谷原高との練習試合。それは、谷口たちに甲子園への道ははるかに遠いということを思い知らせるものとなった。
泣き出したくなるような敗北感だった。
試合のあとにも練習。とにかく練習。
自分を追い込んで、そしてなんとか持ちこたえている。そんな状況に身を置かないと、壊れてしまいそうになる自分を、今日の谷口は感じていた。
その危うさに、倉橋も気づいていた。



「谷口、今日、俺んちに来ないか」
練習も終わり、着替えをすませ帰ろうとする谷口に、倉橋は声をかけた。
「お前のうちへ?今から?」
「ああ」
谷口は少し首をかしげて考えていた。たすきがけにした鞄が肩からずりおちそうになるのにも気づかない様子で、倉橋はそれをヒョイと直してやった。
「あ、ありがと」
「で、どうする?」
「でもうちの人は?急に行ったりして迷惑じゃないのか?」
「平気、平気。放任主義もいいとこだから、誰が来ようが気にしねえよ。だから、なんにも出ねえけど」
『うーん…』ともう一度考えてから、谷口は答えた。
「行くよ」


5時過ぎとはいえ夕暮れはまだ明るく、季節は確実に夏に近づいていた。
徒歩で通う倉橋に合わせ、谷口も自転車を押しながらゆっくりと歩く。
ふたりの長い影が、土手の道に落とされていた。

倉橋の家は、谷口の住む地区から3キロほど離れた新興住宅街にある。
谷口は、同じ下町でも自分の住みなれた街とはがらりと違う風景に、興味深げだった。
「なんかにおいまで違う気がする。うちとそんなに離れてるわけじゃないのに」
そんな無邪気な言葉に、倉橋はプッと吹き出した。
一試合完投、さらに3時間の練習で、さすがの谷口もクタクタのはずだが、今日の寄り道がいい気分転換になっているようだ。
勝負の緊張感から解放された谷口の表情に、倉橋はほっとしていた。
(ちくしょう。可愛いな、このキャプテンは!)
試合中の勝負の鬼の顔と、今のとぼけた顔のギャップに、倉橋はごく素直にそう思ってしまう。



「谷口、これ」
そう言って倉橋が階段の下から放り投げたのは、缶ビールだった。
「ナイスキャッチ!」
「ナイスキャッチって…お、おい」
倉橋は、他にも何本かの缶ビールと、おつまみやお菓子の入った袋を抱えて階段を上がってきた。
「まあまあ、座れよ。酒だって初めてじゃないんだろ?」
倉橋は、谷口の背中を押しながら自室に入った。
「そ、そりゃ、おやじの晩酌につきあわされたことぐらいはあるけど…」
そう谷口が言い終わる前に、倉橋はもう栓を開けていた。
それを見た谷口はしばらく黙って固まっていたが、やがて缶の栓に指をかけ、プシュッという音をさせ、開けた。
倉橋がニヤッと笑うと、谷口もこわばっていたほほを緩めた。
「それじゃ、とりあえずお疲れさん」
「…お疲れ」
ふたつの缶はぶつかって、鈍い乾杯の音をたてた。




ふたりにとってこういう時間は、初めてだった。
谷口と倉橋、ふたりをつなぐものは野球だ。野球がなければ、お互いを知ることもなかっただろうし、心を通わすこともなかった。
むしろ、ずけずけとものを言う倉橋と、引っ込み思案な谷口、どちらもお互いを苦手なタイプと敬遠していただろう。
もちろん、今ふたりの間でかわされているのも野球のことばかりなのだが、グラウンドでのあの緊張感はない。
部屋の中で寝転がって、ビールを飲みながらぐだぐだしている。
こんな谷口の姿は、部員たちには想像できないだろう。ほかならぬ谷口自身も、自分らしくないと実は思っているのだ。
無理していい子ぶっているわけではなく、本来、生真面目な性分なのである。
他人にも厳しいが、自分にはもっと厳しい。その性分ゆえに、けむたがられることもある。
しかし、なぜか倉橋となら、ごく自然に、こんなふうにだらしなくしていられた。とりとめのない野球の話を、いつまでも続けていられた。
それが、すごく、すごく楽しいと谷口は思った。


