久々の学校に、綾乃は緊張のために朝からあまり食欲がなかった。 「綾乃!?」 さらに電車で通学する気もなくて、もしすると言っても雅人も許すはずもないのだが。二人は一緒に登校してきた。 どきどきしながら久しぶりにクラスへ向かう廊下を歩いていると、向こうから声があがって顔を上げた。 「綾乃だーっ!!」 「あ・・・・」 びっくりして、思わず足が思わず止まる。 けれど、綾乃の足が止まった代わりに、向こうから駆け足で近づいてくる人影――――それは綾乃の想像通りの人だった。 「・・・翔っ。はよ」 「綾乃―!!」 翔は両手を広げて全力疾走で近寄ってきた。 「翔っ、ストップ!!!」 翔は当然そのまま綾乃に飛びつく予定だったのだが、後ろから鋭く刺さった声に寸前のところでぴたりと止まった。 それはなんだか飼い主にしつけられた子犬の様な感じ。 「ん〜〜っだよ、薫っ!びっくりするだろっ」 「びっくりするのはこっちだよ。綾乃は病み上がりなんだよ?しかも手にはケーキを持っている。そんな人に走りこんで飛びつく奴があるかっ」 「あっ・・・・・・・そうだった。ごめん、綾乃。つい俺うれしくてさ。―――――身体、もう大丈夫なんか?」 やっぱり怒られた子犬の様にしゅんとなった翔が、綾乃に申し訳なさそうに尋ねた。 「うん。もう全然平気だよ。だから飛びつかれても全然いいんだけど、・・・ケーキがね、まずいかも」 綾乃は想像と違わないでいてくれた二人の姿に、うれしさと感謝の想いがこみ上げて胸が詰まる。それを隠すように少しおどけてケーキを掲げて見せた。 そして、ゆっくりと薫の方を見上げると。 「おかえり」 大体の事情を知っているらしい薫は、何も言わないで笑顔でそう言った。 「・・・ただいま」 綾乃は唇を噛む。なんだかこみ上げるものがあって、どうしていいのかわからない。 「おいおいなんだよそれ?そんなことよりケーキ、ケーキっと。・・・・二つだけ?」 「・・・え・・・足りない?」 昨日雅人に電話を入れてもらっていたので、松岡がケーキを二つ焼いておいてくれたのを朝受け取って来たのだがいくついるのか、綾乃も雅人もわからなかったのだ。 「どーかなぁ〜まぁいいや。ほい貸して。俺が運んでやる」 そいうと翔は綾乃の手からケーキに入った袋を取り上げて、元気よく来た廊下を走り出す。 「こらっ、ケーキ持って走るなっ!――――ったくもう」 その何も変わらない光景に綾乃はくすくすと笑い出す。 「綾乃も笑ってる場合じゃないから。後できっちり話し聞かせてもらうからねっ」 「えっ・・・あ、はい」 心配したらしいその少し歪んだ顔に、綾乃は背筋を伸ばして神妙に頷くしかなかった。 その顔を見るだけで、どれだけ心配させてしまったかがわかったからだ。 後でちゃんと話をしよう、そんな風に朝は思っていたのに、綾乃の考えは甘かった。 桐乃華の文化祭はそんなのんびりとした空気とはまったく無縁なのだ。それはもう想像を超えて忙しくて、薫とゆっくり話をする時間なんて到底なかった。 開門の朝10時を回ってすぐにお客が入り始めた店は、それからはずーっと目の回るような忙しさで、出される料理やお茶、デザートなどを綾乃は教室中所狭しと運びまわった。 店は若い女性と、なぜか年齢不詳な男性客で2分されて、普通の注文だけでも忙しいのにあちこちのテーブルで呼び止められては巻き込まれる会話に、綾乃はかなり参ってしまった。 「・・・・・・・疲れた」 2時を回ってようやく綾乃は控えの教室へと逃げることが出来た。 やはり予想通り、店の料理は全てが家から作って持ち寄られ、それを家庭科室で暖めたりして客に出したのだが。そこはそれ、みなお金持ちの家からの料理なので、おいしいのだ。 綾乃の持ってきたミルクレープも1時を待たずに完売となってしまい。明日は5つは作って来いと言われてしまったのだ。 「おなか減ったぁ」 朝は緊張のために満足に朝食を食べれず、昼は忙しさに食べれなかったので、もう綾乃のお腹はぺこぺこなのだが、疲労のため買いに行く気力もない。 それに、それより先に着替えなくてはならないだろう。 綾乃は改めて自分の格好を見て、深々とため息をついた。 ピッタリサイズのチャイナ服に、下は膝が見える丈のフレアースカートなのだ。裾からは中に着た白レースがたっぷりと見えている。それに白のルーズソックスときては、ため息しか出ない。 