「このまえも?」
「え、ええ。このまえも、なんか機嫌が悪くなったりよくなったりってことがあって」
それを、迷惑だとか苦労してるとかではなく、むしろ楽しんでいるかのような表情の谷口に、相木は心を動かされた。
「そういう男が女房役で、バッテリーが不安定になったりはしないのか?」
そう問われて、改めて気がついた。
そんな倉橋の態度で、自分の野球に悪い影響を与えることはなかったのだ。
「そういえば、そういうことはないですね。なんでだろう…。野球には自分の感情を持ち込まないやつだからかな」
谷口は、自分で自分の言葉に得心していた。
「いい友達なんだな、その倉橋は」
「友達…。そうですね」
はたして倉橋は、『友達』なんだろうか。
谷口はまだそのことにこだわっていた。
「…ちょっと妬けるな」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
そう言うと、相木は谷口のあごに指をかけた。
谷口は、前と同じように動けなくなった。
相木は谷口の首筋に顔を寄せた。
触れる、というよりは軽く吸われた感触に、谷口は寒気に似たものを覚えた。
そして、驚きはしたが嫌な気持ちでもなかった。
何度かくり返されるそれがくすぐったくて、谷口は思わず身をよじった。
「…大丈夫。あとはつけないようにしたから」
谷口は不思議そうな表情をして、左手で自分の首筋に触れた。汗ばんでいる。
「あとって、つくんですか?」
「つくよ」
相木は、ふっと笑いを漏らした。そして、右手の指を谷口のほほにすべらせた。
「じゃあ、試してみるか?」
と誘ったら、どんな反応をするだろうか。
それを知りたくもあったが、谷口の素直な問いに、ほんとうに知らないのだということがうかがえて、なんとなく嬉しかった。
谷口はまだ、誰のものにもなっていないのだ。あの、倉橋のものにも。
今、自分の前にいる谷口は、触れなば落ちん、という様子でもある。しかし、汚したくないという気持ちは嘘ではない。逆に、自分の手で教えてやりたいという征服欲も、確かにある。
このままの谷口でいてほしいと思う自分と、誰かのものになる前に手に入れたいと思う自分。
確かなのは、今、谷口に手を出しても、きっとお互いにとっていい結果は生まないということだ。
谷口の気持ちを混乱させたまま、目前に控えた全国大会に送り出したくはない。
谷口の一番大切にしている野球を、高校最後の夏を、何も迷いのないまま思いっきり楽しんでほしい。
相木は、谷口のその熱い純粋さに惹かれているのだから。
「相木さん…?」
谷口は、自分のほほに押し当てられている相木の手に触れた。
「谷口、お前、どうして俺に会いたいって思ったんだ?」
そう訊かれて、谷口は、考え込んでしまった。
あの電話口で、考えていなかった言葉が口をついて出たことに自分でも驚いたのだから。
会えて嬉しかった。駅で相木の顔を見たとき、とても安心した。
でもその気持ちどこから来たのか、相木の質問にうまく答えられないと思った。
「安心したいから」ってどういう気持ちなんだよ…。
あまりに黙りこくっている谷口に、相木が思わず声をかけようとした時、谷口がぽつりと言った。
「きっと、なにか声をかけてほしかったんだと思います」
「声?」
「ええ。『がんばってこい』とか、とか、そんなひとことでもいいんです」
「それじゃあ、電話でもいいだろう?」
やっぱり、迷惑だったのか。
谷口はうつむいて、自分の体を相木からすこし引いた。
相木は、声にならない苦笑をして、谷口をもう一度引き寄せた。
「違うよ、迷惑とか思ってるんじゃない。お前の気持ちが知りたかっただけだ」
「…気持ち?」
谷口は、今、自分がどう答えればいいのかわからなかった。
相木さんは、どんな答えを俺に求めているんだろう。
ほほに当てられた手のひらが、熱かった。
―――焦りすぎかな、俺。
相木は、力を込めてしまいそうな腕を、そっと谷口の体から離した。
「いや、どうでもいいな、そんなこと」
このままでは歯止めがきかなくなりそうな自分の気持ちと、ふたりの間のよどんだ空気を変えるつもりで、相木は笑って谷口の肩をポン、とたたいた。
谷口は、顔を上げた。
「相木さん」
「え?」
「あの、『会いたかったから』というのは、答えになりませんか?」
正直なところ、今の谷口にはそうとしか自分の気持ちを表せないのだ。
相木に会えば、きっと明るい声で明るい顔で、自分を奮起させる言葉をかけてくれる。地方予選の前もそうだった。それを期待していたのだ。
その声を聞かせてほしいのは、親でも友達でも、これから一緒に戦うチームメイトでもなく、自分をずっと見守ってきてくれた人なのだ。
「前に、相木さんが同じことを俺に言ってくれましたけど」
「そうだったな」
「この答えじゃ、だめですか?」
「だめじゃないよ」
相木は、もういちどその首に唇を寄せたい衝動に駆られた。
その時、部屋の時計が11時を示したのに気づいた。
家に帰してやらなければならない。―――今夜は。
もし自分がもっと自制心の効かない男なら、とっくに谷口を自分のものにしていただろう。たとえ谷口を苦しめてでも。
(俺は、肝心なところで冷静なんだな)
そんな自分で助かったような、悔しいような、複雑な思いだった。
駅までの道のりは、谷口には、来るときよりも長く感じた。
生ぬるかった空気も冷えて、体が軽くなったような気がしてここちいい。
そのここちよさが気温だけが原因でないことはわかっていた。
やっぱり相木に会えてよかったと思った。
「今日は、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、相木はその頭を軽くたたいた。
「がんばってこいよ」
「はい」
改札で見送る相木に手を振って、ホームに出た。
ホームには人影はなかった。
遠くに聞こえる遮断機の警笛と、線路にひびく電車の走る音。それ以外の音もない。
明日から、この冷えた空気と静寂がうそのような、息つく暇もない熱い毎日が始まるのだ。
谷口は、はぁっと息を吐いた。
そして、相木の唇が押し付けられた首に、手のひらを押しあてた。
そこだけが熱を持っているような気がした。
なんとなく、今日、相木に会ったことは、倉橋には言わないほうがいいのだろうと思った。
言う必要もないけれど。
もし、今夜のことを知ったらまたふてくされるのだろうか。
谷口は、そんな倉橋の顔を、見てみたくもあった。
(悪趣味だな、俺も)
変な笑いがこみあげた。
真夏の夜の生ぬるい空気は、ひとを惑わすような力をもっているのかもしれない、と谷口は思った。
流されたい 2