響の1日
――――ん・・・ 少し暑くなってきた最近。響はその寝苦しさにベッドの中で身じろぎをした。布団は蹴飛ばされて少しズレたのだろうか、足だけがスースーする。 ――――あつい・・・ 起床が遅い所為か、部屋が寝るには日当たりが良くなり過ぎて困る。しかし、この暑さはなんだかそれとは違う気がすると、まだくっつきたがっている瞳を無理矢理こじ開けて見ると。 ――――ああ・・・ 暑い原因は、思いっきり人的だった。目の前10cmの距離にある咲斗の顔。その腕はぎゅっと響の身体を閉じ込めている。もちろん足も絡み合っているこの状況で、暑くないはずがない。 しかも、その上から布団がかぶっているのだ。たぶん、無意識に響は、唯一自由になる足先だけを動かして布団をどこかへやったのだろう。 ――――だめ、我慢出来ない じわぁっと暑いこの状況をなんとかしないと寝直せないと響は思うと、そーっとではあるが絡められた咲斗の腕から逃れようと動く。 「ん・・・」 洩れた声に、起きたか?と、それはそれで良いかと上目遣いで見てみても、咲斗は起きてはいなかった。 ならばと、さらに動いてなんとか咲斗の腕を緩めていく。ベッドの端はきっとシーツも冷たいに違いないと、響は頑張って身体をそちらへとズラしていく。きっとあそこは気持ち良いはずだ。 ――――もうちょい・・・ 咲斗の腕を緩めて、足をはずして、ああちょっと気持ちいいーと指先に感じた冷たい感覚にホッとした響がさらに逃れようとした時。 「だめ」 「えっ、うわぁ」 せっかく緩めた腕が、急に力を持って響の身体に絡みついて引っ張った。 「あついぃー」 不平を言うのは既に咲斗の腕の中。一瞬のうちに、先ほどの同じ体勢に戻ってしまっていた。 「はいはい」 咲斗はそういうと、手を伸ばして探って、ベッドサイドにあるリモコンを押す。クーラーを入れたのだ。 「ああもう、不倹約だよっ」 「・・・・・・」 「咲斗さん!?」 「・・・・・・」 ダメだ、寝ちゃったよ・・・ 確かに、起きる時間にはまだ後1時間以上あるけど・・・ 離れて寝れば涼しいし、クーラーだっていらないから電気代の節約になって、さらに地球にも優しいのに。 もう1度腕の中から逃れてみようかと一瞬考えるが、これ以上そんな事をすると後でどんな目に合うかわからないと思うと決心もつかなくて。しょうがない、ここは地球に我慢してもらうかと、ほどよく冷えて気持ちよくなった中で考えて。 響は再び眠りについた。 ・・・・・・ 「そろそろ短パンの季節かなぁー」 響は、キッチンに立ちながら独り言を呟いた。 「家の中ではいいけど、外では禁止だからね」 「うわっ、びっくりした。なんだ、あがってたんだ」 てっきり誰もいないと思って呟いた言葉に思わぬ返事があって、響は思わずビクっと身体を揺らした。振り返って見た先には、完全に乾いていない、まだ水っ気のある髪にタオルをかけて上半身裸にラフなイージーパンツ姿の咲斗がいた。 「風邪ひくから、上なんか着て」 「いいよ。どうせすぐ着替えるんだし」 「着てっ」 響はそう言うと、咲斗から目を逸らしてフライパンに集中した。 「ドキドキする?」 そんな響の態度に、笑いを含んだ声で咲斗が言う。 音も無くキッチンの中に入って来た咲斗は、フライパンでオムレツを作っている響の背後から抱きついた。 「うわぁっ、ちょっ・・・咲斗さん!」 危ないからっと、抗う響のわき腹に指を這わす。 「ドキドキ、するんだ?」 声が、とてつもなく楽しそうだ。あんな事もこんな事もしたのに、こんな事に照れる響がかわいくて仕方が無いらしい。 「咲斗さん・・・っ」 「んー?」 咲斗の右手は、わき腹かからどんどん下へ降りて内腿に滑り込む。唇を、首筋から肩に押し付けて、シャツから見えそうな場所をキツく吸い上げると響の体がビクっと震えた。 