空の向こう・後




 ――――うそ・・・・・・
 顔を上げて視線を向けた先には、松岡、直人、雪人、そして雅人の姿があった。直人は相変わらずのにやけた笑みを浮かべながら、軽く手なんか振っている。
 ――――なんで・・・?
 だって、来るなんて聞いてない。全然まったく何一つそんな話は聞いていない。そんなこと、想像もしていなかった。
 ――――信じられない・・・
 自分の卒業式に誰かが見に来てくれているなんて。誰かが来てくれているなんて。こんな現実。
 会社だってあるはずなのに、仕事だって。それに雪人には学校だってあるはずなのに、一体どうしたのだろうか。どうして皆がこんなところにいるのだろう。
 みんなの横を通り過ぎる時、気分が悪くなりそうなくらいにドキドキして、それでも綾乃は恐る恐る横目で視線を向けたら、雪人が手をぶんぶんと振ってきた。
 目の前の光景が信じられなくて、ビックリしすぎて思わず目を背けてしまったけれど、松岡の穏やか微笑みと、直人のにやけた顔と、雪人の無邪気な笑顔と、雅人の優しい笑みが綾乃の脳裏に焼きついた。
 嬉しすぎて。
 あまりに嬉しすぎて、もうどうしていいのかわからなくなりそうだった。
 さっきまでとはまた違う意味で、心臓が高鳴って、綾乃は自分が興奮していることを感じ大きく息を吐いた。
 ――――落ち着かなきゃ。
 綾乃は制服の裾をぎゅっと握り締めていた手を解いて、自分に言い聞かせる。
 ぎくしゃくとしながら歩いて教室まで戻ると、先に戻っていた女子たちが声をたてて騒いでいた。
「ねぇねぇ、見た!?」
「見たっ!ちょーかっこいいじゃん!誰かの兄弟とか親戚とかかなぁ〜」
「あーっ気になるっ。なんか大人な感じしたしねぇー」
「したしたっ」
「大人の色気っていうのー」
「色気って!!何言ってんのよーっ!」
「だってぇ〜!」
 クラスの中でもマセた部類に入るであろう何名かが体育館の方を眺めながら、黄色いはしゃいだ声をあげている。何か有名人とでも出会ったかのような盛り上がりように、綾乃はその光景を横目で見ながら自分の席に座った。
「ちょーまじもう1回見たいー」
 ――――僕の、知り合いだって知ったらみんなもびっくりするのかな?
「見たい見たい!」
 綾乃の心には、今までになかったなんとも言えない、―――得意気とでもいえばいいのか、そんな思いが芽生えていた。少し、自慢したい様な、そんな思い。
「手とか振ってみようっか!?」
「え〜、振り向いてくれるかなぁ!」
 地団駄でも踏み鳴らしそうな勢いで女子はさらに声を上げていたのだが、その騒がしさに水をさす様に、ほどのなくして担任が教室にやってきた。
 騒いでだ女子も、銘々に散らばっていた生徒たちも、慌てて自分の席へと戻っていく。
 ――――・・・・・・
 一瞬訪れる、静寂。
 こうやってここでこんな風に過ごすのもあとわずかな時間なのだ。今まさに、見慣れた風景がもう見ることのない風景へと変わっていく。
 さして好きでも嫌いでもなかった担任も、このクラスも。これで見納め。
 担任は教壇に立ってクラスを見回して、おもむろにゆっくりと口を開いて挨拶をした。そして、もっともらしい言葉を吐いて送りつけてくる。その、なにやら感動してしまっているらしい様子を、綾乃は冷たく見ていた。
 やはりあまり好きじゃなかったのかもしれない。なんだか、バカらしいとさえ思えているから。
 綾乃がそんなことを妙に冷静に分析しんがら聞いていると、廊下の方が少しざわついてきた。
「ああ、保護者の方々がこられたようだな」
 ――――え!?
