんな風になってしまったのかな。
 冷たく言わなければいいけな言葉が、少しつらいかった。
「単刀直入に言うけど、ナツに嫌がらせしているのは譲クンだよね?」
 譲クンの肩が揺れた。それだけで、返事を聞かなくたってわかる。
「それはどうして?」
「どうして?どうしてかなんて――――圭はわかってるでしょ?」
 譲クンは弾かれたように振り返って俺にキツイ視線を向けてきた。その顔が、少し青ざめていて可哀想だとは思うけれど。ここで止めてあげるわけにはいかない。
「譲クンの気持ちには答えられないよ」
 前にも繰り返した言葉を、俺は繰り返し告げた。
 1年前、お葬式の席で久しぶりに会った譲クンは少し疲れて見えて、声をかけずにはいられなかった。
 その時初めて知った。あんなに仲の良さそうだったが両親が、何年も前から別居状態になっていて、とうとう離婚する事になっていたなんて。
 それもお母さんの不倫が原因。家を出て久しいらしい。そして、最近になって見えてきた父親にも女性の影。
 ――――父さんは、母さんの事ずっと怒ってて離婚はしないって言ってたくせに、最近好きな女の人ができたらしくって、離婚しても良いって言い出したんだ。・・・離婚して、その人と再婚するって。
 諦めたように吐き出される言葉が痛々しくて、昔なじみなのも手伝って、困った事があったらいつでも相談にのると、言ってしまった。
 今思えばそれが間違いだったのか――――?
「あの時、抱きしめてくれたじゃないか」
「あの時の譲クンは泣きそうに見えて、今にも倒れそうで。励ましてあげたかったんだ。その行為が軽率だったのなら申し訳なかった」
 今にも泣きそうな顔になって飛びつかれて、まだ14歳の子供がこんな重荷を背負って心を痛めているのかと思うと不憫で、抱きしめてあげた。昔、泣き止まない子供だったナツにしてあげたように背中をさすってあげて。それは、弟を慈しむように心配するものでしかなかったけれど、彼を誤解させてしまったらしい。
「どうしてあいつなの?」
「さぁ・・・どうしてって言われても困るけど」
 本当にどうしてなのかなんてわからない。ただ、気付いたら恋をしていた。許されないとわかっていたのに。
 空っぽになってしまった俺を、佐々木家は暖かく迎えてくれたけれど、それでもどこか遠慮する気持ちは拭えなくて。それ以上に寂しさと孤独が覆いかぶさってきていた。そんな俺に、子供だったナツは純粋になついてくれて、俺を癒してくれた。
 そんなナツと一緒に過ごす時間がどんどん増えていって、ある日―――――――ふと、気づいた。
 自分の中でナツが特別な存在になっている事に。
 けれど、まだ小さな子供でしかなかったナツにそんな欲望を向けている自分が異常な人間なのだと思えた。きっと俺は頭がおかしいに違いないと思い悩んで、苦しかった。
 思い違いをしているんだと思うとして、それも出来なくて。もうどこかに消えてしまいたかった。自分の存在を消してしまいたいとさえ思っていたのに、それも出来なくて。どうしようもなくなって家にも帰れないで、友人の家を泊まり歩いた事もあった。
 それでもどうしても拭い去れなかった、ナツへの想い。
「気付いたら、心の中に住みついていたんだ」
 本当に、そんな感じ。
「僕はそんなの納得出来ない。認めない!あいつとは一緒にいた時間が長いから、そう思ってるだけだよ!もし佐々木と僕が反対だったら、圭は僕を好きになったかもしれないじゃないか!!」
「譲クン」
 そんな事はないと、首を横に振る。
 ナツと譲くんは全然別の人間で、時間や環境が恋をさせたわけじゃない。それだったら、あんなに悩んだ日々を送ったりはしなかった。あんなに苦しんだりしなかった。
 それはむしろこっちがナツに対して思っていること。自分の事ではない。
「あんな、執事なんて仕事に縛りつけているあいつが許せない!佐々木家も許せないよ!圭はもっともっと外にでて、会社でばりばり仕事している姿が似合うよ。留学だってしてたんでしょ?それなのに、どうして!?」
 譲クンが目に涙をためて叫んできたとき、
 ピュゥ――――――――!!
 ヤカンが大きな音を立てて、譲くんの体がビクっと震えて慌ててコンロを切る。その音に、少し頭が冷静になった。
「――――留学は、勉強目的じゃなかったからね」
「・・・・え・・」
「ナツが好きで好きで、どうしようもなくなってて。でも、諦めなくてはいけないと思ってた。でも、諦め切れなくて。俺も立派な青年だからね、どんどん欲望が抑えられなくなってた。だから、このままじゃいけないと、ナツの前から逃げ出す事にしたんだ。そのためなら、方法は何でも良かった」
 あの頃の俺は本当に煮詰まっていて、もうどうしようもなくなっていた。それでも完全に佐々木家から遠ざかる決心が出来なくて。
 ナツが、好意を持ってくれている事もなんとなく感じていて。悪魔がいつも囁いてきた。――――押し倒してしまえと。
 けれど、恩のある家の息子で将来があるのがわかっていて、しかも相手は中学生で。そんな事許されるはずもなかった。そんな事をしてしまえば、自分だって自分が許せない。
 ナツの好意は、きっと兄に寄せるような、身近な大人に憧れを抱くようなそんなものでしかないに違いないと何度も何度も自分に言い聞かせた。
 それでもどこかで淡い期待を捨て切れなかった。
 だから、逃げるように海外へと旅立った。
 それしか選べなかった。――――――――けれど
「俺は、卑怯な事を、した」
 もしかして、会いに来てくれるんじゃないか。もしかしたら、ナツの思いだって本当の恋なんじゃないかって。捨てきれない期待にしがみついて。
 毎日毎日待っていた。時々くる手紙が、どれだけ胸を焦がしたか。
 遠ざかって期間をあけることは、俺にとっての最後の賭けだった。これで思いが途切れればそんなもの。そう思って今度こそ諦める。けれど、けれどもし追いかけて来てくれれば、その時は――――――――
 そう思い続けて、毎日を送った。
 そしてあの日。
 ナツに言わせてしまった。
 春とはいえ、野外でどれだけ待ったのかわからない冷たく凍えた身体を抱きしめて、たまたま女友達一緒だったところに出くわして、泣きそうになって走り去ったナツ。なんとか追いついた俺に心細さと不安に震える瞳を向けて、おびえるように告白させてしまった。
 俺がナツを追い詰めてしまった。
 大人だから、真っ直ぐなままではいれなくて。ナツと俺では立場が違うから俺からは言えないなんて言い訳もして、相手は子供なんだからとナツの思いを疑うフリをして誤魔化して。
 手紙に返事も出さなかった。出せなかった。向かう事よりも、逃げる事を選んでしまって。
 俺は一生あの時のナツの顔を忘れる事は出来ない。
「わかんない。僕は納得なんか出来ない!!」
「お前に納得なんてしてもらわなくていい!!」
 ドン!!!――――思いっきりテーブルを殴った。
 せっかく冷静になった頭に、再び血が上ってしまった。けれど、頼むから勝手な事を言わないでくれ。
 一体何を知っている?