そんな響の反応に気を良くした咲斗の指がどんどん下って、響の中心を掠めて―――― 「ウッ!!」 かすかに鈍い音と共に、咲斗のうめき声が漏れた。 響が、咲斗の腹に肘を入れたのだ。 「響・・・、それはひどくない?」 大げさに腹を押さえて言う咲斗に、響はきりきりと目を吊り上げた。 「何言ってんの!そっちが悪いんだろっ。毎回毎回朝ごはん作るの邪魔するんだったらもう作んないぞ!!」 フライ返しをビシっと咲斗に突きつけて怒る響は、そりゃぁもうかわいいんだけれど本人はいたって真面目。 咲斗はここで押し倒したくなる衝動を毎朝必死で押しとどめる。だってそんな事をしたら本当にご飯を作ってくれなくなるに違いないのだ。 この、可愛らしい恋人は。 「それは困る」 「なら、ちゃんと上着て、新聞でも読んで待ってて。わかった?」 「はい」 一応素直に頷いて、咲斗はしょうがないとキッチンから出て行った。もちろんその顔は楽しそうにクスクス笑っていたが。 焦げたのは咲斗さんのにしてやるっ、なんて呟きだって愛おしい。 咲斗は言われた通りに簡単にTシャツを着て、テーブルに朝食の準備をする。今日はどうやら洋風の様だから、ナイフとフォークにバターやジャムも出して。 オーブンに入れられたロールパンとクロワッサンからいい匂いが漂い出す頃には、サラダとスープとオムレツもテーブルに並ぶだろう。それまで咲斗は、新聞を読んで待つことにした。 愛しい人のキッチンに立つ姿を横目で見ながら。 ・・・・・・ 「はい。え?私のエスコートで良いんですか?―――はい、もちろんですよ。――――――ええ・・・」 奥の部屋からは、咲斗の営業用の声が聞こえる。 その声を聞きながら、響はソファで新聞を広げていた。朝食が終わって洗い物も完了して、今日は洗濯はしなくても大丈夫だし、掃除はちょっとおさぼりしたから、少しゆっくり出来る朝、と言ってももう昼だけど。 新聞を読むようになったのは、仕事で必要に迫られて。響の働くバーでは常連も多くて、客に会話を求められることもしばしばある。その際出来るだけ相手の話題がわかる様にと、最低限新聞だけは読む様になったのだ。 最近は、咲斗に習って本も読み始めていたりする。 「ええ、では―――はい。失礼します」 携帯を片手に戻ってきた咲斗は、やっと終わったらしい電話を切ってテーブルの上に乗せる。 そしてソファに近づいてきて、ドサっと腰を下ろすとゴロンと横になってその頭を響の膝に乗せる。さらに乗せるだけじゃなくて、腕を伸ばして響の腰に回す。 「ん〜〜」 「どうしたぁ?」 声を漏らす咲斗に、こんな事もなれっこらしい響は動揺する事も慌てることも無く新聞をめくる。 「美容院を何軒も持ってる社長なんだけど、今度青山にあった店をリニューアルオープンさすんだって。そのオープニングパーティーでエスコートしてくれって」 「嫌なんだ?」 経済欄よりも、どうしてもスポーツ欄で手を止めてしまいながら響が言う。 「気前はいいんだけど、しつこいんだよなぁー。そのまま店で遊んで行ってくれるだろうけど・・・まぁ、良い人なんだけどね」 でも結構飲まされるのがね、しんどいんだと消え入りそうな声で言う。 「ベロベロになって帰ってきたら、ちゃんと介抱してあげるって」 「吐くかも」 「じゃぁー背中さすってあげる」 あー巨人だめだなぁーと呟きながら言う声は、本当に咲斗の話を聞いているのか怪しい気もするが。 「ほんとに?」 「うん」 「吐いても、キスしてくれる?」 「うーん・・・その前にちゃんと口ゆすいでくれるなら」 「ゆすがなかったら?」 「それは嫌」 それはたぶん、誰でも嫌だと思うのだが。その返事は不満だったのか、咲斗はぐりぐりと響の腹に頭をこすり付けてくる。 「苦しぃ〜からっ」 もう、とため息つきながら、響は咲斗の頭をポンポンと叩く。最近は仕事が忙しいらしくて、咲斗のストレスが溜まりがちなのを響も知っているから、ちょっと甘いのは仕方が無いか。 