倉橋は自分にとってなんなのか。それはおぼろげながら考えたことがあった。
同じ夢を持つ「同志」だと思った。同じ方角を見ている同志。
一緒にいる理由は、ただ「志を同じくする者だから」。他に理由も理屈もない。
それは友達とは違う存在だと谷口は思っていた。
ただ深く考えたわけではなく、なんとなく、本当におぼろげながらそう感じていただけだ。
だから今改めて倉橋に問われても、谷口にはその思いをうまく言葉にするすべがなかった。
谷口は大きな目を見開いたまま、黙って倉橋を見ていた。その大きな体の向こうに見える夜空の星は、きらびやかな街の光にかき消されそうだった。
頭上には、小さな月が白く浮かんでいた。
(明日も晴れそうだな…)
そんなことをふっと思った。
「谷口?」
「…友達とは違う。俺は友達とは野球はやらないよ」
野球への思い入れが強すぎて、つい友達を置き去りにして野球にのめりこんでしまうのがわかっていたからだ。
だから、谷口はクラスの友達とも野球の話はほとんどしない。あえて話題を振られたら話すぐらいである。
「じゃあ、何なんだ?」
「何だろう。仲間、なのかな」
それもなんだか違う気がした。
野球部員たちは、みんな仲間だ。心から信頼できる、大切な仲間だ。しかしそのみんなと倉橋が同じかというと、それも違う。
だいたい、倉橋と知り合った経緯からして谷口の中では特殊なことだった。
谷口は、その物腰の柔らかさからか、他人に対して配慮のできる人間とまわりから思われることが多かった。しかし谷口自身は、自分はけっこう淡白な性格だと思っていた。
よくいえばあっさりしていて、悪く言えばドライ。
だから、よく知りもしない倉橋に対して、「知ってるはずなのに思い出せない。でもこのままにしておけない」と執着したのが、自分でも不思議だったのだ。
しかも相手は自分のことをよく知っているという。こんなのは普通の友達の出会いかたではない。
ましてや、もうただのチームメイトという存在ではなくなっている。
投手としての、そしてキャプテンとしての自分の成長は、倉橋なくしてはありえなかったとすら思うからだ。
そして今日。今までなら、他人に対してこんなにムキになって怒ることも、ないことだった。
もしかしたら同じことを別の友達がしても、さらっと流していたかもしれない。
相手が倉橋だからこそ、あんなにも絡んでしまったのだろうか。
倉橋だから、自分の内面をさらけ出せたのだろうか。
さまざまな思いが頭をめぐるが、うまく言葉にできない。こんなとき、自分の口下手がくやしくなる。
逆に谷口は問いたくなった。お前は俺の何なんだ、と。
「俺は、お前を友達だと思ってるよ」
「きっと、俺とは友達の意味あいが違うんだろ」
「友達だから、休みの日にも会いたいと思った。映画にも誘った。タダ券もくれてやった。それだけだ」
「ふーん」
「お前は難しく考えすぎなんだよ」
「…そうなのかな」
腑に落ちたような落ちないような複雑な表情の谷口を見て、倉橋はまた腕を伸ばしかけて、あわてて引っ込めた。
「そういうとこが、可愛……いや、おもしろいよ、お前」
「それがよくわかんないけど」
「じゃあ、そういうことでキャプテン。俺とお友達から始めてもらえますかね?」
「友達から始めて、次はなにになるわけ」
「さあ」
倉橋は谷口から視線をはずして、さっと谷口の左隣に体を移した。
「それより、ラーメンでも食おうぜ。さっきの映画の笑いどころを話してやるよ」
「別に聞きたくない」
「まあまあ。おごるから機嫌なおせって」
(…やっぱり俺っていつもこんな感じだなあ)
谷口は、またしても倉橋のペースにうまく乗せられてしまったような気がしていた。
しかしそれは不思議と悪い気分でもなかった。
友達。世間一般ではいとも簡単に、そして軽く使われるその言葉が、谷口にとってはなにかとても大切なものに思えた。
自分は今日、その大切なものを手に入れたような気がした。
そして、自分が知らない、別の自分の姿に出会ってしまったことにも気がついた。
ふだんの谷口を知る人間が今日の谷口を見たら、どうかしたんじゃないかと心配されそうである。
正直、自分ですらそう思うのだから。
