直人の1日・・・後



 その日の午後は特に問題も無くつつがなく仕事も終わり、直人にしては非常に珍しい事だが、夜7時前には帰宅する事が出来た。
 車が、門を通って玄関前で止まると、直人は久保が開けるのも待たずに自身でドアを開けた。
 久しぶりだなぁと、そう思っている自分に苦笑が洩れた。
「おかえりなさいませ」
「―――っ!」
 不意打ちでかけられた声に驚いて振り返ると、そこに松岡が立っていた。
「・・・ああ、ただいま」
 明らかに驚いて動揺していたが、直人は無理矢理平静を装って返事を返した。松岡も、そんな直人に何も言わず相変わらずの穏やかな笑みを湛えていた。
「ご苦労様です」
 久保にも、声をかける。
「いえ。――――直人様、明日はいつも通りお迎えに上がりますので」
「ああ」
「では、失礼いたします」
 久保は、用件だけを伝えると直人と松岡に一礼して車に乗って素早く出て行った。その車を、見送るほどの明確な意味も無く、なんとなくく直人が見つめていると松岡が声をかけた。
「直人様?」
「ああ、うん」
 いつの間にか、玄関扉を開けて待っている松岡を認めて直人は慌てて玄関をくぐった。
「あーおかえりぃ〜」
 途端に雪人がバタバタと走ってやって来るその姿に、直人の斜め後ろでため息をつくのが聞こえて、思わず苦笑を浮かべる。
「雪人、廊下を走ると松岡に怒られるぞ」
「あぁーっ」
 しまった、と思ったらしい。雪人が松岡の顔を窺って急ブレーキ。けれど、走り出した足は急には止まれなくて、そのまま前につんのめるようにして直人に抱きついた。
「おおっと。ただいま雪人。熱烈な歓迎だな?」
「へへ〜」
「雪人様・・・」
「ごめんなさぁい」
 怒られる前に謝ってしまえ、という姿勢になんとなーく自分に似ている気がして直人は思わず笑みを漏らす。
 不思議なものだ。半分しか、血は繋がっていないのに。
「腹減った。とりあえず着替えてくる」
 直人は僅かに振り返って松岡に言うと、雪人の頭をぐしゃぐしゃに掻き回してから部屋へと上がった。
 久しぶりに見る自室。
「――――」
 扉を開けた瞬間、そうかと、そう思った。
 想像したよりもムッとしていない室内は、日々窓を開けて風を通されていた事が窺われた。確か、前に帰宅した時は慌てていて部屋は散らかして出ていったはずなのに、今は綺麗に片付けられている。脱ぎ散らかした衣類は洗濯されて、クローゼットに直されて。行き届いた掃除がされていた。
 直人は、しばらくその部屋をなんともいえない思いで眺めていたが。小さく息を吐いて軽く首を横に振って、着替えるために衣服に手をかけた。
 ここには、何もかもが詰まりすぎていて――――――


   階下に下りてみると、なんと雅人はすでに帰宅していて綾乃の横、ソファに腰を下ろしてテレビを見ていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「直人さん、お帰りなさい」
 綾乃が直人に向かってにっこり笑う。それに直人は軽く肩をすくめて返事をした。
 綾乃の笑顔が少し眩しかった。
 ああ、幸せなんだなと思って。
 少し見ない間に、また成長したんだなと思った。
「さて、夕飯にしましょうか?」
「わぁーい」
 雅人の言葉に、二人の足元にいたらしい雪人が歓声を上げて立ち上がって、直人の腕を引いてダイニングへと足を向けた。
 待ちわびていたらしい。
「待たせて悪かったな」
「ううん」
「後で、成績表見せろよ?」
「うん!」
「お?」
 ちょっと意外そうな声を上げて、直人は眉を上げた。
「へへ〜」
 意地悪のつもりで告げた直人の言葉は、まんざらでもない雪人の笑顔で返されて、どうやらその意図は失敗だったらしいとわかる。
「なんだ、自信ありか?」
「後で、ね」
 焦らすように言う雪人は、どうやら本気で成績表に自信があるらしいとわかって直人は驚いた顔になって、笑みを零す。
 勉強があんまり好きでなく、甘えたの雪人は成績表ではあまり大きく褒められる事は無かったのに。
 自分の知らない間に、そうじゃなくなったらしいと直人は一抹の寂しさを胸に抱いた。
 綾乃だけじゃなく、雪人も成長していたらしい。
「わぁ〜美味しそう!」
 歓声に我に返ってテーブルを見ると、相変わらずの美味しそうな料理が並んでいた。
 雪人メインなのか、今日の夕飯のメイン煮込みハンバーグだった。それに野菜が添えられて。けれど食卓の風景は洋風ではなかった。白いご飯に味噌汁が添えられている。それ以外にも秋刀魚の煮付けや、きゅうりとクラゲの酢の物などの小鉢が並ぶ。
 ――――なんで、和食仕立てだよ・・・
 直人は、本日味わうなんとも言えない気分2回目のその心を押し殺して、自分の席についた。
 直人は、基本的に和食が好きだったのだ。
「では、いただきます」
「いただきます!」
「いただきますっ」
「いただきます」
 雅人の音頭で、手を合わせてそう言って箸を手に取った。こんな風に食卓に付くのは久しぶりだと思い、その久しぶりの食事は、――――――泣きたくなるくらいに美味しかった。
 こんちくしょうっと、言ってやりたくなるほどに。
 いたたまれなさに、走り出したいほどに。
 そして、なんとも言えず暖かかった。