 その言葉に思わず立ち上がってしまいそうなほど綾乃は驚いた。
「えっ!ちょっとさっきの人じゃんっ!」
「まじ!?」
「うっそ、誰の知り合い!?」
「こら!静かにせんか!!」
 一気にざわめきたった教室に担任の声が響く。
 綾乃はといえば、なんだかそちらを見ていいのか悪いのか一瞬身体が固まって、なんだか錆付いた音でもしそうなぎこちない動作で廊下の方へと首を巡らす。
 ――――っ!!
 やはりそこにはちゃんと4人の姿が、あって。しかも笑っていた。にこやかに。何度見ても信じられないけど、夢じゃないんだ。
「今から卒業証書を配るから、名前を呼ばれたら前へ」
 綾乃は担任のそんな声とかもうどうでもよくて、瞬きするのも忘れそうなくらいに4人を凝視してしまう。その視線の先で、雅人がゆっくり笑みを浮かべたのを目にすると、綾乃は急に恥ずかしくなってパッと目を逸らした。
 ドキドキして、両手をぎゅっと強く握り締めて、その拳を見つめてどれくらいたっただろうか。
「夏川綾乃」
「・・・っ、はい」
 呼ばれた声に我に返って、綾乃はガタッと大きな音を立てて立ち上がった。きっと回りは綾乃が何に慌てているのかわからないだろうけれど、綾乃は妙な緊張感と共にぎくしゃくと不自然な動きで前へと進み出て。
「おめでとう」
「・・・どうも」
 喉に言葉が絡んで上手く出てこなくて、なんて挨拶だろうと思うような単語が出てきてしまう。
「これからも色々あると思うけど、がんばれよ」
「・・・はい」
 その言葉に、綾乃は上目遣いでチラリと担任を見上げて見ると、思いのほか真剣な瞳にぶつかった。
「高校に行ったら、一人でもいいから友人を作れ」
「え・・・」
「きっと、夏川をわかってくれる奴はいるから」
 ――――なんで、そんな事・・・
 1年間、大して関わりも持たなかったはずなのに。そんな担任からのいきなりの言葉に綾乃は少し戸惑って、視線を逸らしてぺこっと頭を小さく下げて卒業証書を受け取った。
 言葉の意味がわからなくて、席について証書を筒に仕舞いこんで、少しの間それを綾乃は眺める。
 その時、卒業という言葉がズンっと心に迫ってきた。いきなり。
 過ぎ去ってしまえば短い3年間で、あっという間でしかなかったし、何も思い出すような事はないような気がするのに。いつの日にかこの日々を振り返って、懐かしく思う時も来るのだろうか。
 今はまだ、わからなくても。
「さて。全員卒業証書を受け取ったな」
 担任が、クラス中を見渡した。
「今日で、みんなは卒業だ。これからはそれぞれの道に進む事になる。この先何が待ち受けているのか、今は不安と期待でいっぱいだろうと思う。けれど、忘れないで欲しい。君たちの前には色んな未来があって、君たちはそれを自分の足で一歩一歩選んで歩いて行く事が出来る。時にはくじける事も、悲しいこともあるかもしれないが、けれど君たちの前には無限の可能性が広がっているんだ」
 ――――無限の、可能性・・・・・・
「望めば、なんにだってなれる!それだけは忘れないで欲しい」
 ――――僕にも・・・・・・・・・?
