「来年、佐野がどこの高校へ行くのかっていろいろ話題になってるみたいだけど」
練習を終えて、手を洗いながら、倉橋は谷口に言った。
「ふうん。墨谷には来る気…は、ないよな」
「来てほしいのか?」
「そりゃあれだけの人材が加わったらすごいけど、うちなんて佐野のほうから願い下げだろ」
谷口は、情けなさそうに笑って、洗い終わった顔をタオルで拭いた。
そうこうしているうちに、中山たちが着替えを済ませて部室から出てきた。
彼らが最後で、部室には誰も残っていない。
「お前らまだ着替えてなかったのか?俺たちもう帰るから部室の戸締り、頼むな」
「はい、お疲れ様でした!」
谷口は頭を下げ、先輩たちを見送った。
「『お疲れ様でした』、か」
その声に、ムッとして谷口は倉橋をにらんだ。
「なにが言いたい?」
「いや…昨日も言ったけど、別に先輩後輩って意識しなくてもいいんじゃないか、あんたキャプテンなんだしさ」
谷口は、ハーッと大きくため息をついた。
「それは僕の性分だから、無理なんだって」
「あんたにも無理なことがあるんだな」
倉橋は挑発するように言った。
また何か言い返してくるかと倉橋は思ったが、谷口は黙っていた。
「…谷口?」
谷口は、倉橋の顔を見ないまま、ぽつりと言った。
「そういうことを、佐野と話してみたいと思ったんだ」
秋風が静かに吹いて、汗をかいた体を冷やす。それでもユニフォームを着替えないまま、まだふたりは洗い場にいた。
谷口は、2年生キャプテンとして上級生をうまく引っ張っていけるか不安に感じていることを倉橋に話し出した。
倉橋には、真剣な谷口には悪いが、それは取るに足らない悩みに思えた。
「あの先輩たちに限っちゃ、そんなに気にすることはないんじゃないか?あんたがキャプテンであることに何の不満もないんだから」
「それなんだよ。それに甘えてていいものかって」
「甘える?」
「僕が先輩を差し置いてキャプテンをしていられるのは、先輩たちの理解がありすぎるからなんだ」
「それの何が悪いんだよ」
倉橋に言われることはいちいち当たっていて、谷口には、自分で言っていることに矛盾が生じているのもわかっていた。
こんなことを言ってもしょうがないことも重々承知していたが、吐き出さずにはいられなかったのだ。
そして倉橋も、そのとりとめのない谷口の吐露に嫌な顔もせずつきあっていた。
むしろ、思っていることすべてを聞き出したかった。もっと谷口を知りたかった。
「キャプテンとして引っ張っていくには先輩とか後輩とか考えちゃいけない、そうは思うけど、性分だから無理とかなんとか言い訳して…結局キャプテンとしての義務を果たせないんじゃないかって」
(俺が昨日言ったことを、気にしてるのか)
倉橋は、ああは言ったが、このチームのキャプテンは谷口でなければ務まらないと思っている。先輩の誰でも、もちろん倉橋でも務められない。
そうさせるものは何なのか、谷口自身は気づいていない。
それは、「あのキャプテンのためになんとかしてやりたい」と思わせる、その態度なのだ。
チームいち野球を愛し、愚直なまでに勝利を目指す、この小柄なキャプテンの姿に、みんな自分を省みて思う。
『自分は、一度だってあんなにひとつのことを目指して努力したことがあるだろうか』と。
そして努力する前にあきらめる自分を恥ずかしく思うのだ。
自らが努力することで、ナインを引っ張っていく。谷口はそういうキャプテンなのだ。
そして、ナインはそんな男が自分たちのキャプテンであることに、誇りを持っている。
「そのままでいいんだよ」
「え?」
「昨日あんなこと言ったけど、あんたの今までどおりのやりかたでいいんだと思うぜ、俺は」
「…そうかな」
「キャプテンになる前だって、実質はあんたがチームを引っ張ってたようなもんなんだろ。そのあんたをキャプテンに選んだんだから」
「そうかな…」
まだ不安そうな谷口の表情を見て、倉橋は気持ちが揺さぶられた。
そして、きっと先輩たちは、谷口のこんな律儀な性格も愛してるんだろうと思った。
「佐野とあんたは、全然タイプが違うと思うけど」
「それはわかってる」
「あいつは、はなから先輩がどうとか、自分が下級生とか思ってなかったもの」
「それでも、やっぱり下級生として思うところがあったんじゃないかな」
まだ佐野にこだわる谷口に、倉橋は少し腹が立ってきた。
「そんなに不安なら、佐野より俺を頼れ」
という言葉がのどまで出てきていた。が、口に出すのは止めることができた。
そして、谷口の話の腰を折るように言った。
「俺は『おせっかい』をこれからもさせてもらうぜ」
「おせっかい?」
「実際の指示とか、まあキャプテンの手伝いだな。やっぱり中坊を相手にするのとは違うから。これは俺が勝手にやることだから、迷惑だと思ったらいつでも言ってくれ」
「そんな…助かるよ。すごく助かるよ」
今日、初めて見せた笑顔は、心底嬉しそうだった。
倉橋は、その笑顔に、また気持ちが揺さぶられた。
谷口自身、自分が不思議だった。
知り合って間もないというのに、どうして倉橋にはこんなに自分の内面を出せるのか。
谷口は、ともすれば殻に閉じこもりがちで、なかなか他人と本音でぶつかることができない人間だと自覚している。
ましてや、どういう人間かわからない相手にここまで心情を明かすことは、今までの谷口にはありえなかった。
倉橋はその直球勝負な態度で、谷口の殻をこじあけてしまったのだろうか。今はまだわからない。
ただ、さっきまで感じていた心の中のもやもやがぱっと晴れて、明るい日が射したような感覚に見舞われた。
何か、確たるものを得たような気がしたのだ。宙ぶらりんだった心を支えてくれる、何かを。
と同時に、谷口は、突然体が冷えるのを感じた。そういえば、日もとっぷりと暮れている。
「急に寒くなってきたな」
「今ごろ気づいたのか?俺はさっきからふるえてたんだけど」
倉橋は笑って、タオルを谷口の細い肩にかけてやった。
そして両手を谷口の肩に置いて、昨日と同じせりふを言った。
「頼むよ、船長!」
谷口はニヤッと笑い、何かを吹っ切ったような、さっきよりもずっと自信に満ちた表情で答えた。
「よし、覚悟してついて来いよ!」
下級生 2
※補足…倉橋と佐野がリトルリーグで先輩後輩だったという設定のみアニメ版を拝借しました。あの墨高対墨二ドリームマッチはここではなかったことにしてください…。