「響〜〜」 「なに?」 「夏は休みとって、どっか行こうね」 「・・・・・・」 「響?」 「近場ならね」 それは、先日も口論になった話。 「せっかくの夏だよ?リゾート地でバカンスしようよ」 「千葉?」 「海外」 「やだ」 「なんで?」 「だから、お金が・・・っ」 「そんなの俺が出すって」 「だから、そういうのが嫌なんだってば」 「なんでっ」 ピピピピピ・・・ピピピピピ・・・ 二人のにらみ合いに割って入るように鳴り響いた携帯の着信音。 「咲斗さん携帯鳴ってる」 「〜〜〜っ、この話は終わってないから!」 咲斗は諦めていない顔でそういうと、携帯を掴んで隣の部屋へと入っていった。 しばらくはこの話で喧嘩が起こりそうだ。 ・・・・・・ ピンポーンと、3時を少し過ぎた頃響の部屋のチャイムが鳴った。 「はーい」 誰が来たのかはわかっているので、響はパタパタと走って扉を開けた。 「おはよ」 「おはよう、由岐人さん」 出勤のお迎えに由岐人がやってきたのだ。 「ちょっと待ってて。―――咲斗さん、お迎え!」 響はそう言いながら、来たとき同様にパタパタとリビングへ戻っていく。 咲斗はちょうど腕時計をはめているところだった。 「今日はネクタイは?」 「無い」 「上着は持ってく?」 「うん」 なら良いかと、響は何もせずに咲斗を見つめる。 咲斗がネクタイを締めていく時は響が締めるし、咲斗が上着を着る時は響が着せる。だが、今日はどちらもいらないようだ。 「今日はほとんど中で事務処理の予定だからね」 「接客も同伴もなし?」 アフターは絶対しないから、聞く必要も無い。 「無し。響はいつもどおり?」 「うん、7時出勤だからもうちょっとのんびりしてから行く」 「昼寝しそうだったら、電話してあげようか?」 寝坊しないように起こしたあげようか?といたづらっぽく笑う咲斗に、いらないよと響は笑った。 「暑かったらクーラーかけてね。でも、風邪ひかないように」 言いながら、咲斗の手が伸びてきた。 「わかってるよ」 笑って言う響も、その手を抵抗することはなくて。半日の別れが、まるで1週間も10日も会えないかのように咲斗はぎゅった響を抱きしめる。その髪に顔を埋めて、それから耳にキスして、頬にキスして、唇にキスをする。 「・・・ん・・・」 軽く触れてから、深くなって。 「・・・っ、・・・ふぁ・・・・・・」 歯列を割って、舌を絡めて、吸い上げる。流れ落ちる唾液さえも愛おしいと言う様に、舌が動く。 「由岐人、さん・・・待って、る、からっ」 追いかけてくる咲斗の唇をなんとか離して切れ切れに言うと、もう1度唇を塞がれた。 「ねぇー!まだぁ!?」 すると、明らかに不機嫌そうな由岐人の声が聞こえてきた。 「ほらっ・・・」 「うん」 「置いてくからね!!」 「今行く!」 由岐人の声に、咲斗は響を見つめたまま言葉を返すと、もう一度だけと軽いキスをして、額にもキスを落としてようやく離れた。 「お待たせ」 「待たされた」 玄関に行くと、呆れ顔の由岐人が咲斗を睨む。 「ったく、僕が来る前に別れの挨拶しておいてよね」 「別れなんて縁起でもない言葉を言うな」 「はいはいはいはい」 聞いちゃあいないこの返事に、咲斗のこめかみがピクっと動くこんな光景も見飽きたもの。響は余裕の笑みを浮かべて手を振った。 「いってらっしゃい」 「いってきます」 そうしてようやく咲斗は出かけていった。 ・・・・・・ 咲斗が出かけてからしばらく、響はぼーっとしていた。 「暇・・・」 咲斗がいない部屋の中は、広すぎて。 今日は掃除機をかけるのをサボったから余計に時間があって。 さっきお風呂も洗ったし、洗い物も片付けた。明日、いいお天気だったら布団を干して洗濯をしようと思いながらソファでごろんと横になったのがいけなかったのか、開け放たれた窓からの風が気持ちよすぎるのがいけなかったのか。 