幸せな日常U・後
二人はそのまま足早にホテル本館へと戻り、客からの目を避けるようにさらにロビー奥の関係者用個室に入った。 「座ってください」 雅人は、綾乃の頬に触れてその冷たさに眉をしかめながら綾乃に椅子を勧める。 「うん」 「今直人を呼びますから」 綾乃は言われた椅子に腰掛けて、少し辺りを見回す。そこは、簡単な応接セットと電話、テレビしかない簡素な部屋だった。そうは言ってもその応接セットも絨毯も、十分に価値のあるものではあったのだが。 雅人は立ったまま携帯を取り出して、直人の携帯へ電話を掛ける。 『はーい?何〜』 「直人。何じゃありませんよ。それになんですかその電話の出方は」 雅人は、電話口のその間延びした声に思わず飽きれた声をあげる。それでも社長という自覚はあるのだろうかと思わずにはいられない。 『だって兄貴からだってわかってんだからいいじゃん』 「もし私の携帯を使って他の者が電話していたらどうするんですか」 『それだってどうせ久保だろ?いーじゃん。それより、用事は何?俺今忙しいんですけど』 小言なら聞きたくないと言わんばかりの直人の口調に、雅人の頬が引きつった。 「綾乃に会いました」 雅人の声のトーンが少し刺々しくなってしまうのは、この場合直人の自業自得だろう。 『え!?マジっ、つーかもう来た!?』 「もう来た、じゃありませんよ。こんな大切なものを忘れた挙句に届けに来た綾乃まで待たすなんて、一体どういうつもりですか!?」 『・・・・・・すいません』 これは分が悪いと思ったのか、直人の声がさっきとは打って変わって神妙なものになる。雅人にバレるなんて最悪のパターンだと、直人が内心毒づいているのは雅人には知られては不味い事だろう。 「まったく。――――で、今1階の奥にある控え室にいるのですが?」 『あ、すぐに久保に取りに行かせる』 「わかりました。待っています」 『お願いします』 これは後で顔を合わせたときに絶対に説教を食らうだろうと直人は覚悟しながらも、出来れば先送りしたいと、秘書で傍に控えていた久保に取りに行かせる事にする。 「まったく・・・」 そんな直人の考えはお見通しなのか、雅人は苦笑を浮かべながら電話を切った。 「直人さんなんて?」 「今から秘書の久保が取りに来るそうです」 「久保、さん?」 綾乃が少し不思議そうな顔をして首を傾げた。 「ああ、私の秘書の弟なんですよ」 「へぇー」 兄弟で南條家の社長秘書なんてよほど優秀なのだろうと、綾乃は感心しながら頷いた。そして、久保を思い出しながら、直人の方の久保も同様に振り回されているのかと思うと、それはそれで少し気の毒な気にもなって思わず笑ってしまう。 そんな事を考えていると、ほどなくして扉がノックされ、雅人は無言で立ち上がって扉を開けた。 「雅人様。申し訳ありません」 「いえ」 ――――あ・・・、似てるー、けど・・・・・・ちょっと違うなぁ 二人ともあっさり顔ではあるのだけれど、兄は髪を短めに切っているのに対して弟は少し長めで。その所為か、与える印象が少し違う。眼鏡を掛けている所為もあるのだろうか。 「えっと」 「あ、はじめまして」 綾乃を目に止めて少し戸惑った顔を浮かべた久保に、綾乃は慌てて立ち上がって頭を下げた。 「夏川綾乃くんです」 「ああっ、貴方が綾乃様ですか!はじめまして、私は久保和樹といいます」 そう言って、久保は顔を崩して人懐っこい笑みを浮かべた。 ――――あっ!この人ちょっと嵐の二ノ宮に似てるっ 「綾乃からの届け物はこれです」 雅人は久保に封筒を手渡した。久保は頭を下げてそれを受け取って、素早く中身をチェックしてホッとした表情を浮かべた。 「ありがとうございました。ご面倒をおかけいたしました」 「いいえ」 深々と下げられた頭に、綾乃は慌てて首を横に振った。 ――――なんだかちょっと・・・、あの久保さんよりかわいい感じ・・・ 「料理などの手配やセッティングは問題ないでしょうね?」 