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響の言葉は頭では理解できるのに、それでも由岐人は頷く事が出来なかった。ただ少し青ざめた顔で、響を見るだけ。その響は、晴れ晴れとした顔をして、強い瞳で真っ直ぐに由岐人を見ていた。 「俺ね、今すっごい幸せなの」 満面の笑みを浮かべて、響は由岐人に言った。 「え・・・?」 「凄い幸せ。そりゃぁ、色々あるし。今回みたいに悩んだり落ち込んだりすることもあるけど、でも俺は咲斗さんと出会って、初めて人を好きになるって事を知って。初めて人に好きになってもらえるって事を知ったんだ」 どこか冷めた目でしか人を見れなかった自分。愛だの恋だのと騒ぐ周りを、ばかばかしいとしか思えず、そうとしか思えない自分が寂しかった。 「由岐人さんや咲斗さんの過去があったから、俺たちは今こうしていられるんだよ?それがなかったら、俺は咲斗さんには出会えなかったかもしれない」 あの屋上で、響と咲斗は何か似た思いを抱えながら運命のように出会った。あの時は、そうとは気付かなかったけれど。 「俺は、凄い大切なものを手に入れたんだと思う。だから、もうそんな顔しないで」 響が少し困った顔をして笑った。だって由岐人が、響が今まで見たことないくらい頼りなげに、困った顔をしているから。泣きそうだから。泣かしてしまったらきっと剛に怒られるから、泣かないで欲しいのだ。 そして早く本当の由岐人との姿を見たいと思った。そんな由岐人を交えて、いつまでも4人でいれたらいいと思う。 そう思ったとき、由岐人の後に見えた人影に、響がホッとしたように笑った。 「・・・?」 何?と由岐人が振り返るよりも早く、その体が誰かの両腕に抱きしめられた。 「俺のいないとこで、由岐人を泣かすな」 「っ、剛!?」 自分より少し高いところから降りてくるその声に、由岐人は慌てて腕をふりほどこうと身をよじった。 「正解」 正面を向き合って、にっこり笑う剛の顔が由岐人の眼前に広がる。 「何してるの・・・、っていうかどうやって入ったの!?」 確かチャイムの音はしなかったはずだと思うと、今度は剛が鍵を掲げた。 「合鍵。咲斗にもらった」 「はぁ!?」 思わずその鍵を奪い取ろうと手を伸ばすと、一瞬先にパっと隠されてしまった。 「だめだろ、これは俺の鍵」 剛は笑ってそう言うと、勝手に廊下に出てすぐ部屋のドアを開けた。そこは10畳ほど広さの部屋なのだがまったく使われてはいない。 「あ、ここ空いてるな。ここにするか」 「何が?」 剛に続いて慌てて廊下にでた由岐人は、ぶつぶつ言う剛の言葉を不審げに聞き返した。 「俺の部屋」 「・・・・はぁ!?」 一瞬言われた言葉の意味がわからなくて、間が空いてしまった。その隙にというかなんというか、剛は玄関に出て扉を開ける。 「すいません、お待たせしました。荷物運んでください。荷物はこの部屋に運んで――――あ、その食器類はこっちのリビングに・・・ええ、お願いします」 「え・・・ちょっと・・・」 唖然としている由岐人の前を、どう見てみ引越し業者にしか見えない人が次々とダンボールを部屋に運び入れてきた。さらには机や、本棚が通り過ぎて。由岐人は慌てて剛を捕まえた。 「どういう事!?」 「どうって、見ての通り引越し」 「引越しって、聞いてない!!」 「今言ってるだろ」 「事後承諾じゃん!」 「だって由岐人、事前承諾じゃ、"うん"って言わねーだろ」 それはそうだ。絶対了承なんてしないけれど、だからといって人の部屋に勝手に越してくるのに事後承諾で良いとかそういう話ではない気がする。絶対に。 「だからって!!」 こんな不意打ちは困る。凄く困る。だって、だってやっぱり自分はまだ許されていないし、幸せになんてなれないし、剛を巻き込んでいいとも思えないのだ。 そんな由岐人の考えはもうすっかりお見通しなのか、剛がちょっとため息をつく。 「幸せになろうって言っただろ?」 「だからタイプじゃないってっ」 そんな、言い訳にもならないような、しかも明らかに嘘と分かる言葉をいまだについて、なんとかしようとしている由岐人に剛はいい加減腹がたってきていた。 