「そういやさ、お前、こないだ手紙もらったらしいじゃん、女子から」
倉橋は酔ってはいなかったが、いいぐあいに酔いがまわってきた谷口をからかってみた。
もっと焦るかと倉橋は思っていたが、谷口からは意外にさらりと答えが返ってきた。
「…よく知ってんな。でも手紙ぐらいだったら、何回かもらってんだぜ、俺」
「え!」
何回ももらっているとは知らなかった倉橋は、しらふで驚いた。
「で、どうしてんの。返事は」
不自然なほど焦っているのは自分のほうだと、倉橋は思った。
谷口は、顔を赤くして、焦点の定まらなくなった目で、そんな倉橋をぼんやりと見ていた。
「つきあうとかって…俺、よくわかんないんだよ。手紙くれてもその子のこともよく知らないし。だいたいそんな時間ないしさ」
さすがに強豪校といわれるようになった墨高のキャプテンである。新聞やテレビに取り上げられることも少なくない。そんな谷口に近づこうという女子は多いらしい。

しかし、当の谷口は谷口のままだった。
どんなに騒がれても、自分を律することができる男。これも無理しているわけではなく、自惚れることができないという生まれもった性分なのだろう。
そして、野球のことしか今は考えられない。それは谷口のいつわりない気持ちだった。
完投のすえボロボロに負けて、声も出なくなるほどの悔しさを味わって、そして自分の未熟さを痛感させられて、それでも野球から離れられないのだ。


「それで?」
「それで、悪いけど…って全部に手紙で返してる」
その律儀さに、倉橋はこみ上げる笑いを止めることができず、腹を抱えて転げまわった。
あまりにしつこく笑う姿に谷口もさすがにだんだん腹が立ってきて、うつぶせていた体を起こし倉橋を上から睨みつけた。
「何がそんなにおかしいんだよ」
「お前らしいと思ってさ」
そう言っておもむろに起き上がった倉橋は、谷口の体を両腕で抱き寄せた。
そうとう酔いがまわってしまったのか、腕に力が入らず、ろくな抵抗もできずに谷口は抱きしめられたかっこうになった。
それが不思議と嫌ではなく、安心感すら覚えた。単に、酔いでふらつく体をささえられたからだろうか。
よくわからなかったが、谷口は、そのままの姿勢でいた。

「少しは抵抗しろよ」
「酔いすぎて、力、入んないし…別にこのままでもいいかって」
(こいつ…時々、天然なのか狙ってんのかわかんないよな)
策士・谷口のことである。本性は倉橋にもわからないと思っている。


倉橋に体をあずけたまま、谷口はボソッと言った。
「お前なら、ああいう手紙をもらっても、うまくやるんだろうな」
「え?」
倉橋は谷口を解放すると、その顔をまじまじと見つめた。
「うまくやるって何が」
「なんか、女に慣れてる感じがする。扱いに慣れてそうっていうか」
何を言い出すんだろう、と倉橋は思った。一気に汗が出た。
確かに高3の今までにつきあった女の数は片手では足りないぐらいだが、女の話なんか谷口としたこともないのに、なんでそんなことを言うのか。
「なんでそう思うんだよ」
「…なんとなく。でもつきあったことはあるんだろう?」
「あ、あるけど、今はいないぜ」
それは事実である。野球部に復帰してから、完全に野球漬けの日々を送るようになったため、それまでの彼女とのつきあいはおろそかになり、消滅してしまってそれきりである。
「今はって…別にそんなことまでは訊いてないよ」
今度は、谷口のほうが倉橋をからかうように笑った。
(なに言い訳じみたことしてんだ、俺…)
倉橋は、谷口に弁解するように口走ってしまった自分が、少し恥ずかしかった。



「谷口」
「ん?」
「行こうぜ、甲子園」
谷口は、ぱっと表情を明るくした。
「行けるよな、俺たち」
今日、自分たちの実力を思い知らされたばかりだというのに、次に谷原と戦うときは、負ける気がしていなかった。谷口も倉橋も。
今日負けたなら、次に勝てるよう練習すればいい。この谷口の信念は、昔から変わらない。
その信念が、何度も不可能を可能にしてきたのだ。

