「そりゃ、俺はお前に意見できるほどの経験はないけどさ」
倉橋にバカにされたと思ったのか、谷口はそれ以上は何も言わなかった。
「…誰も、最初から心変わりして冷たく捨てるつもりでつきあったりしねえよ。でも、どうしようもなくなることだってあるんだよ」
大切にしなければならないひとよりも、理性では抑えられないほど惹かれてしまう存在に出会ってしまったら、もうどうしようもない。
自分の気持ちをだましてまで、関係を続けることはできない。
好きでもないのに、ずるずるとつきあうほうが、よっぽど誠意がないんじゃないの。
―――と、こっそり心の中では自分を正当化してみた。
が、けじめをつけないまま自然消滅を図った自分に、分があるはずもない。悪いのは自分だ。
しかし一番の原因は、目の前の男なのだ。
「お前のせいなんだよ」
という言葉を、倉橋はぐっとのみこんだ。
「ほかに、好きなひとができたってことか?」
谷口のまっすぐな視線に、倉橋はおもわず目を逸らした。
「……そうじゃない」
「ふうん」
谷口は、怪訝な表情をした。
倉橋は腹が立ってきた。
―――お前のせいなんだよ。
ふと倉橋は気がついた。
けっこうな時間が経っていたのだろう。小雨とはいえ、谷口の体は濡れそぼっていた。
「お前…肩冷やすなよ」
「あ」
谷口も、自分の状態に今気づいたような声を出した。
「お前こそ。あれからずっとここにいたんだろう?」
谷口がそう返すと、倉橋は穏やかな表情をして、谷口の肩に手を置いた。
冷えた肩に置かれた大きな手のひらは温かく、その熱が全身に伝わっていくようなここちよさを、谷口は感じた。
あの子にも、こんなふうに優しくしてやればよかったのに。
そうすれば泣かすこともなかっただろう。
いや、優しく触れていたこともあったにちがいない。肩に、髪に、ほほに。
それでも倉橋の気持ちは離れてしまったらしい。
確かに、ここ最近の倉橋は野球漬けだった。彼女の存在すら感じられないくらいだった。
それでもいいとあの子は思っていたのかもしれない。
倉橋ものらりくらりと、けじめをつけるのを先延ばしにしていた。
しかし今日、あの子は意を決して、倉橋と対決することにしたのだ。自分の気持ちも、倉橋の気持ちもすべて素直にさらけ出させるために。
この霧のような雨が、彼女を決意させたのだろうか。
「雨の日は、心が素直になるんだってさ」
「はあ…?なんだ、それ」
谷口のその言葉があまりに唐突で、なんとなくいい雰囲気だと浸っていた倉橋は、急に夢から覚めた感じがした。
「誰だったか有名な詩人が言ってた…って授業で聞いた」
「詩人ねえ…」
倉橋は、急にこんなことを言い出した谷口の真意が読めずにいたが、谷口が予想外の言動をするのはいつものことだと思っていた。
そしてそれに便乗してやろうかと、心が動いた。
「じゃあ、今の俺もお前も、素直なんだな」
「…そうかも」
さっさと部室なり校舎なりに入って体を温めればいいものを、倉橋はなぜかその場を動きたくなかった。
谷口も、雨宿りをうながすでもなく、そのままの姿勢でいた。
この沈黙は、倉橋に素直な思いを吐き出させてしまいそうになる。
「俺のせいなのか?」
その沈黙を不意に破った谷口の言葉に、倉橋はぎょっとした。
「…なにが」
倉橋は、その動揺を声に出さないようにするのに苦労した。
「あの、彼女とうまくいかなくなったのって…俺のせいなのかなって」
「どういう意味で言ってんの」
谷口の肩に置いた手に力がこもった。
その倉橋の声音に、今度は谷口のほうが少し驚いた。
「俺はさ、生活のほとんどが野球漬けでも全然かまわないんだ。むしろそのほうが楽しいくらいだから。でも、他の人間が俺と同じわけじゃないだろ。それぞれに野球のほかにも大切なものがあって…。なのに俺は、朝から晩まで野球のことしか考えられないような生活を、みんなに強制して」
……ああ、そういうことなのか。
倉橋は、ほっとするような、軽く落胆するような複雑な気持ちになった。
谷口に惹かれている、この正直な気持ちを知られるのは怖い。
しかし、逆に知られたくもある。気持ちをぶつけたくなる。
今の自分は、皮肉屋で屈折していて、いつも人と衝突してしまう。わかっているのに直せない。
しかし、谷口のまっすぐな素直さに、いつしか感化されてきているという自覚もある。
谷口に心のすべてを開いたら、きっと自分のこのひねくれた性格も、もっとましになるような気がしている。
でも、今は怖い。
「お前のやりかたが不満なら、とっくにみんな離れていってるさ」
「じゃあ、彼女とのことと、俺とは、関係ないんだな?」
谷口は、ほっとしたような表情をした。
「…やけに気にしてくれるじゃん、俺と彼女のこと」
倉橋が笑って右手を谷口の頭にのせると、谷口は顔を赤くしてその手を振りはなった。
「べ、べつに…。でも俺だって責任感じたんだ。それでお前がつらい思いしてるのかもって」
倉橋はなんだか嬉しくなった。
そしてこれが谷口の今の素直な気持ちなら、このまま責任を感じさせておこうと思った。
その真意がなんであれ、たとえ負の感情でも、谷口の意識を自分に向けさせておくことができるのなら。
ほんと、谷口が言うように、俺はひどい男かもしれない。
ふたりが校門を出るころ、冷たい雨はやんでいた。
「今からでも、みんなと合流しにいくか。山本さんご推薦の店ってのに」
「うん。山本さん、今度の店は大丈夫って言ってたから、まだみんないると思うし」
「確かに、この前の店はひどかったよなあ。あんなにひどいカレー、食ったことねえよ」
「…まあね」
谷口は今の倉橋が、グラウンドでひとりたたずんでいたときの冷たい表情の男とは別人に思えた。
さっきは、自分から遠く離れてしまった、知らない大人に見えたのだ。倉橋が怖いと思った。
今、自分の左隣にはいつもの口の悪い倉橋がいる。それが嬉しかった。とても心が安らぐ。
「倉橋」
谷口は、倉橋の顔を見上げた。
「俺、そうやって毒吐いてるいつものお前のほうが好きだよ」
「……ああ、そう」
一瞬の沈黙のあと、倉橋は谷口の顔を見ないままあいづちを打った。
「俺ってそんなに毒吐いてるかよ?思ったことをすぐに口に出してるだけなんだけど」
「あ、そうなんだ。自覚なかったんだ」
倉橋は、泣かせた彼女には本当に申し訳ないけれど、やっぱりどうしようもないと思った。
谷口と交わす言葉ひとつに、こんなにも心が揺すぶられる。自分ではもうどうしようもないのだ。
今日、彼女と雨に濡れながら話していて、はっきりと自分の気持ちを自覚してしまった。
雨の日は心が素直になれる、というのは、真実かもしれない。そう倉橋は感じた。
雨の日は 2