野球に関しては、あきれるほどのこだわりを見せる。執念ともいえる野球への情熱。
それは谷口自身も、そしてまわりの人間も認めるところである。
しかし谷口は、俺はこんなに、ひとに対して絡むことがあっただろうかと自分に驚いていた。
冷静に考えると、どうでもいいことである。笑って済ますことだって、本当はできる。
『友達はだいじにしなきゃいけないよ』
谷口の母ちゃんは、谷口が小学校に上がるころからそういつも言っていた。
それは、『弱いものいじめはひきょうなこと』、『うそつきはどろぼうのはじまり』、それらとおなじくらい、幼い子供心にもすんなりと受け入れられる、ごく当然の言葉だった。
谷口はその言葉を律儀に守って育ってきた。
友達との約束は絶対にやぶったりしない。たとえ自分の誠意が裏切られることがあったとしても、谷口は何度もそれを許してきた。
意見が対立しても、自分が身を引いてまるくおさまるのなら、と強引な主張をすることもなかった。
でもそれは、ただ自分が嫌われるのが怖かっただけではないのか。自分のこだわりのせいで、その場の空気を悪くするのが嫌だった。それだけのことではなかったのか。
それははたして、相手を本当の友達としてつきあってきたといえるのだろうか。
母ちゃんの言葉は、そんな友達づきあいをするためのものではなかったはずだ。
谷口は、言葉の真意を知らず知らずのうちに、はきちがえていたことに気がついた。
それが証拠に、倉橋に思ったことをぶちまけた今、なんだか胸の中がすっきりとしている。
確かに、公共の場所でのデリカシーのなさには辟易したし、正直、倉橋と一緒に映画を見るのはもう勘弁、という感じである。
しかし今日は、その不満を悶々と抱え込むことなく、はっきりと自分の怒りとともにぶつけることができた。
倉橋は、そんな自分を「おもしろい」と言って受け入れる。しかし、谷口の欠点も、臆せず指摘する。
こんなことを言ったら相手に嫌われるかもしれない、なんていう遠慮がない。
一歩間違うと、他人の領域にズカズカと土足で踏み込むような不快感を与える態度だが、それは谷口の長所も欠点も含めて受け入れられるという自信に満ちているようにも見えた。
谷口を挑発するような言葉、そして素直な感情表現は、自分のことをもっと知りたがっているというサインなのかもしれない。
きっと倉橋は、今までいい友達づきあいをしてきたのだろうな、と谷口は思った。
“悪い”友達とも、本音でぶつかるような、谷口が経験してこなかった時間を過ごしてきたのだろうと。
谷口は、そんな倉橋をうらやましく思った。
『俺は、お前を友達だと思ってるよ』
それは、素直に嬉しくありがたい言葉で、谷口の心にじんわりと染みた。
倉橋のおごりでラーメンを食べたあと、二人は帰途に着いた。
ちなみに、倉橋の『映画の笑いどころ』については、谷口の猛烈な拒絶にはばまれ、披露されることはなかった。
店を出るころには夜はすっかり更けて、人通りもだいぶ少なくなっていた。
「ご機嫌は直りましたか、キャプテン」
「俺の機嫌が直るのは、来週の練習試合に勝ってからだよ」
「まったく、扱いづらいキャプテンだ」
「そんなのが友達だと、お前、苦労するよ」
谷口がそう返すと、左隣の倉橋は笑って言った。
「それが苦労と思うなら、ほんと、お前の友達はやってらんないな。我慢できるのは俺ぐらいのもんだろ」
なんでこいつはこんなに自信満々なんだ。そう思いつつ、谷口は、その図々しい態度すらも受け入れている自分に気がついた。
「そうかもしれないな」
谷口はそう言おうと思ったが、これ以上、倉橋を調子づかせるのもしゃくだったので、その言葉をのみこんだ。
空を見上げると、さっきよりも高く月が浮かんでいた。
倉橋も頭上に視線を向け、言った。
「明日も晴れそうだな」
「さっきも言ったけど、朝練、遅れんなよ」
「はいはい、キャプテン」
二人で歩いていると、寒いはずの夜が、谷口にはやけに暖かく感じた。
それはどうしてなのか、なんとなくわかっていた。
それを言うと、きっとまた隣の倉橋をうぬぼれさせてしまうから、今はやっぱり黙っていることにした。
友達の領域 2