変な奴が入部してきたと思った。
地元の中学が日本一になったその当時の騒ぎようはそれはすごいものだった。
商店街には「墨谷二中野球部日本一おめでとう」なんていう横断幕やノボリが飾られた。
墨高1年だった俺は、「墨二が青葉に勝った?」って何度も聞き返すぐらい信じられなかった。
俺の母校である墨三との対校戦では勝ったり負けたり、墨二といえばその程度の野球部という印象しかなかったからだ。
ともあれ、地元が大騒ぎしたその記憶は新しかったから、その当時のキャプテンだった男が入部すると聞いて、俺も多少の興味はあった。
ボールが投げられない体になっていた奴は、最初はおとなしくしていたものの、だんだんと部のペースを乱すかのように、練習方針に口を出すようになってきた。
しかもあからさまに図々しい態度でなく、あくまで低い腰で、僭越ながら、なんていう姿勢で意見するもんだからたちが悪い。
なんだ、猫かぶってたのか、と俺は思った。
しばらくすると、うっとおしい奴だと思うようになった。
そりゃあ確かに、俺たちはお前にすれば物足りないチームメイトだろう。なんたってお前は“日本一”を経験したんだから。
弱小中の野球部を一代でそこまで引っ張っていったその努力は、はかり知れない。
でも俺たちは、べつに野球で将来どうこう考えてるわけじゃない。ていうか、甲子園とかまったく別次元の話だと 思ってるから。
お前だって、万年地区予選敗退の野球部と承知して、そしてその指で入部してきたわけだろう。
こんな時間つぶしの趣味みたいな部活で、ひとり気を吐いてどうすんの。
何を変えようとしてんの。
俺たちは、野球ばっかりやってるわけにはいかないんだよ。
進学したいから勉強しなきゃなんないし、放課後は彼女とだって過ごしたいんだ。お前、これで振られたらどうしてくれる。野球一色で高校生活が終わるなんて、まっぴらだ。
お前、そんな青春で楽しい?
と、ほんとはそう言ってやりたかった。
実際、全部ではないけど、まあそれらしいことも言った。
しかし、奴は動じやしない。東実とまともにやりあおうなんて勘違いまで起こしだした。
そりゃ試合に勝ったときは気持ちよかったよ。俺たちだって本気を出せばわりとやるじゃん、なんてことも思った。淡い夢も、一瞬だけは見た。
でも、それ以上を望むのは分不相応ってものだ。実力を直視するべきなんだ。
どうがんばっても越えられない壁ってものは、実際にあるんだ。
それなのに奴は、田所さんにたしなめられて納得したかと思いきや、おとなしい顔して頑として自分を変えようとしない。
やっぱりこれが奴の地だったんだな。
「そんなに野球っておもしろいんかね?」って山本が言ってたけど、ほんとそう思う。
そりゃあ好きじゃなきゃやってないけど、そこまで思い入れするほどのものか?
谷口を見てると、呆れをとおり越して、むしろ感心してしまう。
俺はどうして野球をやっているのか。
始めたきっかけなんて、覚えていない。たぶん、友達との遊びのひとつに野球のまねごとがあったんだと思う。
小さいころはいろんなポジションをやっていたけれど、ピッチャーをやるようになったのは小学5年のクラブ活動からだ。
「中山は背が高くて肩もいいし、やってみたら」
という顧問のひと言で、なんとなくやる気になった。それに、目立つポジションというのは、子供ながらに気分のいいものだった。
よくも悪くも注目される、そんな立場をさほどプレッシャーに感じなかったのは、やっぱり性に合っていたのだろう。
いちど、谷口にピッチャーをやるようになったきっかけを訊いてみたことがある。
「ほかにやる人がいなかったからですよ」
谷口は、さらっとそう答えた。その言葉の意味が、俺はすぐにはわからなかった。
「どういうことだよ?」
「そのまんまです。俺がやるしかしょうがなくて、投げることにしたんです」
谷口は少し情けない表情をして、そう言った。
そのいきさつを詳しく聞いた俺は、心底おどろいた。
しかも、練習を始めたのが試合の1ヶ月前だという。
青葉相手に、どう考えても、誰が考えても無謀としか思えない、谷口の投手への転向。
結果的に、指を折ったことで特訓の成果をじゅうぶんに果たすことはできなかったが、確かに奴は、大舞台でピッチャーとして登板したのだ。
谷口は、自分のことを多く語らない。
俺とは違って、生来の性格は内にこもるタイプらしいが、いいわけしたり、文句を言ったり、弱音をはいたりせずに、よくもプレッシャーに押しつぶされないものだと思う。
そのプレッシャーを克服してあまりあるほど、奴の胸の中は野球への愛情でいっぱいなのだろう。
どうしてお前は、そんなに勝つことへ貪欲になれるんだ。
俺は、だんだん谷口のその純粋さがうらやましくなった。子供ころには確かにあった、勝ちたいという気持ちを、本気で持ち続けられる純粋さ。
俺だって、ほんとは負けたくない。
それは他の部員たちも同じように感じていただろう。谷口のいちずに挑もうとする姿勢に、なんとか応えてやりたいという思いが生まれ始めていたのかもしれない。
要するに俺たちは、谷口の情熱にほだされてしまったというわけだ。
多く語らないかわりに、谷口の行動は人を変える力を持っている。
だから、東実戦を控えたあの日、俺は谷口に訊いた。
「東実のバッターをサードゴロに打ち取る方法を知ってたら、教えろよ」と。
あのときの谷口の笑顔を、俺は今も忘れることができない。
