谷口は、野球選手としてけっして恵まれた体格ではない。
そんな谷口にとって、倉橋のもって生まれた素質、体格はのどから手が出るほど欲しいものだった。
しかし谷口には、そんなことを言っても詮ないことは十分わかっている。
それを補って余りある練習をつめばいいだけのことなのだ。
「俺みたいに素質も才能もないものはこうやるしか方法はないんだ」
そう言ったのは、まぎれもない自分自身なのだから。



しかし、ふとした時に、谷口は倉橋にもらしたことがある。
「お前の体がうらやましいよ」
谷口は、倉橋の太い木の幹のような腕をそっとさすってつぶやいた。
「けっこうトレーニングしてるつもりなんだけどさ、ちっとも太くならねぇんだ、俺の体」
そう言ってワイシャツの袖をまくって見せた腕は、全国制覇を成し遂げたチームのピッチャーとは思えないほどの細さだった。むしろ華奢、という言葉がふさわしい。
しかも、太陽の照りつける季節が過ぎると、すっかり日焼けも冷めて淡く白い肌になってしまう。
上背も170ないくらいで、とても野球部のキャプテンとは思えない体格である。それをうかがわせるのは、野球小僧を象徴するその頭ぐらいか。
しばらく自分の腕を見つめたあと、谷口はその大きな目で倉橋の顔を見上げた。
「でも、ガタイがよくたって、お前にかなう奴はそうそういないぜ」
そう言って倉橋は谷口の視線から逃げた。
谷口は何も言わず、納得できない様子で袖をおろした。
倉橋は、谷口の嘆くようなその言葉よりも、腕に触れられたその瞬間の自分の表現しようもない感情に激しく動揺した。




倉橋は、こんな自分が自分で理解できなくて嫌になる。
キャプテンの補佐役として、またキャッチャーとしての力量は自負しているし、谷口本人からの信頼もじゅうぶん感じている。
自分で嫌になるのは野球のことではない。自分の、谷口への感情である。
嫌悪感を感じたのは、腕に触れられたときが初めてではなかった。


練習試合を谷口の完投で勝利したある日、倉橋は谷口と同じ電車で帰途に着いた。
他の部員はすでに帰宅していたが、もう少しバッティングセンターで打っておきたいという谷口に、倉橋もあきれつつ最後までつきあっていたのだった。
バッティングセンターを出る頃には、日はとっぷりと暮れていた。
墨谷に向かう電車のこの車両には、気がつけば他に誰も居なくなっていた。
「一試合投げたあとだっていうのに、お前もタフだよなあ」
そう倉橋が話しかけても反応がなかった。
さすがに疲れたのか、谷口は、倉橋の左隣で居眠りを始めていた。
倉橋の肩に頭をのせて、かなりの揺れを感じても起きる気配がない。
倉橋は、谷口の右手にそっと触れた。

爪をはがし、骨を折りながらも、最後まで投げきった右手人差し指。一度は再起不能と思われそして見事によみがえった。
冷静に考えると空恐ろしくもある。谷口本人、恐ろしい人間なのかもしれない。
誰かが言っていたが、よほど神経が鈍いのだろうか。
倉橋は、その指をじっと見つめていた。
目の前の勝利のためには、明日を犠牲にすることをもいとわない。無茶で無鉄砲で向こう見ず。
その向こう見ずな姿にまわりの人間も巻き込まれていくさまを、倉橋はじかに見てきた。
いや、自分自身もすっかり巻き込まれているのを自覚していた。


しかし、細い腕を持つこのエースに、倉橋は複雑な想いを抱いている。
たとえば、今。隣で無防備に眠られたら、どう扱っていいかわからなくなるのだ。
結構な数の女とつきあってきた経験はあるはずなのに、谷口に野球から離れた素の表情でそばに居られると、まったく落ち着かなくなってしまう。女と居る時よりもよほど緊張する。
そんな自分が、倉橋には理解できない。
それなのに、左手は谷口の右手に触れたままである。
この嫌悪感。しかし、ここちよい嫌悪感。許されるならずっとこうしていたい、触れていたいと思う。
許されるなら――――そんな風に思うのは、こういうことが「許されないこと」とわかっているからなのだろう。
嫌悪感は、禁忌を犯しているような、そんな気持ちから出てきているのかもしれない。


「俺はきっと、こいつのことが、好きなんだろうな」
すぐ隣で眠っている谷口にすら聞こえないような声で、倉橋はつぶやいた。
好き。そういう言葉でしか表せないのがもどかしくもある。
恋だ愛だ、そんな俗っぽい言葉にしたくない想い。今まで女とつきあってきた時の感情と比べることなどできない。
強いていうなら、「大切にしたい」という想いだろうか。谷口の夢のためなら自分の何を犠牲にしてもかまわない、谷口を傷つけるものはなんであっても許さない。そう本気で思える。
だからこそ、この気持ちは明かしてはならないのだと倉橋は思う。
打ち明けて、そしてどうなるものでもない。谷口を無駄に混乱させ、あとには後悔が残るだけである。
自分の女房役が、そんな想いでマスクを被っていると知って、谷口は全力投球できるだろうか。
告白の結果は、自分にも谷口にも何ももたらさない。
ただ、今だけは。谷口の相棒という立場で居られる今だけは、谷口の一番でありたいと思う。谷口の夢を叶える力になりたいと、倉橋は思っている。