「じゃぁお前は、俺じゃなきゃいいのか?俺意外だったら良いのか!?」 「・・・・っ」 「俺じゃない相手なら、幸せになろうとしてくれるのか!?」 「・・・だからっ」 ――――幸せになんてなれないんだってば。 「そうやって、いつまで逃げんだよ」 「剛っ」 だんだん怒っているオーラが隠し切れなくなってきた剛を、少し落ち着かせようと響は言葉をかけた。 けれど剛は言葉を止めなかった。必要な言葉だと思うから。 「全部自分の所為にして逃げて、そうやってんのは楽だろう」 「なっ」 その言葉に由岐人の顔色が変わる。腹立たしさに顔が赤らんで。けれど、それだけじゃない思いが胸にこみ上げた。 「お前に何が分かる!」 けれど、そんな事無視して、由岐人は怒鳴ってしまう。それに剛がさらに言葉を荒げた。 「ああ、わかんねーよ。全然わかんねー!!でもな、わかりたいって思ってる。そりゃぁ正直ビックリしたり、最初は引いたよ。でもな、だからって嫌いになんかなんねーんだよ!!仕方ねーだろ!!」 剛は大声でそう怒鳴り散らすと、足を踏み鳴らして廊下へと出て行った。そこには荷物を運び終えた業者の一人が立っていた。 「あ、の、サインを・・・」 剛の怒鳴り声にビビッたのか内容にビビッたのかは定かではないが、とりあえず少しおどおどした調子で書類とペンを差し出してきた。 「ああ、はい。すいません」 剛は少し苦笑を浮かべてサインをして、部屋を覗いた。 「よろしいですか?」 「エエ結構です。ご苦労様でした」 剛がペコリと頭を下げると、引越し業者はそそくさと部屋を後にしていった。その背中を見送って、剛は少し困ったように立ち尽くした。 引越し初日に、こんな風になるつもりではなかったのに。もっと優しくしてやろうって思うのに、どうもうまくいかない。そんな苦々しい思いを吐き出すように剛が深いため息をついた。 すると、カチャりと扉が開く音がした。 「咲斗っ」 「・・・どうした?そんなしけた顔で突っ立って」 上条のところから戻った咲斗は、響の書置きをみて階下に下りてきたのだ。 「ちょっと、な」 剛はバツの悪そうな顔で、軽く肩をすくめた。咲斗はとりあえず、剛の背中を押して再びリビングの扉を開けさせて中へ入ると、ソファで隣り合って座る響と由岐人がいた。 「咲斗・・・」 「由岐人。久しぶり」 自分を避けまくっていた由岐人に、ちょっと笑って言ってやると、由岐人は困った顔で目を伏せた。 「ごめん・・・」 由岐人は小さく呟いて、俯いてしまう。申し訳なくて申し訳なくて。いたたまれない。響の顔にはまだ怪我の跡が残るから。それに、まだ気持ちの整理もついていないのに、こんな風に周りから固められて、どうしていいのかもわからなかった。 そんな由岐人に、咲斗は優しい声をかけた。 「由岐人、顔あげて」 「・・・・・」 「由岐人」 促す言葉に、由岐人はしょうがなしにおずおずと目線だけをあげてみると、そんな態度に咲斗は苦笑を浮かべる。本当に怒ってもないし恨んでもないし、なんとも思っていないのに。やっとさらし合った傷が癒されるのは、もう少し時間がかかってしまうだろう。 「これ、誓約書」 咲斗は今さっき上条から渡された誓約書を由岐人の眼前に示した。 「誓約書?」 「なに?」 由岐人だけでなく剛も興味津々の目を向けてくる。ついでに響も。 「もうあいつに振り回されるのはまっぴらだからね。思い切って上条に相談したんだ。こういうことは弁護士より上条みたいなタイプじゃないと解決できないから」 正攻法よりも裏から。その読みはまさに正しかった。 「これ、・・・・・」 そこに書かれている内容を何度も目で追って、由岐人はなんと言って良いのかわからないらしい。奇妙に顔を歪めて、咲斗に視線を向けた。 「上条にコチラの事情を少し話したんだ。由岐人に黙って話を進めたことはごめんね。――――そしたら上条がちょうど今あいつと土地売買の話を進めている事がわかって。利用させてもらったし、利用してもらった」 「すげーじゃん」 少し笑って剛は由岐人を見た。由岐人はまだ信じられないのか、固まっている。響は上条うんぬんはよく分からないが、誓約書の内容に笑顔が浮かぶ。 