意気揚々と墨高に編入してきた丸井。
即戦力となるべく硬球にも慣れておいたし、すぐにでも谷口の補佐役におさまろうと野球部に入ってきた。
ところが、谷口キャプテンの体制はすでにできあがっていて―――それはまあ、しょうがないとしても―――谷口のそばには影のように寄り添う男がいた。倉橋である。
一度対戦したということもあるが、試合前にじゅうぶん偵察もしていたから、丸井は彼を知っていた。しかし、倉橋のほうはあまり丸井のことを覚えていなかったらしい。
谷口のことは忘れられなくても。
倉橋は野球選手として申し分ない素質と体格を持ち、実力もある。
しかも本格的にピッチャーとなった谷口を女房役としてリードしている。
チームではキャプテンの補佐的存在であり、なにより谷口から全面的に信頼されているのがじゅうぶんに見て取れるのだ。
どうしたって、今は彼の座を奪えるチャンスなどない。
丸井には、自分が谷口よりひとつ年下であるということすら、大きなハンデに思えた。
丸井は、谷口の家の前で、谷口の帰りを待っていた。
自分の練習の成果を見てもらい、そして指導してもらおうと思っていた。
というのは口実で、単に谷口に会いたかったのだ。
「まあまあ、丸井さん、タカオももうすぐ帰ってくると思いますから、中で待っててくださいな」
谷口の母親がそうすすめても、丸井はかたくなに外で待つと言った。
腕には、タイヤキが入った袋を抱えている。
待ちすぎて冷めかけているけれど、きっと谷口は「おいしい」と言って食べてくれるだろう。その表情を思うだけで丸井の頬もゆるんだ。
11月に入って始めての日曜日の夕暮れは、さすがにひんやりとしていて吐く息も白かったが、待つのは苦痛ではなかった。
「丸井?」
どのくらい待ったのだろう。声のするほうへ振り向くと、谷口がいた。
少し体より大きめなチャコールグレーのジャンバーにジーパンという姿。
「キャプテ…」
丸井は谷口に駆け寄ろうとしたが、すぐにその隣の倉橋の姿を認め、足を止めた。無意識に体が固まってまったのだ。
「どうしたんだ?俺に何か用だったか?」
その硬直した心と体を解くかのように、谷口は、いつもと変わらない穏やかな表情で丸井に声をかけた。
「い、いえ、たいしたことじゃないですけど…」
微妙な丸井の変化に気づいたのは、倉橋のほうだった。
「じゃあ谷口、俺、帰るわ」
「ああ、今日はありがとな。」
軽く頭をかき、さっと背中を向けてその場を去っていく倉橋を、谷口はしばらく見つめていた。
このなにげない、気安いやりとりが、丸井にはうらやましくて仕方がなかった。
複雑な表情で黙っていると、谷口は丸井の顔をのぞきこんだ。
「寒かっただろ?うちに入ってればよかったのに。おふくろも気がきかねえなあ。とりあえず入れよ」
谷口は、丸井の腕をつかんで家に引き入れようとしたが、その腕を振りほどかれてしまった。
「い、いいんです!おばさんも言ってくれたんですけど俺が勝手に外で待ってたんです。あの…お疲れみたいだし、またにします」
丸井は、谷口の胸にタイヤキの袋を押し付け、走り去ろうとした。
「丸井、待てよ」
引き止められ振り向いたときの丸井の顔を見た谷口は、一瞬不思議そうな表情を見せた。
「寒い中ずいぶん待ってたんだな。顔がまっかだぞ」
そう言って、タイヤキの袋をわきに抱えると、丸井の頬を両手で包んでやった。
そのてのひらの温かさに、丸井は全身の力が抜けるような感覚をおぼえた。
「あ、あの…見てくれませんか、俺の練習」
丸井は、肩からかけた鞄からグラブを取り出した。それを見た谷口は、ぱっと表情を明るくした。
「練習?ああ、そのために待ってたのか」
「…いいですか?」
「いいよ。でもその前に、このタイヤキを食べていこう。でないと、また俺、タイヤキのこと忘れそうになるもの」
ニッと谷口は笑った。
丸井が墨高に編入してきた日、谷口は「編入祝いにタイヤキをおごる」と言いながら、その道すがら河川敷で丸井の特訓を始めてしまった。
結果、タイヤキのことはすっかり谷口の頭から忘れ去られてしまったわけだが、谷口はそのときのことを言っているのだ。
丸井はそのことを持ち出されて、嬉しくなった。
あの日のことは谷口なりに悪かったと思っているらしいが、その後、なにかフォローがあったわけではない。
