どのくらいの時間が経ったのか、谷口にはわからない。
倉橋の指が、舌先が、体じゅうを優しく撫でる。
心臓が激しく音をたてているのが自分でもわかったが、密着したお互いの胸をとおして、倉橋の鼓動もじかに伝わってきた。そして体の熱さも。
(倉橋も、俺と同じなんだ…)
きっと倉橋にも、自分の心の動揺と体の熱さが伝わっている。
それに気づくと、谷口の胸の中には恥ずかしさと同時に、満たされていく想いがこみあげてきた。
谷口は強く抱きついた。

体の中に何度も押し寄せた波に、自分の理性が流されては戻される、そんな感覚をこの長い夜の間に、初めて覚えた。
最初はただただその波に翻弄されるばかりだった。
しかし、何度目かの昂ぶりに、谷口の頭の中が不思議と冷静になる瞬間があった。
(倉橋って……慣れてるよな)
谷口は他のひとのキスも抱擁も知らないが、倉橋のそれはきっと上手いのだろうと思った。
初めての自分をこんなに何度も上りつめさせてしまうのだから。正直、悔しいほどだ。
そりゃあ、女の子も落ちるよ…。
誰ともわからない相手に谷口は淡い嫉妬を覚えた。倉橋の背中にまわした手に、力がこもった。



相木に抱きしめられたときのことを、頭のすみで谷口は考えていた。
あの時、相木さんは俺に何を言いたかったんだろう。やっぱり、俺と、こうなりたいって思っていたんだろうか。
俺はあの目に見つめられると体が動かなくなってしまう。
俺は、あの腕から逃げた。いや、逃がしてくれたのかもしれない。
もし、俺に対して後輩以上のものを求めていたとしたら、俺には応えられない。
でも俺は、あなたを嫌いになりたくないんです。いつまでも好きでいたい。
いや、今でも好きだ。
人生の岐路で、踏み出せないでいる俺の背中を押してくれた人。大切な大切な人だ。
嫌いになんてなれるはずがない。
この先も迷うことがあったら、また俺を導いてほしい。
こういう思いを持ち続けるのは、悪いことなんだろうか。
こんなことを倉橋に言ったら、軽蔑されるだろうか…。




「なに考えてんの」
耳元の倉橋の声に、谷口はハッとした。
「ひどいじゃん、こんなときに」
まさか考えていたことを見透かされたわけではないだろうが、谷口は焦った。
「わかんないんだよ、俺…」
「え?」
嫉妬や罪悪感や不安が一気に胸の中からあふれ出て、今までの経験では対処できない感情に、谷口はまいってしまっていた。
昔の俺は、もっと単純だったのにな。倉橋に会う前の俺は…。


「俺、お前を困らせてるかもしれないけど…今更、遅いんだからな」
「……」
「俺は引かないから、絶対」
そう言って、また谷口の体を強く抱いた。
「もう引けないんだよ、俺も、お前も」
「…なんか、共犯者みたいな言いかただな」
と谷口は言った。しかし嬉しかった。
さっきは、『ごめん、困らせたな』と謝られた。でも今は違う。ここで倉橋に謝られたりしたら、思い切って一歩を踏み出した自分の気持ちのよりどころがなくなってしまう。
拒む気なら拒めたのだから。決めたのは、誰でもない自分なのだから。
そんな自分を、『絶対引かない』と受け入れてくれる存在。
親でも友達でもない、自分を全肯定してくれる存在を得られたのだ。

でもそれは一生ものなのか、谷口にはまだわからない。
倉橋を全力で信じたいのに、どこかで信じきれない自分がいる。
そして、自分の気持ちも。



自分と倉橋の着地点は、いったいどこになるんだろう?
谷口はまだ、ひとつの恋愛を終わらせた経験がないのだ。
お互いの気持ちが高まって、求め合って結ばれて、しだいに冷めてゆき、そして心が離れてしまう。そういう経験が、谷口にはない。
ないくせに、どこかでこの幸せな時間がいつか終わってしまう怖さを感じている。
今こうして気持ちと体を確かめ合っても、もうすぐ卒業して、別々の進路を取る。
それから、どうなっていくのだろう、俺たちは。