しかも上もノースリーブときている。働きまわっていたので寒くはないが、男がこんなものを着るなんて違う意味で寒いと思ってしまうのだが。 こんな服はとっとと着替えようと気合をいれて立ち上がると、ドアがノックされた。 「はい?」 「入ってもいいですか?」 「雅人さん?」 その声に綾乃は思わずうれしそうな笑顔を浮かべた。 「はい。失礼しますね」 雅人は扉をガラリと開けて笑顔で入ってきたのだが、綾乃姿を認めて一瞬こめかみがピクリと動いて笑顔を凍ったのだが、幸いな事に綾乃は気付かなかった。 雅人もすぐにそんな顔は引っ込めて、再び優しい笑みを浮かべる。 「お腹がすいているんじゃないかと思いまして、たこ焼きと、牡蠣のバター焼きに、とんこつラーメン、カツサンドを持ってきました」 とてもいい香りをさせた袋を軽く持ちあげて綾乃に示すと、綾乃の顔に満面の笑みが広がった。 「やったっ。ちょうどお腹減って減ってどうしようかと思ってたんだ」 「それは良かった。・・・・その前に着替えますか?」 雅人は窓際に置かれた机に買ってきたものを並べながら綾乃に言うと、綾乃はすっかり忘れてたことを思い出さされて、真っ赤になってしまった。 「着替えますっ」 綾乃は自分の制服を取り出して、慌ててスカートに手をかける。 「その衣装は、もらえるんでしょうか?」 「え!?―――――欲しい・・・ですか?」 雅人の意外な言葉に綾乃は驚いて顔を上げる。 「ええちょっと。こんな不特定多数の人に見せるのは甚だ不本意なんですが。・・・・その格好はかなり、そそられますね」 「っ!そ、そそそそられるって!!」 綾乃は何を言い出すのかと、とにかく慌ててスカートを脱いで制服のパンツを履いた。 いつもの雅人らしからぬ発言に、こんな格好をしているのがいけないのだと、上のチャイナ服にも手をかけて一気に脱ぐと、午後の日差しの中に綾乃の白い背中が浮かび上がる。 恥ずかしさからか少し赤くなって見えるけれど、滑らかな肌が美しい。 「・・・・良かった」 「え?」 小さく呟かれた言葉に綾乃は驚いて振り返る。 「腕に傷をつけられていたと聞いたので、もしかしたら身体には消えないような傷跡があるのではないかと、心配していました」 「あ・・・・」 雅人は直接見ることのなかった、叔母につけられた傷。直人から話を聞くだけでも、腸が煮えくり返りそうだった。 「もし、―――――もしも、身体に傷跡があるような事があったら、私は彼らをどうしていたかわかりませんね」 雅人は、瞳の色を暗く翳らせる。 きっと、社会的とことん抹殺してしまっただろう。それこそ、容赦なく。 「雅人さん」 さらされた肩口に雅人の手が少し触れる。そこから手を滑らして、綾乃の手のひらを取る。 「けれど、私も同罪ですね?綾乃の心を傷つけてしまった」 「そんなことっ」 そんなことはないと綾乃が強く首を横に振って、雅人の思いを否定する。 「そして、約束は出来ない。もしかしたらまた、綾乃を傷つけてしまうかもしれません」 「・・・・・・・え?」 雅人の告白に、綾乃の瞳が大きく見開いた。 「けれど、私の綾乃への思いはもう2度と揺らぐことはありません。それだけは、何に代えても誓えます。一生あなただけを愛しています。――――信じてくれますか?」 雅人がそっと綾乃の指に自分の指を絡めて、まっすぐに綾乃を見つめる。その瞳には、確かに揺るがない強さと、はっきりとした決意が滲んでいた。 その強い顔が好きだと、綾乃は今改めて思った。 優しく笑う顔も、あやすように微笑む顔も、真剣に仕事をしている横顔も全部好きだけれど、こんな風にまっすぐな雅人が、一番好きかも。 りりしくてかっこいいから、思わず見惚れてしまう。 色んな事をこれからもっと知って行きたい。 綾乃はゆっくり瞬きをしてから。 「はい」 静かに、けれどはっきりとその思いを乗せて返事をした。そこにまるで花が咲き誇るような、そんな笑顔で綾乃が笑う。 その美しさに雅人は一瞬驚いたように目を見張って、そして、尊い者へするように、綾乃の手の甲にキスを落とした。 「雅人さん・・・」 その姿が、何かの写真から抜け出したようにかっこよくて、綾乃が思わずぼーっと見つめてしまうのだが。 ぐ〜〜〜〜〜っ 「あっ・・・」 「くす。