今日だってべつに谷口からのおごりではないけれど、そういう天然さが、とてもいとしく思う。
丸井にとって谷口は、心から尊敬できる人であり、年上ながら可愛らしく思える人なのだ。
谷口は丸井の肩に手をまわし、家の中に引き入れた。
「今日は、倉橋さんと出かけてたんですか」
谷口の部屋で、フライパンで温めなおされたタイヤキと熱いお茶を口に流しこみながら、丸井は平静を装って訊いてみた。
「うん。このあいだ、父兄会が寄付してくれただろ。そのお金でボールとバットとヘルメットを買うことに決めたじゃないか。それを見に行くのにつきあってもらったんだ」
「そうなんですか」
「あいつ、いろいろ知ってるからな。どこの店が安いとかどこのメーカーのがいいとか。俺、そういうのに全然うといから助かるよ」
谷口はにこにこしながら、どんどんタイヤキを口の中に放りこむ。
丸井はこの無防備な相手に対して、核心を突くつもりで言った。
「…キャプテンは、倉橋さんのこと、すごく信頼してますよね」
「ああ」
谷口は間髪いれずに即答した。
その反射的な答えに、丸井は少し落胆した。その声にゆるぎないものを感じたからだ。
そんな丸井の気持ちに谷口が気づくはずもなく、続けた。
「俺、1年生でキャプテンに指名されただろ。それだけ認められたんだって嬉しくもあったけどやっぱり不安だった。でも、倉橋が入ってきてくれて、すごく救われたんだ」
谷口は、目の前の丸井を見ていなかった。ここにはいない、よき相棒である倉橋のことを見ているのだ。
「同級だけど、野球のことはよく知ってるし、リーダーシップはあるし、それにあの体格だろう。かなわないなって思うよ」
そう言う谷口の表情は、けっしてくやしがっているのではなく嬉しそうである。
中学時代から、孤独に練習する姿やナインを鼓舞する姿、あるいは野球選手生命を絶たれたかに思われ失望する姿を見てきたが、誰かのことをこんなふうに語る谷口を見るのは初めてだった。
まさに人柄に、才能に惚れ込んでいるのが見て取れるのである。
丸井にとってそんな谷口を見ているのはつらいことだった。そして、谷口にそこまで信頼されている倉橋に、嫉妬した。とてもうらやましかった。
丸井がなにより欲しいもの、それは谷口からの信頼なのだ。
『頼りにしてるぜ』
そのひと言で、どこまでもがんばれるのだ。
確かにどれをとっても、今の丸井は倉橋にかなうものを持っていない。
それでも、それでもと思う。
「か、かなわないなんて。キャプテンは体格を補って余りある努力をしてるじゃないスか!」
少し興奮気味な丸井に、谷口はきょとんとした。
そしてすぐに笑った。
「もちろんだよ。俺は生まれつきの体格なんかに負けない。そんなこと言い訳にならない。練習量で倉橋に負けてるなんて思わないし、骨折にだって負けなかったんだからな」
谷口は、両手を丸井の肩にかけて、ポンポンと軽くたたいた。
寒空の下、頬を暖められたときのような脱力感に襲われた。
『…ああ、やっぱり俺は、この人にはなかわない。初めて会ったときから、俺はずっとこの人を理想としてきた。そして、きっとこれからもそうなんだ』
丸井は、谷口のそのひと言と笑顔で、体を熱くした。
「俺は…俺は、頼りになりませんか?」
「お前?」
谷口が4つ目のタイヤキの頭をかじったところで、丸井は思い切って言った。
即答はできないらしく、谷口は、もぐもぐと口を動かしながら考えていた。
丸井は両膝にこぶしを置いて、答えを待っている。
「お前ね…まだまだだな」
「えっ!」
意外なほどのショックな表情の丸井に、谷口はまた肩をたたいて笑いかけた。
「うそうそ、頼りにしてるよ。ほんと」
丸井は、谷口が天然なのか自分を振り回そうとしているのかわからなくなってきた。
しかし谷口の本性がどうであれ、自分は谷口から離れることはできないのだということを、いやというほど思い知らされたのだった。
外に出ると、日が落ちたばかりの西の空に、明るくひとつ星が輝いていた。
それに気づいた谷口は、わぁっと感嘆の声を上げた。
「一番星だ。きれいだな」
そして、しばらくふたりで空を見上げていた。
丸井は、谷口の横顔を見ながら、谷口こそが自分にとっての一番星なのだと思った。
宵の明星は、隣の細い月がかすむほどに明るく輝いていた。
「さあ行くか、丸井」
「はい!」
「神社まで走るぞ」
「はい!」
一番星