いつの間にか響の瞳は閉じられて、規則正しい寝息が聞こえてきた。 もしかしたら朝、いつも人的な暑さの所為で予定より早く目を醒まされれるのが良くなかったのかもしれない。 トゥルルル・・・トゥルルル・・・トゥルルル・・・ ――――ん・・・ トゥルルル・・・トゥルルル・・・トゥルルル・・・ 「・・るさ、い・・・」 ――――・・・あれ?・・・あっ!ああ!? 響は、ドキっとしてパチっと目を醒まして跳ね起きた。 良かった、まだ外は明るい。 トゥルルル・・・トゥルルル・・・トゥルルル・・・ 「電話っ」 うるさいと思っていたのは電話の音だった。いつの間に寝入ってしまっていたのか、響は慌てて受話器を取り上げた。 「はいっ、えっと・・・藤原です」 鳴っていたのは、部屋の電話。 「やっぱり、寝てた」 「っ、咲斗さん!?」 電話の向こうから、クスクス笑う咲斗の声。 「うん。今日はのんびりって言ってたからね、絶対寝てると思ってた」 「う・・・」 楽しそうに言う咲斗に、響は思わず顔が熱くなるのを感じた。さっき言われたことが的中したことも、結局電話で起こしてもらった事も。ちょっと悔しくて恥ずかしい。 「身体、冷えてない?」 「へーき。窓開けてたから」 「えぇ?じゃぁ汗かいてない?汗が冷えると風邪ひいたりするから」 「大丈夫っ」 一体俺をいくつだとおもってんの?と響は思わず抗議の声を上げてしまう。大体にして咲斗は過保護過ぎると思うのは、響だけではないだろう。 「それより今何時・・・?」 そういいながら響は室内に目を向けると。 「5時前だよ」 「うわぁっ、出かける準備しなきゃ」 「うん」 「じゃぁね、ありがと!」 響はそういうと、あっけなくガチャンと電話を切って慌てて洗面所へ向かった。今から顔を洗って、ちょっと軽くパンでも食べて着替えないと。6時過ぎには出ないと間に合わなくなるのだ。 急がなくっちゃ。そう思ってる響は、電話の向こうで咲斗が、おはようのキスしようと思ってたのに、と不満そうに言っていたのを知らない。もちろん、その言葉を呆れ顔で由岐人にたしなめられていたのも。 ・・・・・・ 「おはようございます」 響はなんとか遅刻しないで店のドアを開けることが出来た。 「おはよう」 小城はすでに来ていて、なにやらツマミの仕込みをしていた。 「ピザですか?」 「そう。美味しそうなサラミがあったからね」 小城はそう言いながら、トマトソースにサラミとチーズ、胡椒というシンプルなピザを作っていた。後は牛肉の赤ワイン煮など。ここに来るのは2軒目という客が多いが、小城の料理の味を知っている者は、それを食べたさにやってくる場合も少なくないのだ。 響は奥で手早く着替えると、乱れた髪を手櫛で整えて。 「よしっ」 気合を入れてから、布巾を濡らしてテーブルやカウンターなどを丁寧に拭き出した。オープンの7時までに、棚に置かれている全ての酒を綺麗に拭かねばならない。そして、グラスも磨き上げる。 する事は、たくさんあるのだ。 最初の客は、7時半ごろだった。 「いらっしゃいませ」 既に顔見知りの常連客に響はにこりと笑顔を向ける。 「いらっしゃいませ」 「カレーとビール」 「かしこまりました」 男は小城に向かって、いつもの注文を口にした。この男は近くにある会社に勤めていて、週に1度は小城のカレーを食べに来るのだ。その状況からみて、独身なんだろうと響は思っていた。 小城のビールの注ぎ方から出し方、カレーの盛り付けからそれのサービスまでを響ははたからじっと見ていた。忙しくなれば見ていることも出来ないので、暇な時間帯だけが響の勉強時間だった。 小城の、つかづ離れずの接客と、上手い会話の取り方がいつも羨ましいと思いながら響は見ている。中々自分にはあの空気は出せていないとわかっているから。 ・・・カラン 「いらっしゃいませ」 次の客は男女のカップルだった。 「ビールと・・・?」 「キールロワイヤル」 「あと、チーズとハムの盛り合わせを」 「かしこまりました」 カップルはたまに見かける顔だった。響は言われたモノを手早く作って、酒を出してからすぐに料理も二人に出す。まぁ、料理と言っても切って盛るだけなので簡単だ。 その後は、一人、二人と客が入り出し。そう広くない店内は直ぐに人で埋まり出した。 響もカクテルはほぼ全て作れるようになっていたし、時々ではあるが、響贔屓のお客からはオリジナルで何か、と注文されることもあって。響は、今は仕事が楽しくて仕方が無かった。 今日はいつもよりも忙しくて、客との会話をゆっくり楽しむ間もなくカクテルを作り、料理を出して、独楽鼠のようにクルクルと動いて仕事をした。 ホっと一息つけたのは、夜中の12時を回った頃。やはり週末ではないので、皆終電に合わせたように帰って行ったのだ。 「お疲れ」 まだ後3時間ほどある仕事の合間にそう言われても、今の心境に違和感はなかった。 「お疲れ様です」 綺麗に洗った皿の、最後の1枚を拭きながら響は言葉を返す。 「それ終わったら休憩とっていいぞ。ピザか、カレー、後ソーセージもあるけど何がいい?ああ、サンドイッチも作れるな」 いつもなら日付を越える前に言われる言葉を、響はどうしたものかと考えていた。お腹の虫はグーグー鳴ってはいるのだが、この時間にあまり高カロリーなのも考え物だ。 「響?」 「うーん・・・、カレーを、ご飯少な目で」 「お腹減ってないのか?」 「いいえ、すっごく減ってますけど、こんな時間だし・・・」 「ああなるほど。―――まぁいいけど、別に響が太っても腹が出ても、あいつは愛想つかさないと思うけどな」 小城はクスリと笑いながらそう言うと、響は思わず頬を染めた。それでも小城はちゃんとご飯少な目でカレーをよそった。 「はい」 「ありがとうございます。すいません、お先にいただきます」 まだちょっと赤い頬で響はそう言うと、カレーとスプーン、水を持って奥へと入っていった。 パタンと扉が閉まると、小城は我慢出来ないとクスクスと笑い出した。あまりにも純な反応が、おかしくて、かわいくて仕方が無かった。 「なんか、俺も会いたくなるな・・・」 あいつもああいうカワイイ反応をするからな、と小城は自分の恋人を想って呟いた。そういう小城も、同棲しているのだから会いたくなるも何もないのだが。 そしてサービスとばかりに、小城は手際よくサラダを作って響に持っていってやった。 ・・・・・・ 「ありがとうございました」 「どうも」 最後の客が軽く会釈して帰って行ったのが2時を十分回った時間だった。彼もよく来る客で、この近くで自身も飲食店を経営しているらしい。その店が終わってから、いつも1杯飲みにやってくるのだ。 「さて、片付けよう」 今日はこれで終わりだろうと、響は洗っていないグラスに取り掛かった。グラスはどれもちゃんとした良い物なので、丁寧に洗って綺麗に磨き上げる。響はこの作業が結構気に入っていた。透明なグラスが一点の曇りも無く輝いて透き通る様は綺麗だと思うからだ。 その作業を何度も繰り返して、全てが終わると綺麗に並べて上から布巾をかけておく。お皿などの食器類も同様にしてから、別の布巾を濡らしてカウンターやテーブルを隅々まで拭いて、灰皿も綺麗に磨く。 その頃には時間はゆうに3時を回っていた。 いつの間にか外の電気は既に小城の手によって消されて、OPENの札もCLOSEに変わっていた。 「完了、かな」 「ああ、お疲れ様」 その時ちょうど奥から小城が出て来た。 「ありがとう、全部やらせて悪かったな。今日はもう上がっていいぞ」 「はい、お疲れ様です」 響はそう言うと、奥に戻って手早く着替えた。制服は自分で洗うことになっているので、今日着ていた物を鞄に入れて。