例年よりも長引いていた梅雨のために、地方予選の日程は、一日ずれこんでいた。
先週、相木は墨高の地方予選の初戦を応援しにくると谷口に約束していた。
谷口は、相木が試合前の控え室まで来てくれるかと思っていたのだが、来なかった。
別にそんな約束まではしていないのだから当然なのだが、ひと言だけでも声をかけてほしいと思っていた谷口は、少し残念だった。


なんで、こんなに声を聞きたいんだろう。俺は、不安なんだろうか。
自信がないっていうことじゃない。むしろ、今までの自分たちの練習量には絶対の自信がある。
偵察も万全だ。油断してはならないとはわかっているが、相手は明らかに墨高の敵ではないレベルである。自分の調子もいい。
でも、なにか最後に自分の背中を押してくれるものが欲しい、と感じていた。
今まで数え切れないほどの試合をこなしてきて、ここちよい緊張はしても不安を感じたことはないのに。
それだけ、この夏にかける思いが強いということなのかもしれない。



(あ、来てる―――)
試合開始直前、スタンドに視線を向けると、谷口は不思議とひと目でその姿を認めることができた。
自然に、ほほが緩んだ。
―――ありがとうございます。
そう胸の中でつぶやいて、谷口は一礼した。
倉橋は、その谷口の視線の先に気づいていた。
「谷口」
そう呼びかけて振り向いた谷口の顔からは、さっきまでの不安げなものが払拭されていた。
なにがその不安を消し去ったのかも、倉橋には察することができた。
「そろそろ時間だぜ」
「ああ」
ベンチに戻る途中、もう一度谷口はスタンドを振り返った。
―――しっかり見ててくださいね。俺の一番格好いいところを。
さっきとは逆にふつふつと湧き出る自信に、自分は案外、単純なんだなと可笑しくなった。

もうすぐ、試合開始を告げるサイレンが鳴る。谷口は興奮で胸が高鳴った。







学校へ戻る電車の中で、谷口はつり革に体重をあずけて立っていた。
ぼんやりと窓の外を過ぎていく景色を眺めている。
初戦である2回戦、墨高は谷口の先発でコールド勝ちを収め、とりあえず4日後の3回戦まで時間ができた。
自分の肩の調子もいいし、順当な今日の勝利で、チームの雰囲気も上々である。

谷口は、今日まで突っ走ってきた毎日が、少しは報われたようでほっとしていた。…自分だけは、大切な予選前の一日を私用につぶしていたが。
それもまた自分にとっては、予選前のいい仕切りなおしになったと思っている。
あの毎日のまま今日を迎えていたら、もしかしたら違う結果になったかもしれない、とすら思う。
しかしそんなことは、部員たちにはけっして言わない。
いつものとおり、少しのことでは動じない、そして弱音を吐かないキャプテンでいることがチームのためだと思うのだ。
もう自分のひと言でくずれるようなチームではないとは信じているが、キャプテンが揺らいでいることを部員たちが知って、プラスになることなんてなにもないのだ。
そして今日、あの人に自分の勝利する姿を見せることができた。
それであの人に、少しでも何かを与えることができればいいと思う。自分ができる恩返しは、それぐらいしかないのだから。


相木は、試合終了後の整列のころには、スタンドから姿を消していた。
谷口はしばらくグラウンドに残って見わたしていたけれど、やはり見つからない。控え室にも来なかった。
相木さんはそういう人なのだと谷口は思った。試合会場も控え室も選手の聖域で、部外者が立ち入るものではないと思っているのだろう。
そういう馴れ合いには厳しい人なのだ。それはよく理解できる。
でもせめて、ひと言声を聞きたかった。
谷口は、今夜、自分から電話をかけてみようかと思った。




「谷口」
車内の喧騒も耳に入らないほどぼんやりとしていた谷口は、右隣に立っている倉橋の、自分を呼びかける声に、はっとした。
「な、なに?」
谷口は、自分でも可笑しいほど動揺していた。
「学校に帰ってからミーティングするんだろ?」
「うん」
倉橋は、谷口の顔をいぶかしげに見ていた。
「なんかお前さあ…」
「なんだよ」
「…なんでもない」
倉橋は、ぷい、と顔をそむけた。

