2年生キャプテン谷口は、5月から毎週1回の練習試合を野球部に課すことに決めた。
多少ハードではあるが、実践で体に覚えさせるのが一番だろうと倉橋とも話し合い、今日は、練習帰りにいくつかの学校をまわり、試合交渉をしてきた。
とりあえず1ヶ月分の試合日程を決定することができ、これからの具体的な練習内容について、谷口と倉橋は、駅の改札付近で延々と話し合っていた。
これをやりだすと、どんなにまわりが雑踏に包まれようともお互いの声しか聞こえなくなるのだった。まるでバリアを張っているかのように。
しかし、ふたりを反応させる大きな声がそのバリアを破った。
「豊!」
そう呼ぶ声に振り向くと、背の高い女が立っていた。
大柄ではあるが、顔は小さく、目鼻立ちのはっきりした女である。
「…えらく早いじゃねえか」
「そう迷惑そうにしないでよ」
倉橋は、いかにもばつが悪そうに、不思議そうな顔の谷口に言った。
「姉貴だよ」
「お姉さん?」
谷口は、改めてその女の顔を見た。
倉橋の姉―――陽子は、谷口ににっこり笑いかけた。
「あなた、谷口君?」
「は、はい。はじめまして」
目の下を赤くして、谷口はすぐに彼女から視線をはずした。
「ふーん…」
値踏みでもするように、陽子は谷口をまじまじと見ていた。谷口は、その間も下を向いて居心地が悪そうにしている。
倉橋は、その様子にいらいらした。
「用がないんだったら、さっさと帰れよ!」
「豊、あんたの友達にしちゃ、真面目そうな子じゃない」
「うるせえってんだよ!」
「はいはい、わかったわよ。お邪魔様。ああ怖っ」
からかうような態度で、陽子は背を向けて人ごみの中に消えていった。
「めったにこんな早い時間に帰ってこねえんだけどよ」
倉橋はそう言ってから、ぼんやりとしている谷口に気がついた。
「谷口?」
「…きれいな人だな、お姉さん」
頬を上気させたままの谷口に、倉橋は、一瞬絶句した。
「どっ、どこが!」
吐き捨てるように言う倉橋がいつになく子供っぽく見えて、谷口は可笑しくなった。
普段は大人びていてクールな男も、姉の前ではただの弟になってしまうのだろうか。
兄弟のいない谷口には、ひとつ発見したような驚きもあった。そして、知らなかった倉橋の一面を見た気がした。
ひとりで勝手に得心した様子の谷口を見て、倉橋はさらにいらついた。
「なにが可笑しい?」
「別に。でも、お姉さん、ほんとにきれいな人だと思うけど」
「…ブスだよ。それともお前、あんなのが好みか?」
ムキになる倉橋に、少し呆れたように谷口は言った。
「お前、飛躍しすぎ。それより、お前ってどんな友達とつきあってんの」
「ええ?」
「俺のこと、お前の友達にしちゃ…とか言ってたじゃん」
倉橋には、この質問が、自分をちゃかしているものか、真剣なものなのか判断がつきかねた。
しかし、谷口の目は笑ってはいなかった。
「気にすんなよ、あいつの言うことなんか」
と、とりあえず言葉をにごした。
墨高の野球部に入るまでは、確かに「やんちゃ」な連中とのつきあいが多かった。
酒も煙草も、彼らと一緒に、ひと通り経験した。
野球に関しては、恵まれた体格と体力、天賦の素質によって自分が一定のレベルに達していることがわかっていたから、がむしゃらにのめりこむことはなかった。
自分の生まれ持った才能にうぬぼれることもあった。
努力することへの照れもあった。がんばることはカッコ悪い。そんな空気が、倉橋の周りにはあったのだ。
そして倉橋自身も、その空気に流されていた。
しかし心のどこかで、現状には満足しておらず、もっと高みを目指したいと思っていたことも事実である。
どんなに友達とバカ騒ぎをしていても、満たされない欲求。自分はこんなところにいるべき人間じゃない、と思っていた。
それでも努力することから逃げていた過去の自分。
谷口は違った。
谷口は、いつもまっすぐである。
勝利や努力することに対して冷めている部員たちをよそに、ついひとりでムキになってしまう。
勝利への糸口が見えたとたん、スイッチが切り替わるようにカッカする性分。
よく言えばマイペースで、悪く言えば他人の言うことも耳に入らないぐらい融通のきかない人間である。
しかしその融通のきかなさすら、谷口の愛すべき個性となって倉橋を惹きつける。
倉橋は、中学時代から谷口は油断ならない相手、そして超弱小の墨高野球部を数ヶ月で立て直した「やり手」であると認識していた。