「おい、そろそろ降りるぜ」
肩を揺さぶられ、はっと目覚めた谷口は、あわてて立ち上がった。ドアに向かおうとすると、右腕を倉橋につかまれ、そのまま座席に引き戻された。
「次の駅だよ」
「…なんだ」
倉橋は、プッと吹き出して、笑った。谷口も照れを隠すように笑った。
それからふたりとも何も言葉を交わすことはなかった。しかしそこに流れるのは気まずい沈黙ではなく、ここちよい静かな時間であった。
次の駅に着くまで、谷口は眠りから覚めたばかりのぼんやりとした頭の中で、考えていた。
隣に居る倉橋という男のことを。


倉橋は、野球を通じてできた、自分のはじめての「同志」なのかもしれない、と思った。
けっして、墨二時代のチームメイト、墨高の他の部員が同志―――志を同じくする者ではない、ということではない。
しかし、谷口の牽引によって結果的に同じ目標を持つ者たちになった、というのが正確な表現だろう。
実際、墨二キャプテン時代の谷口はある意味孤独だった。
谷口の性格もあるだろうが、キャプテンとしての苦労をひとりで抱え込むことが多かった。
もちろん、丸井やイガラシに相談を持ちかければ喜んで協力しただろう。
実際、彼らに助けられたことは挙げればきりがないほどである。彼らがいなければあの墨二野球部をまとめあげることはできなかったはずだ。
でも、違うのだ。部員に協力を要請してそれに応えられるのと、倉橋の存在とは明らかに違うのだ。
谷口は、本当は倉橋のような人間がキャプテンの器なのだろうと思っている。実際、隅田中ではキャプテンを務めていた男だ。もちろん、倉橋は谷口をキャプテンとして立てている。キャプテンを差し置くなどということは、けっしてない。
しかし谷口にとって倉橋は、野球においてはまったく対等な、そして頼れる存在なのである。


青葉以外では、今まで在籍したチームで、谷口はチームメイトを引っ張りあげる立場であることが多かった。苦労も多かったが、そうして引っ張りあげていくことが、結果的に自分の力にもなったと思っている。
キャプテンという仕事も、もともと人の上に立つような性格でないと自覚していただけにできるはずがないと思っていた。
しかし、与えられた立場が人間を作るというのか、依存的だった性格から多少は成長できたんじゃないか、と谷口は思う。
期せずして与えられた試練によって成長させられたのは確かではあるが、やはりキャプテンは孤独だった。しかも、墨高では4人の先輩を抱える下級生キャプテンなのだ。部員の理解はじゅうぶんあるとはいえ、気苦労は多い。
キャプテンといってもまだ16歳の人間なのだから。皆の手本になって引っ張っていくだけではなく、弱音も吐きたいし、誰かに頼りたい。
そんなとき現れたのが、倉橋だった。


倉橋は、谷口が引っ張る必要がない存在だった。
実力はあるし、キャプテンの立場や苦労も理解していた。キャプテンの補佐として申し分ない男である。
そして、彼がふたたび野球部の門を叩いたその時から、なぜか長年コンビを組んでいたかのような安心感があった。
その安心感はキャッチャーとしてもいかんなく発揮され、ピッチャー経験がまだ浅い谷口にとって、ありがたい存在だった。
その安心感の理由はわからないが、とにかくキャプテンである自分の練習方針や目的を、的確に把握して、あるときは意見しながら実行に移す倉橋を、谷口はいつしか「同志」と見るようになっていた。
同じ目標を目指し、理解し合い、従うだけでなく、ときにはぶつかることもある「同志」。
違う言葉で表すなら「親友」というべきものだろう。しかし、野球というつながりが無ければ、ありえない出会いだったかもしれない。




短い時間に、谷口はおぼろげながら、この倉橋という存在の意味を確かめていた。
そして、なにげなく、また頭を倉橋の肩に乗せた。
その肩の感触に、倉橋は驚いて声をあげた。
「おい、また眠ったのか?」
谷口は、姿勢を変えないまま言った。
「いや、寝てないけど。…着くまで、こうしてちゃだめか?」
「……」

(いったい、どういうつもりなんだ。まさか、俺を煽ろうってんじゃないだろうな)
そんな、怒りにも似た感情が、倉橋の胸の奥にふつふつと湧いた。
「俺、なんか疲れちゃってさ。楽なんだよ、こうしてると」
けっしてほかの部員には見せないであろう姿を、倉橋には素直にさらしてしまう。
そして倉橋には拒絶されないという確信があるらしい。これが、谷口の天然たるゆえんだろう。
ある意味、罪な性格である。

倉橋は、谷口の肩を抱き寄せたい思いにかられながら、何も言わずそのままの姿勢でいた。
そして谷口に聞こえないように、小さくため息をついた。
* * *

次の駅まで
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