「いつかまた、会おう」
 少し涙を浮かべた生徒や、鼻をすする音も聞こえて、綾乃はクラスに別れを悲しんでいる人がいることを知る。
「先生からは、以上だ」
 泣けない自分は、やはり冷めた人間なのだろうか。
 先生の言葉も、なんだかどこか滑っていって、信じていいのか悪いのか、いや、信じる事なんて出来ない――――そう思っている自分がいた。
「起立!」
 最後の号令。
「―――礼っ、・・・さようなら」
「「さようなら!!」」
 席を立って頭を下げて、中学校生活が、今終わった。
 綾乃は頭を上げて、前を見つめて、慌てたようにがさがさと鞄に証書や荷物・紅白まんじゅうを直して、廊下に顔を巡らした。
 視線の先では、窓に手をかけて直人がひらひらと手を振っていた。
「・・・っ・・・」
 やっぱり、いる。
 綾乃はなんと言っていいのかわからなくて、少し困ったような顔を浮かべて廊下へと出て皆の方へと近寄っていくと。
「おめでとう」
「おめでとう!!」
「おめでとうございます」
「・・・おめでとうございます」
「――――っ」
 軽くかけられる声も、元気に掛けられる声も、落ち着いた声も、優しく響く声も、綾乃には全部が初めてで、嬉しくて。どう言葉を返していいのかさえもわからない。
 おめでとうなんて、言われたことなくて。
 ただ、式なんかじゃ、祝辞なんかじゃ、担任の言葉なんかじゃ全然泣けなかった綾乃の瞳に、涙が込み上げてくる。涙が込み上げてきて、クリアに見えていた視界がぼやけてきて。
「綾乃」
 優しい、なだめるような雅人の声に綾乃の瞳からはとどまる事の出来なかった涙が零れ落ちた。
 外野は、噂の男前たちが綾乃の知り合いだったことに驚いて遠巻きに見つめ、がやがやと騒ぎ出しているのに、綾乃はそんなことかまってられない。
 それどころじゃない。
「あーやちゃん!おめでとーっ」
 雪人には少し退屈な時間だったのか、しびれを切らして綾乃に駆け寄ってきて、ぎゅっとしがみついてきた。
「ん、・・・ありがと・・・」
 その雪人を見るために俯いた拍子に、ポタリと涙が零れ落ちて雪人の頬に落ちる。
「綾ちゃん?」
 驚いて見つめてくる雪人に、綾乃は誤魔化すように笑顔を作る。
「へへ・・・、なんか、びっくりしちゃって」
「雅人兄様がね、黙って行って驚かせようって!大成功だねっ」
 ――――雅人さんが!?
 綾乃は慌てて視線を上げて雅人を見つめると、やはり優しいままの眼差しにぶつかった。
「さて、帰りましょうか?」
 外野が少々騒がしすぎて、どんどん度が増して来ているのを感じる雅人はそう言って綾乃を促した。その言葉をきっかけに、綾乃は足を踏み出して、さらに雪人に手を取られるようにしながら歩き出した。
 他の生徒の注目を浴びている事なんか視界に入れている余裕もなくて、綾乃はただドキドキしながら廊下を進み、やっと昇降口までやってきたその時――――
「夏川くんっ」
「―――?」
 突然の声に呼び止められて綾乃が振り向くと、そこに立っていたのはたった今までクラスメイトだった女の子だった。
「あの、・・・っ」
 いつも明るくて豪快な感じの子が、少し口ごもるように俯いた。
「うん?」
 綾乃は雪人の手を解いて数歩、彼女に近寄った。正直ほとんど言葉を交わした記憶もない相手が、一体自分になんの用なのか綾乃にはさっぱりわからなかった。
「あのね、凄い前だけど、一緒に体育用具、あの、バスケットボールの籠運んだの憶えてる?」
「あー・・・えっと・・・」
 そう言われても、綾乃の記憶にはまったく残っていない。そんな事もあっただろうか、程度。
「その時、私が籠ちゃんと持ってなくて、こけて、籠からボールが転げ出ちゃって・・・」
「ああ・・・」
 そう言えば、そんな事があっただろうかとぼんやり綾乃は考えてみる。
「あのとき皆に怒られて、なんかさ、夏川くんが責められちゃって・・・、本当は!・・・本当は私が悪かったのに、先生に怒られるの嫌で私、夏川くんになすりつけちゃって」
「・・・うん」