食欲が先でしたね」 しっとりとした甘い空気を吹っ飛ばすくらいに盛大になったお腹に、雅人がくすくす笑いながらその手を離すと、綾乃はいっそう真っ赤になって制服のシャツを羽織った。 恥ずかしさを隠すように勢いよく着て、椅子に座る。 「いただきますっ」 目の端が朱に染まっている。 「どうぞ」 雅人は、そんな姿が可愛くて仕方がないというような甘い視線で見つめて、勢いよくラーメンをすすりだす綾乃のために買っておいたお茶のキャップを回しておいてやる。 窓からは気持ちのいい秋風が吹いて、遠くに見える山が所々に色づき始めている。 「そうそう、松岡さんのケーキすっごく評判が良いんです!1時過ぎには完売しちゃって」 ラーメンを終えた綾乃は、今度は牡蠣に手を伸ばす。 「それはそうでしょう。小豆は北海道から取り寄せたもので、それを和三盆でじっくり煮たものらしいですよ。小麦粉にもこだわっているらしいですし、上からまぶしている抹茶砂糖の抹茶も京都の老舗から取り寄せたらしいです」 その懲りっぷりに呆れ気味で言う雅人に、思わず綾乃の手が止まる。 「・・・・そ・・・それ、凄すぎる気が・・・」 たしかにちょっと味見させてもらったケーキは吃驚するくらいおいしかったけれど、まさかそんなに手間隙とお金をかけているとも思わず。学校の文化祭用の物なのにそんなにかけていいのかと思わずそんな思いが綾乃の脳裏をよぎる。 「なんでもお店にだして売るとしたらワンカット900円らしいですよ」 「えっ!?」 ――――ワンカット900円・・・・ホールで7200円!?高っ。 「お店ではワンカット450円なんですけど・・・・」 「まぁ、900円では実際売れませんからねぇ。いいんじゃないですか?――――あ、このたこ焼きおいしいですね。はい」 「・・・・え」 おいしいと言うたこ焼きを、雅人は楊枝で刺して綾乃の口元へと持ってくる。食べさせたいらしい。 「口開けてくださいよ」 ちらりと上目遣いに雅人を見ると、とってもうれしそうに笑っている。 ――――・・・こんな雅人さんもあったんだ。 くすぐったいくらいに甘い新発見に、物凄く照れてしまっている綾乃は耳を赤くしながらも、口を開いてたこ焼きを食べた。 こんなこと、子供ころだってしてもらった経験ないから、照れてしまうのは仕方がない。 「あ、ほんとだ。おいしい〜」 「ねぇ。これは明日来る雪人にもお勧めしなければいけませんね」 「あ・・・・・・そうだ。明日みんな来るんだよね?」 「はい」 すっかり忘れていたのだが、直人は仕事の都合もあるとしても、松岡と雪人は絶対にやってくるに違いない。 という事はすっかり忘れていたのだが、あの格好を見られるということなのだ。 「・・・・嫌ですか?」 突然がっくりと肩をとしている綾乃に、雅人は不安げに尋ねる。 全ての問題がクリアになってやっと帰ってきてくれたのに、まだ何かあったのだろうかと急速に不安になったのだが。 「嫌じゃないんです・・・・・・・そうじゃなくて、あの格好を見られるのかと思うと」 情けない顔になって雅人を見つめる綾乃の顔に、雅人はホッとため息をついて、今度は安堵の笑みが浮かぶ。 「ああ・・・・」 確かにあの格好は、雅人には違う意味で異論がいっぱいあって、言いたいことも山ほどあるという立場なので、なんとフォローしていいものかととりあえず苦笑を浮かべる。 本当なら絶対許可なんかしたくなかった格好なのだ。もっての他だ。 あんな壮絶にかわいい姿を、綺麗な足を、人前になんて本当は絶対さらしたりなんてさせないのだが、今回ばかりはそこまで目が行き届かなかった。それよりも帰ってきてもらう方が先決で、気が回らなかった。 しかし実際昼間盗み見た綾乃の姿の衝撃は、計り知れなかったのだ。思わず乱入して連れ去ってしまおうかと思ったし、こんなことならあと二日柴崎家でのんびりしてくれば良かったと、心底後悔したのだ。 「やっぱり・・・・」 しかしそんな雅人の心のうちを知らない綾乃は、雅人の沈黙がてっきりあの格好がいい笑いものなのだと思い、力なく頭を下げる。 「まぁまぁ、朝比奈君も着てるんですから良いじゃはないですか」 「翔のはまだまし――――・・・・・」 そこまで話して、綾乃の顔が凍りついた。 「綾乃!?どうしたんですっ?」 にこやかに話していた顔が、一瞬にして表情を変えたので、雅人のほうもびっくりして顔色が変わる。さっきよりも、数段に青ざめた顔色。 