「またですか、丸井さん」
「またってなんだよ」
丸井とイガラシは、いつものタイヤキ屋にいた。
イガラシが丸井にタイヤキ屋まで呼び出された、というのが正しい。
丸井はタイヤキを口にほおばっていたので、イガラシにはモゴモゴとしか聞こえなかったが、言いたいことはだいたいわかった。

今は中間試験前で、部活は強制的に中止にされる。
普段からハードな練習をしている野球部員にとっては、特に貴重な休養期間でもあった。
イガラシは、この期間を全面的に勉強時間に充てることによって、学年10位以内の成績をキープしている。だからこそ野球にも集中できると考えているのだ。
そんな貴重な時間を丸井のくだらない用事でつぶされることは、迷惑以外のなにものでもなかった。

イガラシは、普段よりももっと不機嫌な声で言った。
「むかついたことがあると俺をはけ口にするの、やめてくれませんかね。俺だって暇じゃないんですから」
「なんだと?じゃあ、俺が悩んでるのがくだらないことだっていうのかよ。それが後輩のとる態度か?お前ってそんな恩知らずな人間だったの、え?」
「じゃ、その悩みっての、聞かせてくださいよ。じゃないと俺にだってどうしようもないじゃないですか」
そう言うと、いつも目の下を赤くして口ごもる。そしてさらに逆ギレ。
「うるせえ!お前は黙って俺のタイヤキに付き合ってりゃいいんだよ」
イガラシは、ハーッとため息をつくと、タイヤキをかじりだした。
(…ったくむちゃくちゃだな。だいたい、恩知らずって何なんだ。意味わかんねえ。)


丸井の「悩み」なんて、ずっと前から、そしてこれからも同じことなのだ。イガラシにはとっくの昔にわかっていたが、今まで指摘せずにきた。
しかし、今日こそは、これ以上この酔っ払いの絡みのようなグダグダに付き合っていられないと思い、ズバリと言った。
「どうせあれでしょ、キャプテンを倉橋さんにとられたとか、そういうことでしょ」
丸井は、ングッとのどにタイヤキを詰まらせ、あわてて湯飲みに手を伸ばした。
「と、と、とられたって…」
トントンと胸をこぶしでたたき、やっとの思いで飲み込んだ。
「言い方が悪かったですかね、別にキャプテンは丸井さんのものでもなんでもなかったんだから」
「そりゃ、そうだよ」
「でも、ひらたく言えば、そういうことでむかついてんじゃないですか?」
丸井は、両手で湯飲みをはさんで、手元を見るように視線を落とした。
「なんでそう思った?」
「………」
口では丸井に負けるはずがないイガラシが、一瞬、言葉をつまらせた。
「…丸井さんは、特にキャプテンを尊敬してましたからね。そう自分でも言ってたでしょ」
「ああ」
「中学の時だって、一番キャプテンのそばにいたのは、丸井さんですもんね。生徒手帳に谷口さんの写真入れてたのだって知ってますよ。よっぽど好きなんですね」
「なに?かかか勝手に見たのか!?」
「勝手にって…丸井さんがへこんでるときに泣きながら生徒手帳を見てるのを、部員みんなで後ろからのぞいてたんですよ。まったく気づいてないんだもんな」
丸井は顔をますます赤くして口をあんぐりと開けたまま固まっていた。

「そこまで惚れ込んでる谷口さんが、今一番信頼を置いてるのは倉橋さんだって、誰が見たってわかりますもんね。あんたにちしゃ悔しいでしょう。違いますか?」
痛いほど的を射た言葉が、次々と丸井の心臓をえぐる。立て板に水、というのはイガラシのためにある言葉だ。
(ほんとに周りに気づかれてないと思ってたんだろうか、この人…)
イガラシは呆れて席を立ち、捨て台詞を吐いた。
「丸井さん、少しは女の子にでも目を向けてみれば?でないとますます苦しくなりますよ」
「なっ…イガラシ、この野郎!生意気言うな、ガキのくせに!」
わめき散らす丸井を残して、イガラシはタイヤキ屋を出た。そして、また長いため息をついた。
(どっちがガキなんだか…。とった、とられたって、小学生の女子じゃあるまいし)
イガラシは、学校に戻るために、今来たのとは逆の方向へ歩き出した。


しかし、イガラシはあれほどあけっぴろげに愛情表現できる丸井を、うらやましくも思った。
「『なんでそう思った?』、か…」
なんでそう思ったか。その理由も、とっくの昔にわかっていた。
イガラシも、丸井と同じ気持ちだったからだ。
―――少しは女の子にでも目を向けてみれば?でないとますます苦しくなりますよ―――
それは、自分に向けた言葉でもあったような気がしている。