 何をわかっていると言うのだ?
 何も知らないくせに、中途半端な主張を押し付けてくるな!!
「ナツが好きだ。ナツだけが好きなんだ。他の誰でもない、誰にも代わりなんて出来ない。俺にとっての全てなんだ」
「――――圭・・・なんで?・・・なんで俺じゃあだめなの?あいつなんかなんでも持ってるじゃないか。あったかい家があって、経済的にも恵まれていて友達もいて、それにその上好きな人まで手に入れるの?なんであいつばっかり――――っ!」
 とうとう堪えられなくなったらしい涙が、譲くんの頬を伝い降りて。その場にしゃがみこんでしまう。
 譲くんは俺が好きなんじゃない。ナツがうらやましいだけ。ただ、寂しいだけなんだ。きっと、俺もあの時引き取ってもらえなかったら、俺だってこうなってしまったかもしれない。
 それが痛いほどわかるから、しゃがみこむ身体を助け起こしてあげたいけれど、きっとそれはしてはいけない事。
「俺にとって譲クンは、たった一人の弟のような存在だよ。だからいつでも相談には乗るし、手助けはしてあげたいって思ってる。でも、俺にとっての1番は、ナツだから――――ごめん」
「あいつは・・・圭をお金や恩で縛り付けているだけじゃないの?」
「違うよ。俺は何にも縛られてないよ」
 むしろ、縛り付けてほしいくらいだ。
 ナツがいつまで俺を好きでいてくれるのか、不安なのはむしろ俺の方。だからいっそ何かで縛って欲しいくらいなのに。優しくてそれもしてくれないんだ。
「・・・じゃぁね」
 台所の隅のしゃがみこんでうずくまっている譲くんに、俺はそれ以上言う言葉をみつけられなくて、そのまま静かに扉を閉めた。
 かちゃっと扉が閉まる音がするとともに、中から泣き声が聞こえてきた。
 ――――ごめんね。
 心の中で呟いた。
 もう少し時間がたてば、きっともっと分かり合える時がくるかもしれない。今度こそちゃんと好きな人ができるといいと祈りながら、俺は家路へと急いだ。
 時間はもう昼だ。さすがにナツも起きだしているだろうから。









 ――――かちゃんと、門扉を開ける音を立てる。と、同時くらいに玄関扉の開く音がして、俺はびっくりして顔を上げる。
「圭!」
「ナツっ、様――――どうしたんですか?」
 すっごい不安そうな顔をしているから、安心させるようににっこりと笑ってやる。そして慌てて中に入って、頭をぽんぽんと叩いてあげる。
「起きたら、いないから」
「すいません。ちょっと用事があって出てたんですよ。お昼までには帰るつもりだったんですけど、少し遅くなってしまいましたね。すいませんでした」
 いつまでも玄関外にいるわけにもいかず、背中を押して中に入らせる。すると、ぎゅっとジャケットの裾を掴んできた。
「ナツ?」
 あたりに誰もいないのを確認して、不安そうなナツの耳元でささやいてあげると、ちょっと耳を朱にして、睨んでくる。
 あーあ、そんな顔するとまた押し倒したくなるんだけどねぇ。無自覚に誘ってくるのが困る。
「また出かけるん?」
「いいえ。――――あ、後で一緒に買い物にでも行きませんか?」
「え?」
「上履きも買いに行かないといけませんし、・・・明日、子供の頃によく行っていた緑地公園にお弁当持って行きませんか?そのお買い物なんですが」
 今にも泣きそうだった顔が、途端にぱぁーっと明るくなって満面の笑みが顔に広がる。
「行くっ!!じゃぁー早くお昼食べるわ」
「え!?まだ食べてないんですか?」
「うん、だって心配で・・・食べる気―せぇへんかってんもん。でも、今はめっちゃお腹減った!!」
 ナツはちょっと照れたように笑って、廊下を駆けていく。
「ナツ様!廊下は走らない!!」
「はぁ〜〜い」
 上機嫌で返事を返して、やっぱり小走りで去っていくナツの後姿にため息をつきながら、お昼の準備を自分の手でするために、ナツの後を追ってキッチンへと向かった。
 早く食べさせて、一緒に青空の下買い物に出かけよう。










        ハナカンムリ    ノベルズ    トップ