「・・・・・・・・忘れてた」 「何をです?」 「・・・・・叔母が、来るって・・・・・・・・・」 唇までもが青くなっていく綾乃の様子に、雅人は慌てて綾乃の横へと歩み寄って膝を折る。 「大丈夫です。その事でしたら手は打ってありますから。明日は叔母さんも叔父さんも息子さんたちも、誰一人来たりしませんよ」 綾乃を安心させるように両手を握って、雅人は微笑んだ。 「・・・ほんと?」 「はい。安心してください」 そんな事は、雅人にとっては叔母が現れたとわかったその日のうちにはクリアにしてしまっていた程度の問題なのだ。 「・・・でも、どうやって?・・・・やっぱり、迷惑かけちゃった?」 それなのに、あの人たちがそう簡単に引き下がるはずがないと。きっと雅人の手を煩わしたに違いないと思えて、綾乃は申し訳なさで一杯になってしまう。 「迷惑なんて。あの程度の事は本当に大した事じゃありませんよ。――――綾乃の家出よりずっと簡単に解決しましたよ」 雅人が少しからかうように笑って、綾乃の身体をゆっくりと引き寄せた。綾乃はその力に逆らう事なく椅子から身体を滑らせて、雅人の胸にその頭を預ける。 「ほんと、に?」 「本当です。公の立場がお互いにあるとね、ちゃんとやり方っていうものがあるんです。そういうのがない間柄の方がずっと難しいって今回初めて私は学びましたよ」 本当に、今までやってきたようなセオリーもパターンも通用しなくて、全部関係ない、一人の人間として綾乃と向き合うことの方が雅人には1番難しくて、そして絶対に失敗できない出来事だったのだ。 だからこそ、本当にどうしていいのかわからなかった。 「だから、もう絶対家出だけは止めてください。何かあったら真っ先に私にぶつかってきてください。いいですね?」 「・・・・はい」 そんな雅人の思いがわかるのか、綾乃は小さくだがしっかりとうなづいた。 ――――何にもない自分だけど、それでも雅人さんに見合う人にいつかはなりたい。 今回の事で綾乃が心に誓った思いだった。 きっときっとそれは凄く大変で、もっともっと先のことになるだろうけれど、いつか。 そんな思いを乗せて、綾乃は人の背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。比較的ラフなスーツの生地に頬を寄せていく。 「綾乃・・・・」 「はい」 少し低音に響く雅人の声に、綾乃の胸がどきどきと高鳴った。顔を上げてみると、見つめ返す雅人の視線と絡まりあう。 雅人の指が綾乃の髪に優しく差し入れられて―――――― 「・・・残念」 雅人が綾乃の背中に腕を回して、少し意図をもって指を滑らそうかと思った瞬間に、廊下から人の話し声が聞こえてきた。 「あっ」 そのことに気付いた綾乃は慌てて雅人から身体を離して、元いた椅子にがたがたと腰掛けた。その頬から耳は真っ赤に染まっている。 「お楽しみは、とっておきましょうか」 雅人も膝を払って立ち上がる。 「え?」 その雅人を、まだ真っ赤になったままの綾乃が見上げると、雅人が口を耳元へ近づけてきて。 「綾乃の不安を取り除けて、私の欲求も満足できる事。――――今度はちゃんとスィートを用意しますね」 ――――!!! 真っ赤になった綾乃が思わず立ち上がると、ガタンと椅子が派手に後ろに倒れて、大きな音が部屋中に響き渡った。 終 長いお話にお付き合いくださいましてありがとうございました。WALL本編はここで完結です。 後は本編で少し削除したものや、積み残したものなどを単発で少し書きたいなぁ。なんて思ってますが。 いつも書き終わった後は、もう少し上手く書けたんじゃないか、とか、伝え切れなかったかなぁ、とか、心残りが先にたってしまいます。 しかも、桐乃華は私を結構苦しめてくれるので…(笑) 今後皆様は彼らのどんな話に触れてみたいと思ってらっしゃるんでしょうか?良かったらアンケートに答えてくださいね。 なんだか桐乃華には、こんな風に展開したいっていう理想があって、でも中々そこに手が届かなくて…もどかしいです。 皆様にも分かりにくかったり、もどかしかったりさせてしまっているかもしれませんよね。…精進したいです>_< 皆様のご意見を参考にしつつ、今後の展開を考えてきたいなぁと思っております。 ではでは、本当に長いお話をお読みいただきまして、ありがとうございました。 |