空き地で夕飯の時間まで夢中でボールを追っていた、あの頃の小さな友達の顔を思い出したからだ。あの空き地には、谷口はいなかったのに。
俺は、こいつともっと早くから野球をしていたかったと思った。
俺と田所さんが谷口の協力者になると、他の部員たちもすぐに谷口のペースに巻き込まれた。
「どうせおかしいんなら9人一緒ってわけか」
そういいわけじみたことを言ってたけど、きっとみんな、俺と同じ気持ちだったはずだ。
負けることしか経験してこなかった俺たちは、どうしてもそうすぐには素直に、無邪気になれないものなのだ。みんなが心に思うことはただひとつ、
『勝ちたい』
それだけなのに。
そう思うようになったのは、谷口によって勝利の味を知ってしまったからだ。
その責任を取って、谷口には俺たちを勝利に導くんだ。そのための方法は、全部教えてもらうからな。負けたくないんだ。
そんな気持ちで、俺たちは東実という恐竜のような敵に挑んでいった。
それから谷口はチームのエースとなった。
松川という将来を期待されるピッチャーも加わり、俺が投げることはもうほとんどなくなった。
しかしそんなことはどうでもよく、俺はこのメンバーで野球をすることが楽しくてしかたなかった。
次も勝ちたい。次の次も勝ちたい。そんな欲も、ごく自然に生まれるようになった。
『俺は野球が好きだったんだ』―――そんな単純なことに、高校生活も半年足らずとなったころ、ふと気がついた。
気がついたあと、無性にさみしくなった。
そして、そんなことをさみしく感じる自分に、自分で驚いた。
『中山さんの野球にとって、私の存在はじゃまになるだけだと思うんです。だから、お別れします』
そんな手紙を彼女の友達から手渡された。
さすがにそのときは俺も深くため息をついたけれど、不思議とさみしいとは感じなかった。
そのあと、彼女が俺の知らない男と、放課後の早い時間に一緒に帰る姿をグラウンドから見かけた。
谷口はきっと知らないだろう。俺のもと彼女はお前のクラスメイトだったんだぜ。
そんなことにも気づかないほどお前がうといということは、もうわかっている。
うといというか、やっぱり谷口の胸の中は野球でいっぱいなのだ。ほかのなにも入りこめないくらいに。
俺は、そんな谷口が好きだった。谷口は、俺の中の素直で純粋な部分を呼び起こす。
野球一色の高校生活、それもいい青春じゃないかと、振られたあとに思った。
3年の夏、壮絶な専修館戦を制したあとの明善戦。
最後の試合にしたくなかった。本気でそう思った。俺たちは、もっともっと大好きな野球をやりたいんだ。
「1点。せめて1点でいいから返せるよう全力で…」
だからこそ、谷口のそんな言葉が嫌だった。お前の口からそんな―――負けて終わることが前提の、そんな言葉は聞きたくなかった。
「1点でいいのかよ。逆転しようって言ってくれよ、いつもみたいにな」
俺の素直な思いが、自然と口をついて出た。自分のキャラじゃないとかそういう照れはなかった。
もちろん、この試合をひっくり返すことなどもうできないこともわかっている。
負け犬根性はもうないけれど、野球の現実も経験してきたのだから。
それでも俺は言いたかった。そして谷口に、いつものように俺たちを鼓舞してほしかった。
明日も、あさっても、その次の日も、ずっとずっと一緒に野球をしていられるように。
そして谷口は、いつもの笑顔で言った。
「絶対、逆転しましょう!」
明日、俺たちは野球部を引退する。今日の練習のあと、部室に残った4人でそう決めた。
「いついつやめるって前から決めとくより、思い立った日に決めてスパッとやめちゃうってほうが、かっこいいよな」
そう言い出したのは山本だった。
「かっこいい」というのは山本の意地だ。さみしさが募るのが耐えられないのだろう。
たしかにそうだ。前もって部員に宣言しておいて、へたに心の準備なんかしたら、がらにもなく泣いてしまうかもしれない。つらい思いも、一日で済む。
太田も山口も、「実は俺もそう思ってた」と、いちも二もなく賛成した。俺も、黙ってうなずいた。
なんだ、やっぱりみんなこの野球部から離れるのがさみしいんだな。
この野球部が好きで好きでたまらないからこそ、きれいに去りたい。その思いは、4人とも同じだった。
このメンバーで過ごす、こんなに熱い季節は、もう二度とやってこない。
たしかにこれからも、田所さんや村松さんたちみたいに、OBとして一緒にプレイすることもあるだろう。
でもこの2年間のような、本気で同じ目標を目指す、熱い日々が帰ってくることはない。
俺は、卒業後は進学するつもりだ。しかしこれからの俺に、はたしてあれほど熱くなれるものが得られるだろうか。
これで終わりにしたくない、と心のどこかで思ってしまう。
明日、このエースナンバーのゼッケンを谷口に渡す。
それは俺にしかできない役目だ。
谷口のこれからも続く長い野球人生の中で、はじめて託されるエースナンバー。
それを手渡した先輩、いやチームメイトとして、覚えていてくれるといい。
俺は最後に谷口に訊きたい。
『お前とまた一緒に野球をする方法を知ってたら、教えろよ』と。
『5年後でも10年後でもいい。俺はどこでお前を待っていれば、またお前とバカみたいに熱い野球ができる?』
谷口はどう答えるだろう。
あのときみたいに、またにっこり笑ってくれるだろうか。
サヨナラの前夜