・・・・・




 直人は成績表を広げて思わず目を見開いた。
「へぇーすげーな」
 声を漏らせば、その横には得意満面の笑みを浮かべた雪人が直人を見上げて座っている。その顔に台詞をつけるとすれば、褒めて褒めて、というところだろうか。しっぽがあれば、振り切れんばかりに振っているだろう。
「頑張ったでしょう」
 笑みを浮かべて言う雅人は向かいのソファに座り、その横には綾乃が座っていた。
「ああ、ホントだ。頑張ったな雪人。偉いぞ」
 直人はにっこり笑って、雪人の髪をくしゃっと優しく撫でてやった。
「へへ〜」
 雪人はとてつもなく嬉しそうににっこり笑う。
 雪人の成績表は、"がんばりましょう"はゼロで、"出来ています"と"よく出来ました"に丸が付いている。その"よく出来ました"が前よりもたくさんになっていたのだ。先生からの総評でも、最近は落ち着きが出て来て集中力が持続するようになった、友達とも仲良くやれていると、お褒めの言葉が並ぶ。
 それが、じんわりと嬉しさを呼び込んだ。
「学校、楽しんでるか?」
「うん!」
「そっか。良かったな」
 雪人の成長は、寂しさよりも嬉しさが大きかった。
「うん」
 かつて、たった一人で日本に戻って来た雪人。その直後は情緒不安定で、中々友人も出来ない時期もあった。理由もわからず、喧嘩して帰って泣いた日も。
 家族になろうと頑張った何年かの時間。
 それは、無駄ではなかった。そこへ綾乃が来たことが、雪人にさらに何か良い作用が働いていたのだろう。
 他人が、家族になる。
 家族になろうとする、その中で。半分しか血が繋がっていなくても家族になりえるのだと、幼心に何かを感じたのかもしれない。
 遠い昔。
 母を亡くしたあの時。
 自分も必死で家族であろうと、この場を守っていこうとした日々があった事を思い出す――――――
「直人兄様?」
「あ、ううん」
 一瞬自分の思いに浸りこんだ直人を、雪人がちょっと心配そうな顔で見つめていた。それに、なんでもないと笑ってやる。
「今日は久しぶりに一緒に寝るか?」
「いいの!?」  途端にぱぁっと雪人の顔が明るくなる。
 昔は、寝れないという雪人とよく一緒に寝た直人だ。
「ああ」
 自分も、昔は眠れないと添い寝をしてもらった事があった。母代わりだった、松岡に。
「やったっ。直人兄様と寝るの、久しぶりだよねぇ〜」
「だな」
 もう直ぐ小学校6年になろうというのに、兄と一緒に寝ているというのもどうかとは思うが。ついつい甘やかしてしまうのは、仕方が無いのかもしれないと直人の口からは笑みがこぼれる。
「最近中々帰って来ないんだもん」
「ごめんな。もうちょっと仕事が落ち着いたら、ちゃんと帰って来れるようになるからな」
「ううんっ。いいの。お仕事大変なのに。身体には気をつけてね?」
 ワガママを口にしたと思ったのか、ちょっとバツの悪そうな顔をして言い繕う雪人に、直人は申し訳なさが心に広がる。
 本当は、仕事じゃない。
 問題は直人の心の中にあるのだから。
「一緒に風呂も入るか?」
 罪悪感から口にした言葉は、だけど雪人に拒否された。
「ううん、僕お風呂くらい一人で入れるよ」
 雪人はそこで何故かちょっと威張った顔になった。
「もう大人なんだもん。じゃぁ僕先に入ってくるね!」
 雪人はそう宣言すると、一人でぱたぱたと走って行った。その後ろ、廊下でやっぱり松岡の小言が微かに聞こえたが、面食らったのは直人だ。
「つーか。一緒に寝るのは良くて風呂はダメって・・・」
 どういう理屈だと直人は苦笑を漏らすと。
「なんかね、学校でそういう話になって友達に言われたらしいんだよ。まだ一緒に風呂に入ってもらってるなんて、子供だって」
 綾乃がコソっと理由を打ち明ける。
「子供って、雪人はまだ十分子供だろう」
「そうなんだけど、そこはなんていうの?ね」
 クスっと笑う綾乃に、直人もいたづらな笑みを漏らす。そうか、雪人もそんな年齢かと思う。友達とそんな事を言い合って、意地を張ってそうやって段々男になっていく、そんな歳に。
 ああ、やっぱりちょっと寂しいな、と少し胸が痛んだ。




