夏の日は長い。まだ空の青さは残っているが、もう7時前である。
駅に向かう道すがら、ふと谷口は、今も練習しているはずの野球部のことを思い出した。
(今日は8時までやる予定だったよな…)
急に無口になった谷口に気づいて、相木は切り出した。
「忙しいのに、今日はつきあわせて悪かったな」
「い、いえ、楽しかったです。久しぶりにお話しできて」
谷口は、相木を見上げて笑った。

そしてしばしの沈黙のあと、ぶしつけかとは思ったが、谷口は疑問だったことを訊いた。
「…相木さんは、どうして僕に会おうと思ったんですか?」
すると相木が立ち止まったので、谷口も足を止めた。
相木は谷口の顔をしばらく見つめたあと、谷口のあごに指を添え、クイッと顔を上げさせた。
相木の顔が近づいて、谷口の心臓はドクン、と大きく響いた。
「ただ会いたかったからっていうのは、理由にならないか?」
谷口は視線を逸らすことができず、体を硬くしていた。
「い、いえ」
「これからもまた、会いたいんだけど」
「……はい、あの、でも」
「でも?」
「来週とかは、無理です」
相木は笑って指の力を緩めてやった。
「そりゃあそうだ。甲子園まで行かなきゃなんないからな」
「はい」
間髪入れない谷口の答えには、やっぱり迷いがなかった。
相木は、その無邪気な自信が嬉しかった。







8時半ごろにグラウンドに行ってみると、もう誰もいなかった。
谷口はそのまま家に帰ろうと思ったが、部室に明かりが点いているのに気がついた。
「倉橋?」
部室の窓から、倉橋だけが残っているのが見えて、谷口はドアを開けた。
「…なんだ、びっくりした。ノックぐらいしろよ」
倉橋は、机の上のノートに向けられていた顔を少し上げて谷口を見ると、作業に戻った。
予選で当たるであろう学校の偵察メモをまとめているところなのだ。
今の一瞬の表情で、倉橋の機嫌が斜めなことを悟った。
谷口は、音を立てないようにパイプ椅子を引き、倉橋の向かいに座った。
倉橋は顔を上げないまま、鉛筆を走らせている。カリカリという音だけが聞こえる。
谷口は所在なげに、倉橋の様子をうかがっていた。

「今日は悪かったな。お前に全部まかせちゃって」
「いいさ、たまには」
「それこないだのメモだろ?俺も手伝うよ」
「お前、今日は疲れてんだろ。もう帰れ」
倉橋の声がいらついているのがわかった。わかったけれど、谷口はこのまま帰るわけにもいかないと思った。
谷口は、自分がうぬぼれていると自覚するのだが、最近、ふたりでいるときの倉橋は、もっと自分に対して柔らかな空気を漂わすのだ。
そんな空気の中で過ごすのは、谷口はここちよくて好きだった。
しかし今日の倉橋は明らかに険しい。

予選前だっていうのに遊びに行ってちゃ、キャプテンの自覚がなさすぎだってそりゃあ腹も立つよな。
谷口は、倉橋が自分に険しくなる理由も、理解できた。
「疲れてるのはお前のほうだろ。今日は二人分の仕事したんだから。それ、あとは俺がやるから、帰れよ」
そう言って谷口は立ち上がり、倉橋の手からノートを取り上げようとした。
倉橋はその谷口の手首を、グッとつかんだ。
「痛い」
「俺は帰らないよ。お前が帰れ」
「…怒ってるのか?」
そういう訊きかたが一番むかつく、と倉橋は思った。
自分に怒らせてるという自覚がなければ、訊くはずないのだから。それを相手に答えさせるなんて、ずるい手段だ。
手首をつかんだまま、逆に倉橋は質した。
「なんでそう思うんだよ」
「なんか、声が怒ってる」
倉橋は、自分も嘘がつけないたちなんだな、と情けなくなった。
冷静なつもりでも、谷口相手だとつい感情をあらわにしてしまう。
「こんな時期に練習さぼって遊んでるなんて、気合がたりないって言いたいんだろ?」
「それだったら、昨日の電話の時点で怒ってるさ。別にそれはお前の判断だからかまわない」
「…じゃあなんでだよ?」
谷口は、本当にわからないといった表情で倉橋を見た。
倉橋は、つい本音を漏らしそうになった。

 お前が誰かと会っていたからなんて、子供っぽすぎる。お前は俺のものでもなんでもないのに。
 でも、嫌なんだよ。むかつくんだよ、この鈍感。

そんな本音を言ってしまったら、谷口はどうするだろう。自分から遠く離れてしまうだろうか。
「…わかんないんなら、もういい」
はーっと一息つくと、倉橋は谷口の手首を解放し、その手でノートを閉じた。
「そんな言いかた、ないだろ」
逆に谷口が怒った口ぶりをしたが、倉橋はそれを無視した。
「もう帰ろうぜ。俺も帰るから」
立ち上がり、カバンを肩にかけると、倉橋は部室の電灯のスイッチを切った。