「もうあいつが俺たちに近づいてくる事はできない。もし何かしたら、あいつの会社が俺たちのものになってしまうからな」 咲斗はにやりと笑って頷いた。 「ほん、と?」 「うん。本当」 咲斗はそういうと由岐人に近づいて、少し伸びた髪をくしゃくしゃっとかき回した。 「もう過去は終わり。過去は過去になったんだよ。もう全部思い出にしてしまっていい頃だ。―――― 一緒に、幸せになろう?」 由岐人は目を見開いて、唇をかみ締めて拭いてしまった。それは咲斗にとっては良かった事で、少し肩の荷が下りたけど。でも自分が幸せになるのとはやっぱり別な気がするのだ。 そんな由岐人を、咲斗は少し苦しそうに見つめるけれど。そんな思いを隠してすぐに笑った。 「俺は幸せだよ」 「・・・・」 「今、凄い幸せ」 きっと自分が幸せでいることが、由岐人の気持ちをやわらげるから。由岐人の、もう捨ててしまっていい罪悪感を、中々捨てられない思いを、軽くしてやれると思うから。 「俺も。さっきも言ったけどね」 へへっと響が笑う。 「逃げてねーで、次は由岐人の番って事だな」 剛の言葉に由岐人は少し剛を睨む。 その顔には、困惑の色がはっきりと滲んでいた。いきなりいっぺんに色々あって、ありすぎて、由岐人にはまだ気持ちの整理がつけれなかった。状況に、心が追いつかないのだ。 咲斗のもらってきた誓約書のおかげで、直接あの男から危害を加えられたり、自分の周りの人間が傷ついたりすることはなくなって。それは凄くホッとした。 しかし、だからといって過去が消せるわけでもなくて、許されるわけでもないから。響や咲斗が幸せで、それはそれで良かったと心の底から思えて嬉しいけれど。だからといって今すぐ自分が幸せになっていいのかどうか。由岐人は答えがわからなくて、思わず剛を見てしまった。 すると、剛はクスって笑ってきた。 ――――・・・むかつく その笑顔がむかついた。なんか、全部わかってるみたいな余裕な感じが。年下のクセに、ガキのクセに偉そうでむかついた。 むかつくのに、たまらなく好きだって感情がこみ上げてきた。 好き。 たった二文字のそれが真実。 でもまだ、そんな事は言えない。言っちゃいけない。言う資格も、――――勇気もない。 でも――――・・・・すき。 「なぁ、引越しそば食おうぜ!腹減った」 剛の提案に響が嬉しそうに笑う。 「僕もお腹減った」 「じゃぁ、出前でも取る?」 「えー勿体ない」 すぐ無駄遣いするんだからっと響はぶつぶついいながら、勝手に由岐人のキッチンへと入っていった。どうやら蕎麦を探すらしい。響にとって、出前は贅沢というイメージがあるらしいのだ。それに続いた剛も勝手にあちこちあけていく。 そんな無邪気で勝手な2人の姿を由岐人はじっと見つめて。 「・・・・ばか」 ぼそっと呟かれた由岐人の言葉は、傍らに立っていた咲斗にかろうじで届いて。咲斗は思わず苦笑を浮かべた。 幸せなんて、まだ怖い。そんなものに向き合う勇気なんて全然ない。けれど、さっきの剛の言葉は、由岐人の胸に刺さっていた。 "逃げてる" 確かにそれはその通りで、心のどこかでわかっていた。それでもずっと知らん顔してきた。それを認めたら、それと向き合ったら、自分が自分でいられなくなりそうで、立ってなんていられなくなりそうで。だから、言い当てられて指摘されて、泣き叫びたくなった。 ――――だって一人でなんて、向かい合えない!! 自分で自分を抱きしめて、時々襲ってくる悪夢に耐えて、潰れないように壊れないように自分を守ってくるだけで精一杯だったから。 でも、今は、・・・もしかしたらなんて思いが頭をよぎる。剛となら向かい合えるんじゃないか、そんな思いが。前へ進める気が、進んでもいいような気がしてくる。それは自分勝手な思い込みかもしれないけれど。 でもまだ怖い。――――怖い。 「由岐人?」 キッチンから剛が呼ぶ。 「由岐人っ!」 「えっ?」 呼ばれた事に気付かなかった由岐人は、ハっとして顔を上げた。 「蕎麦。ねーの?」 「・・・蕎麦?――――あ・・・っと、ほらこないだ響にあげなかった?」 確かもらい物があったのだが、こんなに食べないとその大半を響へ渡した気がする。 