着てきたデニムパンツにノースリーブに長袖シャツを羽織る。 もう1度買って貰ってしまった原付の鍵を握り締めてロッカーを締めた。 「じゃぁ、お疲れ様でした。お先に失礼します」 カウンターで酒のチェックをしている小城に響がペコっと頭を下げる。 「気をつけて帰れよ。危なそうなら、押して帰れ」 「はい、大丈夫です」 あの事故以来、小城は忙しかった後の帰りには必ず心配そうに眉を寄せる。それが、少しくすぐったい。 「じゃぁまた明日」 「おう」 カランと音を立てて、扉が閉まる。 シン・・・とした静寂は部屋に訪れる。次にその音がする時は、恋人が開ける時だろう。小城のその恋人が再び扉を押して音を鳴らすまで、タバコでもくぐらして待つのだろう。 ・・・・・・ 「ひゃぁー疲れたっ!」 響は辿りついた玄関先でそう声を上げた。靴を脱ぎ散らかして、鞄をソファにポンと置いて冷蔵庫を開けて、中に入っていたペットボトルをぐびぐび口飲みする。 「ぷはぁ〜」 まるで、ビールでも飲んでいるような声だが、間違いなく飲んでいるのはジュースだ。 そして響は、鞄の中から持ち帰ってシャツを取り出して洗濯籠に入れる。本当は今から洗濯機を回しておくと朝に干せていいのだが、咲斗がまだなのでそれは出来ない。 響はそのまま風呂場の扉を開けて、シャワーを浴びた。 本当は足を伸ばしてゆっくり風呂に入りたい気分なのだが、どうせ寝て起きたら風呂に入ろうと言ってくるのだから今はシャワーで良い。 響は勢いよく出たお湯を全身に浴びて、髪や身体についたタバコや酒の匂いを洗い流していく。 さっぱりして、短パン1枚で外に出てる。 「んー・・・明日は米、かな」 冷蔵庫を覗いて朝ごはんを考えて。冷凍庫に入っていた鯵の開きを冷蔵庫に入れなおして。お味噌汁は、たまねぎにしよう。余っているしとぶつぶつ呟く。 「ん〜〜冷奴にしようかなぁ、小松菜の胡麻和えにしようかなぁ・・・どっちも食べるかなぁ・・・」 まぁー明日咲斗さんに聞いてからでいいかと、冷蔵庫を閉める。 グラスに注いであったジュースを持って、寝室に向かう。借りてきていたDVDを見たいとも思ったけれど、今日はそんな元気もなくて。 寝室にあるオーディオセットに1時間のタイマーをして。ベッドにごろんと横になって、読みかけの本を広げた。 今読んでいるのは、本屋で平積みになっていた推理小説。何から読めばいいのかわからなかった響に、とりあえず興味のありそうなものを適当に読んで見るといいよと咲斗が言ったのだ。その中で自分の好きな分野や作家が見つかるから、と。 そして適当に買ってみた3冊の中のこの本が1番おもしろいと思いながら読んでいるのだが。 今日はお店が忙しくて、本当に疲れていたから。 15分もしないうちに、すやすやとした寝息が聞こえ出した。 ・・・・・・ 「・・・まったく」 それから1時間ほど過ぎた後。寝室の扉を開けたところで咲斗が苦笑を浮かべながらため息をついていた。 音楽は消えていたけれど、布団もかぶらず短パンのみでうつぶせになって寝ている姿。傍らには読んでいたらしい本が、開かれたまま半分響の顔の下敷きになっている。サイドボードには、氷が解けきったジュースのグラス。中身は半分も減っていない。 「風邪ひくよ?」 髪もなんだか半乾きで。 答えのない背中に問いかけて。密かな音を立ててベッドに腰を下ろす。まだ羽織ったままになっていた上着を脱いで、シャツのボタンを外していく。 そうしながらも、もう一方の手は響の髪を梳かし続けていた。濡れた髪に、眉をひそめながら。それでも愛おしくて仕方がないという顔で。 シャツの前を完全にはだけさせると、やっと楽になったのか咲斗は小さく息を吐いて。 「寝痕つくよー」 おかしそうにそう囁くと、そーっと響の顔の下に敷かれている本を抜き取る。 「・・・ん・・・」 「っ?」 