墨高の初戦である2回戦。その日は、今季の最高気温を記録していた。
午後からの試合開始前、球場全体がかげろうに包まれたような熱気の中、スタンドにいる自分を谷口が見つけたのがわかった。
谷口は自分にぺこりと頭を下げたが、俺は気づかないふりをした。それでも谷口は嬉しそうに見えた。
そして俺はゲームセットの瞬間に席を立ち、球場を後にした。
きっと向こうからアクションを起こしてくるだろう。その確信は的中した。
初戦に勝利した夜、初めて谷口のほうから電話をかけてきたのだ。
自分がやばい、と俺は思っていた。
自分は谷口の素直さにつけこんでいる。その自覚ははっきりあった。


「おめでとう。コールド勝ちはさすがだな。いや、予定どおりか?」
「そんなことないです。でも俺、試合前にスタンドの相木さんを見つけて、すごく落ち着いたんです。だから…」
「俺は、何も言ってないし、してないさ」
「いいんです。来てくれて、ほんとによかったです」
谷口の声の響きには嘘は感じられなかった。電話の向こうの笑顔も見えるようだった。
胸が、痛くなった。
―――つけこんで、どうするつもりなんだ、俺は。




誘えば、谷口はまた自分と会うだろう。でもそれは、俺を尊敬できる先輩として見ているからだ。
俺は確かに、谷口の、馬鹿がつくほど野球に熱くなれる素直さに惹かれていた。
自分がいつのまにか忘れてしまった、ひとつのことに情熱を傾けられる純粋さを谷口は持っている。
そんな熱い季節を楽しんでいる姿を見るだけで、自分にも何かを取り戻すことができるような気がしたのだ。
だから谷口に会いたかった。つい一週間前までは。

しかし、今は会いたくないと思っている。ところがそれとは真逆に、会いたくて話したくてどうしようもないという、この自分でも理解できない矛盾も抱えている。
自分は、谷口の素直さを愛しているのだと思っていた。しかし、それにつけこんで、あまつさえ汚してしまいそうな自分がいるのを知ってしまった。
きっと会わなければ、そんな自分には気づかなかった。


このまま会わないのが、自分にも谷口にもいいのだ。
そうすれば、谷口は自分のことをいい先輩として思い出の中に閉じ込めておいてくれる。
そして自分も谷口を汚すこともない。
頭ではわかっている。
それでも俺は、また谷口の俺に対する尊敬の気持ちと、その素直さを利用してしまう。

「次の3回戦からは、たぶんゼミの発表とか合宿と重なるから行けないと思うけど…決勝戦には何があっても行かせてもらうよ」
「あの、お時間があればで結構ですから。気にかけてもらうだけで、俺、すごく嬉しいです。はげみになります」
「必ず俺を決勝戦に呼んでくれよな」
「はい」
谷口の声には、無邪気さだけでなく自信が込められていた。
やはりその自分の可能性を信じる熱さには、こちらの気持ちまで高揚させられる。谷口の不思議な力だ。


追い詰めすぎない、離れすぎない。今はこのくらいの距離がちょうどいいのだ。
そうすればきっと、次に会うときには……と自分の中の黒い部分が頭をもたげている。
―――つけこんで、どうするつもりなんだ、俺は。



谷口が、バッテリーを組んでいるあのキャッチャーに心惹かれているのは、わかっていた。
おそらく谷口は自覚していないが。
しかしこの前、一日話しただけでも、谷口の口から彼の名前が何度出てきただろう。
あえて俺からは彼のことに触れはしなかったが、谷口はその倉橋という男について語りたくてしかたがないように見えた。
谷口の投手としての成長は、あの捕手なくしてはありえなかった。それは傍から見ていてもよくわかる。
しかし谷口の中では、相棒とかチームメイトとかではなく、もうそれ以上の存在になっているのだ。
俺の中に、つけこんでしまいたいという黒い気持ちが生まれた理由は、そのことを悟ってしまったことにもあるような気がする。
淡い嫉妬である。くだらないことだ。
谷口のことは、ただ元気をもらえる後輩という存在であれば、それでよかったはずなのに。




今の自分は理性的な―――悪く云えば冷めた人間だと思っている。
自分の気持ちが報われることはないということも、理性ではわかっていることだ。
それでも、自分と谷口をギリギリまで追い込んでどうなるのかを知りたいと思う、もうひとりの自分がいる。
こんな自分を知ったら、谷口は今までのような無邪気な笑顔を見せることはなくなるだろう。
そんな結末を迎えるくらいなら、やっぱり谷口にとって尊敬できる先輩という姿を残して去るほうがいい。
わかっているのに、なぜ俺はそれができないのだろうか。
自分は、自分で思っているほど理性的でも大人でもなく、ただの身勝手な子供なのかもしれない。



「きっと相木さんに見にきてもらいます、決勝戦」
「おっ言ったな。約束は守れよ」
「俺は、こう見えても約束はやぶったことないんですよ」
「へえ」
「相木さんこそ、何があっても見にきてくれるって言葉、忘れないでくださいね」
さっきまでの、お時間があれば…というトーンとは違った谷口の声色に、胸が騒いだ。

つけこんでいるつもりで、実は自分のほうが翻弄されているのかもしれない。
電話を切ったあとにふっと笑いがこみ上げてきた。
今年の夏は、去年よりも暑い、熱い季節になりそうだと思った。

翻弄
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