谷口のそんなとまどいを見透かしたかのように、倉橋は言った。
「先のことなんて、誰にもわからないけどさ…。お前が俺を信じてくれるまでずっと待つから」
谷口はドキッとした。
「…俺はお前を信じてないのかな」
「そんなの、俺にはわからないよ」
そう言った倉橋の表情が少しさみしそうで、谷口の胸が痛んだ。
俺は今、すごくひどいことを言った気がする。信じてないのに、好きでもないのに、押し切られてこうなったと言い訳しているように聞こえる。
それは倉橋を傷つけるなにものでもない。
どうしてそれを言う前に気づかないのか。バカだ、俺は。
好きじゃなきゃ、こんなことできないのに。




倉橋は、やっぱり自分は大人になりきれていないと思った。
ほんとうは恋愛経験のない谷口を、自分が“大人の”余裕でいつまでも待とうと思っていた。
急ぎすぎて、今までふたりの間に築いてきた信頼や愛情を失いたくない。
たとえこのまま卒業して、お互いの歩く道がわかれてしまっても、きっとどこかでまた気持ちを確かめられるときが来る。
自分が、谷口に愛されるだけの男に成長すればいいのだ。
それくらいのこと、自分にはできると思っていた。

それなのに待てなかったのは、谷口という人間が、自分の今までの経験では計算しつくせなかったからだ。
どこに真意があるのかわからない言動。無邪気な顔で、煽るようなことを言う。
不意に抱き寄せても、拒むかと思えば目を閉じて体をあずけてくる。
それなのに次の瞬間には、カラリとした笑顔でかわされる。
翌日には、何もなかったかのように普通の友達の顔をする。
それが天然なのか作為のものなのか、谷口に限ってはわからないのだ。
そのひとことに、表情に、時おり触れる指先に、倉橋は一喜一憂してしまう。
冷静を装ってはいても、胸の中がかき乱される。
自分ばかりが熱くなっているようで不安だった。
振り回されるのが悔しくて、はやく自分のものにしてしまいたかった。
お互いの体を知ったら、何かが変わると思っていた。ふたりの間に確固たるものが生まれると思っていた。

そしてもうひとつ、相木という存在。
その相木に、谷口が惹かれていくの見ているのに耐えられなくなってしまったのだ。
年齢や経験以上に、あの人は自分よりずっと大人だ。
自分がどうあがいても、あの人の包容力にはかなわない気がした。ムキになればなるほど、自分の子供っぽさを思い知らされる。
そして、谷口が相木の前でかすかに見せる媚態が、たまらなくつらかった。嫌悪感すら覚えた。
きっと谷口は無意識に違いない。それはわかっている。
谷口にとって相木は特別な存在だ。
しかし、自分のほうがずっと近くに、はるかに長い時間そばにいるのに、谷口は目の前の俺を見ずにその離れたひとのことを想っている。
それを黙って見ていられるような大きな度量も自信も、今の自分にはなかった。



谷口は、背中に倉橋の胸の熱を感じながら、思った。
着地点なんて、今は考えなくてもいいのかもしれない。
今、お互いのことが好きだと思う気持ちが真実で、先のことなんて、ほんと誰にもわからない。
ずっと続くかもしれないし、悲しいけれど気持ちが離れることもあるだろう。
でもそんなことを先回りして考えていたら、好きな人に心を開くことなんて、一生できない。
倉橋は、「ずっと待つから」と言ってくれた。それだけで、今はもうじゅうぶんだ。
ひどいことを言う自分には、もったいないほどの言葉をくれたのだ。




夜が明けたら、谷口は、また普通の友達の顔をするだろうか。いままでとは違う表情をするだろうか。
それとも、急ぎすぎて求めた自分に嫌気が差すか。
賭けをするような気持ちで、倉橋は谷口を抱いていた。
その賭けがどんな結果になろうとも、すべては自分と谷口が決断したことだ。
『共犯者みたい』と谷口は言ったが、ほんとうにそうだ。

結果が知りたい。その顔が見たい。倉橋は、この夜が早く明けてほしいと思った。
そして反対に、ずっと続く夜であってほしいとも思った。

夜が明けたら  2
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※あとがきといいわけ…2nd