 そういう事は、時々あることだった。何も言わない綾乃に仕事や用事、失敗を押し付けてくるクラスメイトも多かった。綾乃には保護者もいないから、後々親から文句を言われるような事にもならないと、わかっていたからだろう。
「ずっと、ずっと謝りたかったのっ。ごめんなさい!!」
 そんな事は、綾乃には既に諦めていた事なのに、女の子は潔く頭を下げた。ずっと、気にしていたのだ。
「高校行っても頑張ってね。わ、私がこんな事言うのも変だけど、夏川くんは、嫌な事は嫌ってもっと言ったほうがいいよ。あの、けっこう顔だってイケてるし、わ、笑った顔とかちょっとかわいかったしっ」
「・・・え?」
「け、結構女子の間じゃぁ人気あったんだからっ」
「え!?」
「じゃ、じゃぁね!!」
 女の子は最後はまくし立てるように言いたい事だけ言うと、勢いよく走り去っていった。
「・・・あ・・・の・・・・・・」
 その迫力と展開に、綾乃は言葉を発する余裕もなく、また思考もなんだかついていかなかった。意味をなす言葉を発しなければと思うのに、結局何も言えないままにその後ろ姿は綾乃の視界からは消えていってしまった。
「へー、綾乃も意外に隅におけないな」
「へ?」
 綾乃は直人の言葉に意味がわからないと、首を傾げる。
「直人様、からかうものではありませんよ」
 松岡のたしなめる声に、直人は苦笑を漏らして肩をすくめた。
 綾乃は呆然としてしまって気づかなかったのだが、走り去る女の子の耳が赤く染まっていたのだ。謝りたいという思いとともに、綾乃を気に掛けるうちに淡い恋心が生まれていたのかもしれない。
「さて、帰ってお祝いしなくては」
 止まってしまった足を、雅人が再び促した。ここでもなにやら注目を集めだしているからだ。
「ごちそう!!」
 そんな雅人の意図はまったく関係なく、雪人が思い出したように声を弾ませた。
「お祝い?ごちそう?」
「卒業の祝いですよ」
 4人の中に戻った綾乃は、雅人の隣で雪人の隣になる真ん中の位置へと入る。その斜め後に直人が歩いて、さらの半歩下がったところを松岡が歩いた。
 外に出ると、5人の影が地面に映し出された。
「今日はね、手巻き寿司!」
「手巻き寿司!?」
「今が旬の魚介類をたくさん取り寄せました。後、茶碗蒸しと初物の筍のお吸い物等もありますよ」
 ――――すごい、おいしそうー・・・・・・、でも・・・
 綾乃はまだ、そうやって皆で取って食べる料理は苦手だった。少しなんだか、心が萎縮してしまう。
「綾乃の卒業が嬉しくて、食べきれないくらいに色々取り寄せてしまいましたから、一杯食べてくださいね」
 そんな綾乃の気持ちなど、ここにいる全員にはわかっているから。きっと勝手に手巻き寿司を作っては、綾乃の皿に次々入れるのだろう。
 綾乃が食べ切れなくて根を上げる風景が、いとも簡単に想像出来る。
「デザートは、桜のロールケーキです」
 それももう朝には焼き上げて、今頃ほどよく冷蔵庫の中で冷えている。
「すごい・・・」
 ポツリと、思わず呟いてしまう綾乃に、直人はくしゃりと目の前にある綾乃の頭をかき回してやる。
「すっげーご馳走だぜっ、まじで」
 さらにくしゃくしゃに髪をかき回してやって愉快そうに笑うと、ちょうど、5人の影が正門を通り抜けた。
 いい思い出は少なかった中学校。
 綾乃にとって、今は振り返る余裕もないその後を、きっといつか笑って振り返ることが出来る日々がくると、雅人も、直人も、松岡も信じていた。
 なんの因果か関わりを持った、最初はどうなるかと思っていた綾乃を、いつしか家族の様に思い慈しんでいる南條家の今。もしかしたらこの出会いは必然で、4人にとっても必要としていた存在なのかもしれない。
 綾乃は知らないけれど、どこか空虚で、寂しさのあった家族に。

 その答えは今はまだわからない。

 ただ今は、春の穏やかな空が5人を包み込んでいた。









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