・・・・・




「お風呂ですか?」
「・・・ああ」
 雪人が風呂から出て来て、雅人と綾乃に先にどうぞと言われた直人が浴室に向かう途中、松岡に声をかけられた。
 合わせづらい視線を無理矢理向けるのは、直人なりの意思表示なのだろうか。意地かもしれない。
「仕事は順調ですか?」
「ああ、つつがなくやってるぜ」
 廊下の片隅、浴室の直ぐ目の前なんて場所で。
「そうですか。良かったです」
「うん」
 なんでこんな会話をしているんだろうと、思う。
「ちゃんと食べてますか?」
「ホテルだからな。料理は頼めばなんでも出てくるし」
「なら、いいのですが」
 ホテルの料理にホテルの部屋。それが味気無いはずがないのを分かっていても、今はそれを口には出来ない。そうしているのは自分なのだ。
「好き嫌いせず、食べてくださいね」
「あのなー」
「直人様は風邪を引きやすいのですから、気をつけて」
「いつの話だよ」
 不貞腐れた声を上げるのは、許して欲しい。
 雪人じゃないが、俺はもう子供じゃないと言ってやりたい。
「そうですね」
「ああ」
 熱を出した。子供の頃。
 よく、松岡の手を煩わせた。
 それは、優しすぎる記憶。
「じゃぁ風呂入ってくる。あんま雪人を待たすと拗ねるからな」
「ああ、そうでした。呼び止めて申し訳ありません」
 終わらした会話は、それ以上続けるのが辛かったから。
 そっけない態度を、今は許して欲しい。
 今はまだ、何もかもが甘く優しい思い出と記憶が切ない心が苦しすぎるから。思い出にも出来ず、忘れ去ることも出来ない。
「直人様」
「え?」
 浴室の扉に手を掛けたところで、呼び止められて不用意に振り返って視線が絡んだ。
 心臓が、痛い。
「ここが、貴方の家ですから」
 ――――ああ・・・
「わかってる」
 浮かべた笑みは、上手く出来ただろうか。
 直人はそれ以上の言葉を拒否するように、絡んだ視線を無理矢理引き剥がして浴室へと逃げ込んだ。
 叶わない恋。
 届かない想い。
 誰が悪いわけじゃない。ただ、こんなに好きでも、運命の糸は繋がっていなかっただけ。
 松岡の小指に絡まる糸の端を持っているのは――――――

 それがわかっていても。
 心がわかってくれない。

 ああ。
 こんな夜は、早々に雪人を抱き枕に眠ってしまおう。
 何も考えず。
 あの柔らかで優しい空気に、甘えてしまおう。

 ――――これじゃぁどっちがどっちを必要としているのか、わかったもんじゃないな。

 直人の苦い苦笑は、シャワーの音に掻き消された。












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