校庭のまわりに立つ外灯の弱い光が、窓から真っ暗な部室に差し込んでいる。
その光が、谷口の横顔を淡く照らしていた。
部屋を出ようとする谷口を、倉橋は背後から呼び止めた。
「谷口」
倉橋は、振り向く谷口の顔のあごに指でそっと触れ、自分のほうに引き寄せた。
「…!」
谷口は、相木にされた同じことを一瞬のうちに思い出した。
あの時も、心臓が大きく波打った。そしてまた、あの時と同じように動けなくなった。
倉橋は、谷口の顔を自分の胸に押し付けた。
倉橋の鼓動が、谷口の額に伝わる。まるで自分の体と一体になったかのように、はやい血のめぐりを感じた。

目を閉じても閉じなくても、視界は闇である。その闇の中で確かめられるのは、お互いの体温だけだった。
谷口は、倉橋のかもす柔らかな空気を感じた。谷口の好きな空気だ。
目を閉じ、そして額を倉橋の胸に押しあてたまま言った。
「…汗くさい」
「お互いさまだろ」
「今日は俺、汗かくようなことしてないぜ」
「ふーん…」
倉橋の声が、心なしか嬉しそうに聞こえた。


そのしばしの優しい時間のあと、谷口がぽつりと言った。
「初戦に、相木さんが応援に来てくれるって。がんばんなきゃな」
倉橋は急に谷口の体を離した。谷口は少し驚いたが、言葉を続けた。
「そうか、お前は相木さんはよく知らないよな」
「知らないよ」
また険しくなる空気に、谷口は、「…もしかしてこれ、地雷?」とふと思った。
谷口は、倉橋を扱いにくい男だと思った。と同時に、声にならない笑いが漏れた。
闇の中では、その笑いには倉橋は気づかなかった。





今日、久しぶりに会った相木は、谷口が知っている頃とは少し違って見えた。
明るくて頼もしいところは変わらないのに、どこかさびしそうでもあった。
何度も、「今のお前は、楽しそうでうらやましい」と言っていた。
確かに、谷口は今、野球をするどの瞬間も楽しくてたまらない。こんな時間が一生続けばいいと思う。
でもいつか必ず、この夢の時間は終わる。去年、先輩たちが最後の練習をいつまでも終えられなかったように、自分もしがみついてしまうような気がする。
そして年を取って、いちばん楽しかった時代はと自分に問う時、この野球部でのなにげない毎日を思い出すにちがいない。

相木さんも、無邪気でいられたころを思い出したかったのかもしれない。でもサッカー部の後輩には、先輩としてそんなこと言えるはずもない。だから俺と会おうと思ったんじゃないだろうか。
俺なら先輩後輩の垣根は低いもの。
それで自分が、相木さんに少しでも何かを与えることができるなら、なんでもしたいと思う。どんなに感謝してもしつくせない人なのだから。
そして、相木さんに見せても恥ずかしくない試合をしたい、と谷口は思った。



ふたりとも、なんとなくまだ真っ暗な部室から出られずにいた。
倉橋は窓際に立ち、谷口は机に腰かけていた。
「倉橋」
「うん?」
「いい試合しような」
「いきなり、なんだよ」
「だって、最後だし」
「…まあな」
倉橋が、窓の外の外灯に目を向けた。その逸らした視線を自分に引き戻すように、谷口は言った。
「日本の高校生の中で、俺たちがいちばん長い時間、野球やってやろうって思わないか?」
その言葉に、倉橋はしばらく沈黙した。谷口がその目標を口にしたのは、初めてだったからだ。
そして視線を谷口に向けた。
「どうせなら、そこまでとことん目指してやるか」
「そうだよ。みんなを悔しがらせてやろうぜ。みんな、野球が好きな奴ばっかりなんだから。誰よりも長く野球をやっていたい奴ばっかりなんだからさ」

倉橋には、その言葉が本気なのか冗談なのか、それとも無邪気な夢なのか、わかりかねた。
それでも、谷口が言うならそれに応えたいと思う。
そして、この夏を谷口と一緒に野球をする最後のシーズンにしたくはなかった。
その覚悟がまだない、というのが正直なところではある。
しかしこれが最後でもそうでなくても、今年の夏にはもう戻れないのだ。


部室の窓からは、夏の夜空が見えた。
墨高で野球ができる最後の夏の一日一日が、谷口はいとおしくてたまらなかった。
汗のにおいがする部室で過ごす、このわずかな時間でさえも。

戻れない夏  2
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