もちろん、現実はけっして甘くない。子供の頃からものごとを冷めた目で見る性分だった倉橋は、無駄に夢を見ることもしない男だった。
期待して裏切られるのが怖かったから。
それは、挑戦することから逃げていただけなのだ。恥をかいたり、自己嫌悪に陥ったり、そんな辛さから逃げていたのだ。
しかし、谷口なら、谷口と一緒なら夢を現実にできる。そう思えてしまう。
谷口は、夢を見ることから逃げない。夢が叶うのを待つのではなく、現実にするための努力するのだ。
どんなにまわりから嘲笑を浴びようとも、1%の可能性に賭ける勇気を持っている。
そんな姿に、どれだけの人間が引っ張り上げられただろう。
自分もその人間のひとりであることを、倉橋は自覚していた。
そして、どうしようもなく惹かれていることも。




明日は日曜だし今日は泊っていったらとうながされ、さすがにこんな酔っ払ったまま帰宅するわけにもいかないと、谷口はその誘いに乗った。
薄暗い部屋の中では、表情はよく見えない。声だけが、お互いの存在を確かめるすべてだった。
何本のビールを空けたのだろう。今、何時なのかもわからない。
ふたりとも酔いと眠さでもうろうとしていたが、この時間を終えさせないかのように、とりとめなく話していた。

「『行こう、君と甲子園へ』、か…」
その倉橋の声に、谷口は吹き出した。
「田所さんのポスター!」
「さすがにあれ、ひどかったよ」
「それを見て、お前は出戻ったんじゃないか」
「別にそれで戻る気になった訳じゃないんだけど」
クックッとこらえるような谷口の笑い声が部屋に響いていた。
「甲子園の次はさ…どうするんだ?」
「甲子園の次?」
「卒業したあとのことさ」
そう訊かれると、谷口は体をあお向けにして天井を見上げた。
「…わからないよ。考えたことない」
「考えたことないってことはないだろ」
倉橋は、天井を見つめる谷口の横顔をながめていた。


確かに、考えたことがないというのは、うそである。
実は、すでに声をかけてきた大学もあるのだ。
中学時代の実績や、全国大会への出場は果たしてはいないものの、高校でのその成長ぶりに目をつけた者は、やはりいるらしい。
大学に進んで野球を続ける。それもいい。でも、そのあと自分はどうするのだろう。
谷口の脳裏には、2年前、当時のキャプテン・田所から言われた言葉が浮かんだ。
『まさかお前だって、将来、野球でメシを食おうってんじゃあるまい』
その答えは、自分自身でまだ出せていない。
自分にとって、野球ってなんなのだろう。今までは、無邪気に純粋に野球に夢中になっていられたのに。
そんなこと考えもしなかった。野球は自分にとってあたりまえの存在だったのだから。

自分の将来。進学、就職、それとも……。
闇の中で、谷口の意識は遠のいた。



「寝たのか?」
谷口の反応がないことを確かめると、倉橋はタオルケットをかけてやった。
カーテンの隙間から入る月明かりが、谷口の寝顔を照らしている。

谷口から、卒業後の進路について答えを聞くことはできなかった。
考えたことがないのではなく、実際、まだおぼろげなのだろうと倉橋は思った。
倉橋自身も、今はただ谷口と一緒にする野球に夢中の状態なのだ。
その野球は、勝つ喜びも負ける苦しみも辛い練習もひっくるめて、すべてが楽しいのである。
できることなら、ずっとこの墨高野球部で野球をしていたい。
その幸せな時間が終わってしまう現実から目をそむけている、というのが正直なところなのかもしれない。
ただひとつ倉橋に言えるのは、「谷口と一緒に野球をしていたい」という気持ちがあるということである。
しかし、谷口は、自分と一緒でなくてもきっと野球を続けていくだろう。自分の気持ちに応えてくれることもないだろう。
それでも、倉橋は谷口と野球をしていきたいと思った。どんなかたちであっても。




倉橋は、静かな寝息をたてて上下する谷口の肩に、一瞬だけ唇を触れさせた。
谷口は、くすぐったそうに小さく寝返りを打った。
この、月明かりが優しく照らす夜。倉橋はこの夜が明けてほしくはなかった。

やさしい夜
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