谷口はそんな倉橋を見上げながら、
(こいつは、こういうところがあるよな…)
と思った。
倉橋には、心のうちを見透かされ、そして無言のうちにいさめられているような気持ちにさせられるのだ。
今もそうだ。
キャプテンとして今考えなければならないことは、ミーティングで話す今日の反省点、今後の対策、明日からの、いや今からの練習内容である。
しかし谷口が考えていたのは、自分のこと。とても個人的なことである。それで満足していた。
倉橋は、そんな自分を厳しく軌道修正してくれる。ときに言葉にして、ときに態度で。
それがうっとおしいとは思わない。かつては思ったこともある。しかし今はとてもありがたいと思える。
同い年とはいえ、やはりどこか倉橋は大人だと思った。
(だから俺にはこいつが必要なんだ)
自分のそばに、倉橋がいてよかったと思う。ただ、そんなことは言葉にはしないけれど。



「倉橋」
「ん?」
「話していい?」
「なに」
「いや、ミーティングのこととは全然関係ないんだけど」
「いいよ」
倉橋の声は、心なしか優しく、谷口は安心した。
「俺ってさ、欲ばりなんだと思ったよ」
「欲ばり?ああ、そうかもしれないな」
「え?」
倉橋が変なところで同意するので、谷口は思わず聞き返した。
「いや、こっちのこと。気にすんな」
谷口は、怪訝に思いながらも話を続けた。
「…俺、指の手術しただろう?あの時のお医者さんは、ピッチャーとして投げないならそのままでも肩を壊してしまうことはないって言ったんだ。野球を続けることさえできるなら、ポジションなんてどこでもいいはずなんだよ」
「でもお前は、ピッチャーにこだわった?」
「そう。俺はずっとサードだったんだからサードで続けられるならそれで満足なのに、あの時の俺は、ピッチャーとして投げ続けたいと思ったんだ」
ガタン、と大きく電車が揺れ、谷口は倉橋の肩に寄りかかった。
「あ、ごめん」
「…それで?」
「それで、俺っていちど手に入れたものは手放したくないと思う人間なんだと思ったんだ。最初は球拾いでもいいって野球部に入ったはずなのにさ」
それを聞いて、倉橋はフッと笑った。谷口もつられて笑った。
「まあ、えてして人間ってそういうもんだけどさ…。お前は、人に対しても案外そういうとこあるんじゃない?」

谷口はドキッとした。さっき倉橋が『そうかもしれないな』といったのは、そのことを指していたのか。
でも、どういう意味なのかよくわからない。
(人に対して欲ばり?俺が?俺が誰もかれもから好かれようなんて思ってるってことか?)
その真意を確かめようと谷口が口を開く前に、倉橋は谷口に笑顔を向けて言った。
「俺は、お前がピッチャーをあきらめなくてよかったと思ってるよ。…お前とバッテリーが組めてさ」
笑いかけられて、谷口は思わずうつむいた。



いつから、人は無邪気さを心から無くしてしまうんだろう。
相木さんは、俺の楽しそうなところがうらやましいと言っていたけど、ほんとの俺はそんなに純粋でも無邪気でもない。
いつでも揺れているし、手に入れたものは失いたくないという欲深さもある。
倉橋にだって、感謝しているということや、お前が俺には必要な人間なんだということが、素直に言えればいいと思う。
それが言えないのはきっと、相手に同じくらいの気持ちでいて欲しいと思う、打算があるからなのだろう。
見返りが欲しいと思っているのだ。
相木さんに対しても、忙しい中わざわざ見に来てくれるだけでありがたいのに、まだ何か自分への言葉を求めている。
そんなのは、無邪気とは言えない。
あらゆる打算を何も考えずに野球だけしていれば幸せだった季節は、もう過ぎてしまったのだと谷口は思った。



「とりあえずさ」
倉橋が、うつむく谷口の頭の上に、ポンと手のひらを乗せた。
「勝負には欲かいてみようや、キャプテン。次の3回戦に向けてさ」
「…そうだな」
谷口は、揺れる自分がまた軌道修正された気がした。

駅に到着し電車のドアが開くと、外の蒸した空気が車内に流れ込んだ。
長い梅雨が終わり、真夏がすぐそこにやって来ているのを、谷口は感じた。
ホームに降りると、午後3時の照りつける太陽に、谷口は思わず手をかざして目を閉じた。

うつむく季節
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