「あっ、もらった!あれならまだあるよ」 「じゃぁ上で食べる?どうせここにはそんなにお皿もないでしょ?」 咲斗が笑いながら対面式のキッチンにもたれるように立って笑う。 「そうだな。酒もねーし」 「酒?」 咲斗が眉をひそめると。 「だって引越し祝いっつたら、飲まなきゃな」 いやいや、誰も祝ってやるとも言ってなければ、引越し祝いで飲まなきゃいけないとも決まっていないのだが、剛は何か理由をつけて4人で飲みたいらしい。そんな剛に、響は思わず笑ってしまう。 「お酒あったかなぁ〜」 「響、カクテルとか作ってくれよっ」 「えー!?」 そういえば、色々あって咲斗に買ってもらった酒・道具一式は、手付かずでキッチンの棚にしまわれたままだった。 「それいいね。俺も飲みたい」 咲斗が珍しく剛の意見に賛成する。それに響はちょっと困った顔で咲斗を見上げた。 「でもまだなんにもした事ないから、おいしいのなんて出来ないよ?」 「いい、いい。咲斗が実験台になるから」 「おいっ」 上機嫌で笑う剛と、優しそうに笑う咲斗を交互にみつめて、響も肩を揺らして笑った。 「じゃぁ上あがろう。由岐人さんも、行くよ」 「え・・・」 ソファに座って3人の会話についていけず、その姿をぼーっと眺めている間になんだか勝手に話が進んでしまっていた。 咲斗が、響が、剛が次々に扉を開けて廊下へと出て行く後姿を、由岐人はただ眺めていた。廊下を歩く音が聞こえて、靴を履く音がして、玄関の扉の開く音がして、段々色んな音が遠ざかっていく。 もうすぐしたら、いつもみたいに静かな空間に戻るんだ、そう由岐人が思った瞬間、廊下をパタパタと歩く足音が戻ってきた。 「おいっ、何してるんだ」 いつまでたってもやって来ない由岐人を、剛が呼びに戻ってきた。 「なにって・・・」 静かな日常に戻るんだ。そう思うのに―――― 「蕎麦。腹減っただろう?あ、由岐人は飲みすぎだから、酒はなしな」 いたづらっぽく笑って差し出される手は、あったかそうで。 ドキドキドキドキ胸がなった。うるさいくらいに。 「僕は・・・」 「行かないってのはナシな」 言葉を先に言われてしまった。 「逃げるなっ」 「・・・・・」 「怖がるなよ」 「・・・うるさいっ」 ――――うるさいよっ。逃げて何が悪い。そうだよ、僕は怖いんだ。もう、傷つきたくないんだよ。これ以上お前を好きになるのが恐いんだよ・・・っ! 由岐人はぎゅっと目を瞑って俯いた。だって、やっぱり怖い。 「由岐人。俺はお前からは逃げない」 ――――・・・なに? 「絶対裏切らない。絶対由岐人を幸せにする」 強い言葉に思わず顔を上げて見上げた剛の顔は、言葉とは裏腹に優しい笑顔が浮かんでいた。その笑顔に、由岐人は思わず泣きそうになった。 もう、こんなにも好きになっているなんて。 「今は信じられなくてもいいよ。でも、とりあえず始めようぜ?」 そう言われて。先ほどから差し出され続けている手を由岐人は見つめた。 ――――この手を、取る? そう思った瞬間、心臓が痛いくらいにドキドキして。震えるように息を吸い込んだ。やっぱり恐くて、もう一度見上げた剛はさっきと変わらない顔をしている。 由岐人は、怖くてくじけそうな思いと、逃げてしまいたい気持ちと戦いながら、ゆっくり、そっと手を伸ばした。その手は剛に届くより前に、剛に嬉しそうに掴まれて。 引っ張られた。 無理矢理立たされて少しよろめいて、剛に受け止められる。 その腕の中の暖かさに、凍っていた由岐人の心と身体が少し、ほんの少し溶け出していく気がした。それはほんの一滴の雪解けかもしれないけれど。 「行くぞ」 少し見上げた視線の先には剛のうれしそうな笑顔があって。玄関には咲斗と響の笑顔があった。 「由岐人さん、早くっ」 ――――間違いじゃない。 この道は間違いじゃない。そう思えて。由岐人は、剛に腕を引かれるままに、ゆっくり一歩を、踏み出した。 その一歩は小さいけれど、由岐人にとって大きな一歩で、それはきっと、3人にとっても大きな前進。 だって、これが終わりじゃない、これが始りだから。
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