起こしちゃったかと、慌てて顔を覗き込むと、すぐにまたくーくーと寝入る音がするから、どうやら大丈夫の様だ。 本当は服も何か着せたいのだけれど、さすがにそれは起こしてしまうと諦めて、掛け布団だけをそーっとかけて、飲む人のないグラスを手に咲斗は寝室を後にした。 咲斗は自分も何か飲もうと、グラスを空けて水で洗ってか冷蔵庫を開ける。たぶん響も飲んだのであろうジュースを咲斗も手に取ると、ふと目に止まる。 「ああ、朝は鯵なんだ」 そんな事が、なんだか物凄く嬉しくて幸せになる。大好きな人との生活がって、家庭があるような気がするから。 咲斗は冷蔵庫を閉めて、その冷蔵庫に背中を預けて笑顔を漏らす。その笑顔が、嬉しさと切なさに少し揺れて、瞳がうるんで見えるのは身体に入った酒の所為なのかどうなのか。 しばらく咲斗はそこでたたずんでいたのだが、ふっと顔を上げてジュースを飲み干して。グラスを洗って風呂場に向かった。 ――――昔、家庭が無いことをそんなに苦に思った事はなかった。けれど、響と生活を持って、それが寂しい事だったのだと知って。少し悲しくなる時がある。きっと、大切なものを知らずにきてしまったのだろうと思うから。 思う事はたくさんある。 感傷に浸ることも、過去にわだかまる思いが沸きあがるときも。 けれどもう、そんな事はいいんだ。 だから早くシャワーを浴びて響の身体を抱きしめて眠りたい。 コックを勢いよくひねると、シャワーが咲斗の身体に降り注ぐ。その、まだお湯になっていない冷たさがちょうどいい。くだらない感傷と、僅かに残る酒をふるい落としてくれるだろう。 ・・・・・・ 咲斗は裸で、タオル1枚で出て来た。雫が、首筋から胸元に流れ落ちるのがなんとも言えず色っぽい。濡れた髪を無造作に拭いて、今度は水を飲んだ。 その足でそのまま寝室へ向かうと、響がさっきとはちょっと違う体勢で寝ていた。髪はやっと乾いたのかサラッと額に流れ落ちている。 咲斗は布団の端をめくり上げて、スルっと中に身体を滑り込ませて、響の身体に腕を伸ばす。 「・・・ん?」 響がみじろぎしたのに、咲斗はなだめるように背中に回した手を上下させる。そうしながらも、足を響の足の間に割り込ませて絡めて。響の頭を抱えるように抱きしめた。 「・・・き、とさん・・・?」 「ん?おやすみ」 響の髪に顔を埋めて咲斗がそう言うと、響はその声に何かを感じたのかどうなのか、顔を上げて来た。 「ん?」 「どー、たの?なんか、・・・った?」 頭が半分以上寝ているのだろう。一生懸命しゃべろうとしている言葉が、舌足らずになってる。 「ううん、何も無いよ」 「ほん、と?」 「うん」 「じゃぁー・・・いい」 「うん」 「・・・した、鯵」 「うん」 「あーね、・・・やっこ、と・・・こ、まつな・・・ゴマあえ・・・」 「ん?」 「っちがいーい?」 「ああ。うん・・・胡麻和えかな」 「った・・・やすみぃー」 「おやすみ」 そっか、明日は鯵の開きと小松菜の胡麻和えなんだね。お味噌汁の具はなんなんだろう。まぁ、それは明日のお楽しみでいいか。じゃぁ、こないだ貰ったちりめん山椒の封を開けようかな。 この数時間後の事に咲斗が思いを巡らしていると。 「っ・・・、」 響の腕が伸びてきて、咲斗の背中に回されてぎゅっと抱きしめられた。最近は、暑いといって抱きしめられるのを嫌がるのに。 「・・・響?」 起きてる?と顔を覗き込んだら、もうすっかりクークー音を立てて寝入ってしまっている。 「・・・かなわないな」 咲斗は、ちょっと揺れた声で言うと、目をゆっくり閉じた。 きっと、今日も幸せな夢を見れる、そう思いながら。 明日も、あさっても、1年後も、5年後も10年後も、きっとこの腕の中には響がいるのだと思いながら。 ひたすらに甘い夢に包まれた。 ああそうだ、明日目が覚めたら、髪は乾かしてから寝なさいって怒らなきゃ。 |