谷口は不思議な男である。
最初は、なんて頼りない人だろうと思った。
イガラシは、小さい頃から人を冷静に評価してきた。自分にとって価値ある人間なのか、無視していいのか。
同級生に対しても、年上に対してもまったく平等。谷口の第一印象も、けっしてよくはなかった。
そういう判断で人を振り分け、無意味と思ったつきあいは一切しない、そんな子供だった。
それゆえ自分を理解する者は少なく、敵も多かった。
孤立することも多かったが、しかしそれが辛いとは思わなかったし、理解を求める気もさらさらなかった。

初めて会ったときの谷口も、ある意味孤立していた。
谷口は物腰やわらかく、実際、敵を作らないタイプなのに、どこか自分と共通するものを持っているように、イガラシには見えた。
まわりを信頼しているようでできなくて、ひとりで苦労をしょいこんでもがいている。そんなふうに見えたのだ。
ことさら自分から理解を求めようとしない、言い訳もしない、弱音を吐いて甘えない、そんな時間があったら自分が動けばいいという谷口の行動哲学に、イガラシにはいたく共感できた。
そして、あのとぼけた風貌の奥に、とてつもなく強い責任感と闘志が秘められていることを知ったとき、イガラシの中での谷口の評価は固まった。
―――この人なら、俺を理解してくれるかもしれない―――
イガラシは、初めて、「認めて欲しい」という人間に出会った気がした。


谷口は、ナインの反対を押し切って、そして懐いてくる丸井をはずしてまでイガラシをレギュラーにした。自分を認めてくれたのだ。
しかし、落とした丸井へのフォローの言葉もない。もしかして、勝負にのみこだわる、非情な人なのか。
イガラシですら一瞬そう思わなくもなかったが、真っ赤にした寝不足の目がすべてを物語っていた。
そして、可愛い後輩を傷つけてしまったことへの罪悪感をふっきるような、ナインを鼓舞する声。
「さあ、みんな守備につけ!」
自分と後輩の心を犠牲にしてまで、自分を選んだ谷口。
そして、ほかならぬ丸井も、毒を吐きながらも自分を認めてくれた。
イガラシは、生まれて初めて他人のために――谷口と、そして丸井のために――恥ずかしくない結果をださなくては、と思った。
今まで「理解されなくてもかまわない、そんなことは全然辛くない」と思い込んでいたこと、それは、ただの強がりだったのかもしれない、と気づかされた。




谷口が墨二を卒業してから2年。また谷口と一緒に野球ができる。
イガラシは、高校でも自分の理論と技術で谷口をフォローしていこうと考えていた。
自分にはその実力があるし、その役目を担うだけの谷口からの信頼もあると自負していた。
墨二時代の谷口から見た俺は、中1の子供だった。でも今の自分は違う。
谷口が育てた墨二野球部を、正真正銘の全国制覇にまで導いた実績があるのだ。谷口に胸を張って誇れる。
ほかの新入生とは違うのだと思っていた。

しかし、自分も成長してあの頃とは変わっていたが、谷口も変化していた。
谷口は、もうなんでもひとりでしょいこむキャプテンではなかった。
倉橋という相棒を得ていたのだ。
イガラシには、ひとめで、ふたりの信頼関係が見て取れた。
その信頼関係を結ぶ、ふたりのバッテリーも絶妙だった。
中学時代も含め、何度も谷口のピッチングを見てきたが、高校でこれほどピッチャーとして成長しているとは思わなかった。イガラシは心底、驚いた。
そしてその成長は、女房役である倉橋の存在なくしては、ありえないものだったことも察せられた。
目と目で会話するような、あうんの呼吸のバッテリー。それを見ることは、素晴らしいと感嘆するとともに、イガラシにとって、少し辛いものだった。
だが、辛い思いよりも、野球を思い切り楽しんでいる谷口の姿を見ていられる喜びのほうが大きいのだから、いいじゃないか。実際、野球ができなくて苦しんでいる谷口を見るのは、自分がそうなるよりも辛かったのだから。
そうイガラシは自分に言い聞かせた。






イガラシは、図書室に行くために学校へ戻った。
その途中、朝から曇っていた空から、ぽつぽつと雨が降り出してきた。イガラシは傘を開いた。
校門をくぐり、ちらりとグラウンドに視線を向けると、部室の陰に誰かがいるのを認めた。
――――谷口だった。
谷口は制服姿のまま、左手にグローブをつけ、ボールをポンポンともてあそんでいた。
イガラシは谷口のそばまでゆっくりと歩いていった。
谷口のほうもイガラシの姿に気づき、ばつが悪そうに笑った。
イガラシは、谷口に傘をさしかけてやった。