「もちろんです。パーティーは2時からですが、お客様は1時くらいから入られるかもしれませんので、それより前には受付を開けさせます。お料理は1時半くらいから随時運び入れます」 「わかりました。それで良いでしょう」 雅人は軽く頷いた。 「お客様には財界の著名な方もいらっしゃいますから。くれぐれも失敗のない様にお願いしますね」 「はい」 久保に言葉をかける雅人の横顔が、綾乃のよく知る表情とは少し違っていて。それが綾乃には新鮮でもあり、少しドキドキしたりもした。なんというか、新しい一面を発見した時の嬉しさと、なんだか少しの緊張感。緊張感は、もしかしたら久保のが綾乃にうつったのかもしれないが。 「では、後ほどパーティーの時に」 「はい。―――では、失礼いたします」 雅人の言葉にどこかホッとしたような表情を滲ませた久保は、雅人と共に綾乃にも一礼して、足早に室内から出て行った。 「お疲れさま」 綾乃は、雅人がため息をついたのを見て取って、思わず声をかける。 「いえ」 雅人は苦笑を浮かべて、緩く首を振った。 「あー・・・じゃぁ僕はこれで帰ります」 「え?もう帰るんですか?」 用事は済んだし、少し仕事の風景も見れて満足した綾乃は、これ以上長居するのもと思ったのだが、雅人は驚いた様な不満そうな表情を浮かべた。 「もう用事済んだし・・・」 「何かこの後予定が?」 「ううん。全然暇。だから―――ちょっとぶらぶらして帰ろうかな、くらい」 帰りもタクシーを利用するなどとそんな気はさらさらない綾乃は、のんびり電車で帰って、駅近くにあるレンタルショップでDVDでも借りて帰ろうか、くらいしか考えていなかった。 「お昼は?」 「まだだけど?」 綾乃の言葉に、それは良かったと雅人はにっこりと笑った。時間はちょうど12時15分前。 「私もまだなんです」 「うん?」 「しかもパーティーは2時からで、後1時間半くらい暇なんですよ」 本当は目を通しておきたい資料もあるし、最近気になって買ってみたある会社の株価や業績などもチェックしておいたりしたいのだが、雅人はこの際そんな事は無視することにした。 「少し、付き合ってくれませんか?」 「お昼ご飯?」 「と、話し相手」 「いいけど、パーティーで食べるんじゃないの?」 今食べてしまうと、せっかくのパーティーでの料理が食べられなくなるのでは?と思い綾乃は首を傾げた。だってせっかくのお料理を食べられないなんて、それはなんだか、勿体無い。 「立食パーティーですからね、あまり食べるって感じにはなりませんし。ああいう席では色々他の方と話をするのに忙しくて、案外食べ損ねるんです」 こういう機会だからこそ、普段面識のない者同士があちらこちらで顔合わせ。そして名刺を交換しあう。 「そーなの!?勿体無い・・・」 しかも、雅人ほどになればああいうパーティーの場で、本気で食事をするなんてわけにもいかないものだ。 「本当に。ですから、パーティー前に食べておかないと、しんどいですよ」 「そうなんだ。―――わかった。いいよ、僕でよければ」 納得したのか、少しの時間でも雅人と過ごせるのが嬉しいのか、綾乃はにっこり笑って大きく頷いた。 「綾乃以上の人なんていませんよ」 綾乃の言葉に、雅人はくすっと笑みを浮かべて。 「じゃぁ行きましょうか」 「はい」 本当なら手を取って、手を繋いで行きたいところだけれど、まさかこんな場でそんなことも出来るはずもなくて、雅人は諦めるしかない。 その代わり、部屋に入ったら思う存分抱きしめようと、雅人は心の中で企んでみる。 部屋に入って思いっきり抱きしめて、とりあえず思う存分キスしよう。廊下の壁に押し付けて、逃げられないようにして。 心一杯に、綾乃を感じたい。 くだらない会話も。くだらない相手も。神経がギスギスするようなやり取りも、嘘の笑顔で顔がこわばるのも、全部が我慢できるくらいに綾乃を補充しておこう。 ・・・ねぇ、綾乃。 綾乃を好きになって。綾乃に好きって言われて雅人は変わった。 陽子に負けない様に、今の立場を守り抜く事。それが全てだった。それが正しい道だとか、自分の夢なんだとかじゃなくて、たぶん、後妻へのただの意地。 雅人は子供の頃から、将来どうしたいかだとか何になりたいだとかそんな事を考える必要がなくて、ただ決められた道が当然なのだと思って、ただそうしていればいいと思っていた。それで当然だと思っていた。 今思えば、信念も、思いも何もなかった。 ただ、南條家というものにがんじがらめになっていた。 ――――でもね、今は違うんです。 仕事が、前と違う様に見えてくるようになって、感じられるようになった。仕事が、人生を賭けたゲームなのだと思うような余裕が出てきて、だからこそ、必死にもなるし勝ちたいと思う様になった。 それは、意地でしがみついているのではなくて、自分の実力を試したいと言う思い。自分がどこまでやれるのかを見てみたいという欲求。 その中にはいつまでも綾乃の目にはかっこいいと言う姿で映っていたいという、ただそんな思いも含まれていたりもして。 ――――だからずっと、傍で見ていてくださいね。 きっと、綾乃が傍にいなくなったら、それこそつまらないどうしようもない男になってしまうに違いないから。 「何考えてるの?」 穏やかな笑みを浮かべたまま、じっと見つめられた綾乃は少し照れたような顔で雅人を見上げた。 他の人は誰も乗っていないエレベーターの中。 くっつくように寄り添った綾乃に、雅人は内緒話をするようにその耳元で囁いた。 「っ」 途端に赤くなってしまう綾乃。 "好きです" たった4文字に、雅人はどれだけの想いを乗せる事が出来たのだろうか。好き過ぎて、きっと乗せきれない想いがたくさんあるから、何度でもその言葉を囁いてしまうのかもしれない。 「もう・・・」 照れて困った顔を雅人は満足げに見つめて、呟いた。 ――――でもね、綾乃。私は綾乃のためならいつでも、南條家を捨てられますから。 「え?・・・今なんか言った?」 チン・・・と音と共に目的のフロアに付いて、扉が開く。 「いえ?」 「そう?」 気のせいか、と呟く綾乃に、雅人はふと聞いてみたくなった。 「ねぇ綾乃。―――もし、明日私が無一文で南條家から追い出されたら、どうしますか?」 「どうしますかって?」 「付いてきて、くれますか?」 もし、全てを失くしたとしても。何も持たないただの男になってしまったとしても。 「何言ってんの。当たり前でしょ」 怒っているのか、照れているのか、綾乃の頬が赤く染まっていく。それだけで、質問が愚問だったとわかるのに。 「一気に貧乏生活ですよ?」 まだ尋ねてしまうのは、甘い言葉がもっと欲しいから。 「言っとくけど、僕は貧乏生活長いんだから全然平気なの。雅人さんなんかした事ないでしょ?だからそうなったら僕が付いてなきゃ困るんだから、絶対」 ――――ああ、照れてるんですね。 「そうかもしれませんね」 そう思った瞬間、胸が締め付けられた。 「そーだよ。―――何心配してんのか知らないけど、もしそうなったら僕がバイトして、雅人さんの面倒見てあげるから大丈夫だよっ」 どうせバイトとか出来ないだろうし、そう言って笑う綾乃の腕を、雅人は少し乱暴な仕草で掴んで引き寄せた。 「え!?」 「部屋、ここです」 雅人の声が、少し震えていた。 嬉しくて、愛おしくて大好きで。格好悪い事に、なんだか泣けそうにさえなってくる。 ポケットからカードキーを取り出すのもまどろっこしくてイライラする。早くこの扉を開けて、中に入って、早くその身体を抱きしめたい。 思いっきり抱きしめて、キスをして。 そして、この想いをもっともっと伝えたい。 昼食なんかじゃぁ、きっと何も補えないから。そのままベッドに押し付けてしまおう。 おわり |