その手腕に興味を持ち、実際にこの目でお手並み拝見…というのが、野球部出戻りを果たしたひとつの理由でもあった。
しかし、それは谷口の試合中の姿を、そして墨高野球部を外からしか見ていなかったときの話である。
実際、谷口は少しでも可能性があれば勝利に妥協しない男だった。野球に関しては他人にも厳しいけれど、自分にはその3倍ぐらい厳しい。
倉橋には、想像していた以上の人間に見えた。
しかし、野球以外の場面で見る谷口は、なんとも頼りなげであぶなっかしい。そのギャップは想像以上というより、想定外ではあったが。
そして、谷口のその勝利への情熱に後押しされるように、倉橋の中でくすぶっていた野球への欲求も、じゅうぶんに満たされることとなった。
努力すること、挑戦することに躊躇していた、そんな過去の自分がとてつもなく醜く思えた。
『無理だ。できるわけがない。甲子園?本気で言ってるのか?』
笑いたい奴には笑わせておけばいい。俺たちは、もっともっと高いところを目指しているんだ。それに向かって努力することに、なんの恥ずかしいことがあるものか。
そう思わせてくれたのは、谷口だった。
そうして野球にのめりこむようになって、放課後にブラブラしていたような今までの友達とは、疎遠になっていった。
今でも時々誘われるものの、実際、つきあう時間は皆無といってもよかった。
(変わったなあ、俺も…)
姉に友達のことを持ち出されて、倉橋は、久しぶりに、目標もなく無為に過ごしていた日々のことを一瞬のうちに思い出した。
感慨にふけっていた倉橋は、谷口が、まだまっすぐな視線で自分を見ていることに気がついた。
「な、なんだよ」
「いや。俺は、お前のことで知らないことがまだたくさんあるんだなって思ったんだ」
真剣に考え込むような谷口の表情が、倉橋には逆にこっけいに思えた。
「俺のこと?」
「お前に姉さんがいるのも知らなかったし、お前にどんな友達がいるのかも知らないし…。考えたら、野球してるとこぐらいしか知らないよな、お互いに」
俺はお前のことはよく知ってるつもりなんだけど、と言いたかったが、ここは谷口に合わせることにした。
「そうだな。知ってることといったら、学校の成績ぐらいか?」
「それも似たり寄ったりだしさ。でもまあ…」
谷口は、ニヤリと笑った。
「今日は、ひとつ…いや、いくつか、知らなかったこと発見したから、いいや」
「いくつか?な、何を発見したって?」
プッと谷口は吹き出した。
「今の、そういうとこ。落ち着いてるようで、自分のことを言われると焦るとことか」
倉橋は、顔を熱くした。
そうなのだ。自分は同年代の人間よりも大人なのだと、倉橋は勝手に思いこんでいたが、実はそうではない。
いや、他の人間や女に対しては、たいていのことには鷹揚に構えていられる自信があるのだが、谷口に関しては別なのだ。それには倉橋自身も気がついていた。
それを見透かされたようで、怖くなった。
今の自分は、いったいどんな顔をしているのだろう。そんなこともコントロールできなくなっている。
谷口はやっぱり、自分の中の何かを変えてしまう存在なのだと倉橋は思った。
姉の陽子も、谷口が弟を変えた張本人だと、今日会っただけでわかってしまったことだろう。
「あと、美人のお姉さんがいること」
「ブスだよ」
「悪い友達がいること」
「……」
「事実を素直に認めないとこもかな」
「お前ねえ…」
からかうような態度の谷口の口を、ふさいでしまいたかった。
しかし腹を立てながらも、ふたりで共有する秘密が増えていくようで、実は嬉しくもあった。
他の誰も知らない自分を、谷口だけは知っている。そんな嬉しさ。
「…ほんと、素直じゃないかもな」
胸の奥でつぶやいたつもりの言葉が、口をついて出てしまった。
『え?』という表情の谷口。
倉橋も、自分の口からその言葉が出たことに驚いたが、その真意までは悟られることはないだろうと、自分を落ち着かせ、そして口角を緩めた。
―――もし真意を知られることがあっても、かまうものか―――
倉橋は、谷口の背中をバン、と叩いて言った。
「さあ、練習のこと、もっと詰めちまわないと。明日からやるんだろ?」
「あ、ああ」
少し余裕を感じさせる倉橋に、谷口はまた不思議そうな表情をした。
未知なる君へ
※補足…作品中の倉橋姉は、当然のことながら原作にはないキャラで、筆者の捏造であります。