「キャプテン、試験前は部活は禁止ですよ」
「わかってるけどさ…毎日少しでもグラウンドにいないと落ち着かないんだ」
そう言うと、谷口は右手の人差し指を見つめた。
そんな谷口の姿を見たイガラシは、胸がしめつけられる思いがした。

谷口と一緒に投げた、あの青葉戦。
明日の自分がどうなろうとも、今日の勝利のためにすべてを賭けた、夏の日。
そして勝利と引き換えに、谷口は野球のできない辛さを味わうことになった。
だからこそ、投げられるようになった今も、野球からかたときも離れたくないという思いが強いのだろう。
谷口は、ポン、とイガラシにボールを放り投げた。
「お前はたいしたもんだよ。野球はできるし、成績だっていつも上位だろ?」
「…そんな、要領がいいだけですよ」
「そういうこと、一回ぐらい言ってみたいよ」
イガラシは、谷口にボールを投げ返した。
そのボールを、谷口はブロック塀に描かれた的のど真ん中に投げ当てた。
雨はまだ静かに降っている。



こうしてふたりだけでいる時間というのは、今までほとんどなかった。
それでも、イガラシと谷口の間には、消すことのできない共通の記憶がある。
その記憶は、倉橋ですら入り込めない、大切な思い出の場所なのである。
青葉戦を思い出すと、あの日の暑さまでがよみがえるようだった。きっと谷口も同じだろう。
あれから幾度も戦いをかさね、そして日本一になるという目標を達成したが、自分のすべての原点があの日にあったのだと、イガラシは思う。


「…さあ、そろそろ帰って勉強しないとな」
本降りになってきた雨の中、ふたりは部室のひさしで雨宿りをしていた。
「そうですね」
そう言いながらも、イガラシは帰りたくなかった。
勉強時間が減ることなど、こうして谷口と一緒にいられることに比べたらどうということはなかった。
「俺たちが2年生のときは、あんまりみんなが成績を下げたもんで、練習時間を減らされて、勉強会までやらされたんだぜ」
「へえ…」
「今年は、そんなことにならないようにしないとな」
「大丈夫でしょ」
しれっとそう言うイガラシを、お前らしいなと谷口は笑った。
「イガラシ、1年生の勉強を時々は見てやってくれよな」
「まあ、いいですけど」
「野球部のために、なんだからな」
そう言って、イガラシの頭をポン、と優しくたたいた。
また、イガラシは胸がしめつけられた。

「…野球部のためって、キャプテンのため、でもありますよね」
「ん?うーん…そうだな、そうかもな」
思いもかけないことを言われて、谷口は少しとまどった。
「キャプテンのためなら、やります」
イガラシは、心の奥底で思っていたことが言葉となって出てきたことに、自分で驚いていた。
降りしきる雨が、今だけ、ふたりだけの空間を作っていたからかもしれない。


イガラシは、自分がもう少し、せめて一年はやく生まれていれば、と思った。
そうすればもっと長い時間、谷口と一緒に野球ができたのに。もっと谷口の役にも立てたのに。
そして倉橋のような立場にもなれたかもしれないのに。
ふたつの年の差が、こんなにも大きく口惜しいものとは、谷口に会うまでは思いもしなかった。





少し、雨が小降りになってきて、雲間からは光も差し始めていた。
ようやくふたりはひさしから出ることができた。
谷口は、両腕を空に向けて、うーんと伸びをした。
「腹へったな。イガラシ、タイヤキ屋に寄っていかないか?」
「…キャプテン、帰って勉強するんじゃなかったんですか?」
「まあそう言うなよ」
「しょうがないですね」
そう言いながらもイガラシの頬はゆるみ、嬉しさを抑えるのに苦労するほどだった。
谷口も、その皮肉屋の表面にかくされた素直さを知っていて、こうして誘っているのだろう。
今だけは谷口を独占していられる、イガラシにはそれがとても心地よかった。

そして、ふと丸井のことを思い出した。
(丸井さん、さっきあんたにあんなこと言っといて、抜け駆けみたいなことしてすいませんね…)
しかしまたあることを思い出してしまい、焦った。
(まさか丸井さん、まだあの店にいるってことはないよな?)
イガラシは一瞬の間に、頭の中で策謀した。
「キャ、キャプテン、4丁目に新しいタイヤキ屋ができたの知ってます?今日はそっちへ行ってみませんか?」
「へえ、知らないけど。でも、行ってみようか」
谷口は、イガラシにうながされるまま、泥のグラウンドを出て、雨上がりの道を歩いた。



―――少しは女の子にでも目を向けてみれば?でないとますます苦しくなりますよ―――
イガラシは、丸井に対して自分が言った言葉を思い出していた。
(もう、手遅れだね。とっくに苦しくなってるよ)
谷口の隣を歩きながら、イガラシは自嘲気味に、少し笑った。

寄り道
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