試合開始前、あと数分でベンチから飛び出そうとするその時に、谷口はユニホームの肩を引っ張られた。
「何だよ」
「お前、うちの校歌って歌える?」
「へ…校歌?」
谷口がその引っ張っている方向を見やると、倉橋が、真面目な顔をしていた。
谷口は、すぐに視線を正面に直した。
「……1番だけなら、なんとか」
「上等じゃん」
「お前、知らないの?」
「授業で音楽取ってないと、覚えらんないんだよ」
「俺も取ってなかったけどさ」
墨高の授業のうち、芸術分野には音楽、美術、書道があり、入学時にどの科目を取るのかを選択する。
谷口は自分の音楽センスを自覚していたのか、音楽は避けて、かといって美術を取る気にもなれず、なんとなく書道を選択していた。
ちなみに倉橋は美術選択である。
ベンチの中で、谷口と倉橋は正面を向いてお互いの顔を見ないまま、まぶしい日差しのグラウンドを見つめていた。
倉橋が続けて、谷口だけに聞こえるような声で話す。
「予選のときも思ったけどさ、ちゃんと覚えとくんだったなと思うよな」
なんでいまさらそんなこと…と谷口は思った。
「まあ、予選は全国放送されてなかったし。適当にもごもご口を動かして決勝まで乗り切れたし」
「毎回、勝利の感動でまともに歌えませんって顔して?」
「イガラシなんかはさすがに歌えてたみたいだけど。井口とか丸井は…お前と一緒って感じ」
「じゃあ、今日の校歌斉唱は、イガラシをアップで映してもらわないとな」
その倉橋の大口に、谷口はフッと笑いを漏らした。
そして、今まで自覚していなかった体のこわばりが、すっと解けた気がした。
『みんな緊張するな、いつもの練習の成果を出せばいいんだ。肩の力を抜いていけよ』
そう言ってメンバーに檄を飛ばしていた谷口が、実は一番緊張しているのだということが、倉橋には感じられていた。
さっきまでの投球練習で谷口の球を受けた倉橋は、微妙に硬い投球フォームが気になっていた。
ミットに感じる球の重さも速さも、昨日とは違っていた。
しかしそれは、2年間バッテリーを組んできた倉橋だから思うことであって、実際は問題ないレベルなのかもしれないが。
「どうだよ、調子いいだろ」
ブルペンで何球か投げたあと、そう笑って訊く谷口に、倉橋は「おお」とだけ答えた。
(俺、緊張してたんだな…)
自分では、いままでと変わりなく淡々と好きな野球をすればいいだけだと思っていた。
それは、甲子園という大舞台でも同じことだと。
しかし、自分はそう思っていても、まわりがそれを許さない。
友達や家族や学校、地域、そして会ったこともない人たちからの大きな応援。それはありがたいものに違いなかったが、逆に温かいプレッシャーともなっている。
自分はそういう雰囲気には慣れていると思っていたが、やはり甲子園出場というのは別物らしい。
自分にとっても、周りにとっても。
このまま投げ始めていたら、自覚のない緊張感につぶされていたかもしれない。
ガチガチになって崩れる前に、救われたような気がした。倉橋に。
これで何回目だろう。落ちそうになる自分を倉橋に引き上げられたのは。
「ありがとう」
とは言わなかった。でもこの夏が終わったら言ってやろうと思った。
お前が隣にいてくれてほんとによかった、と。
「でもまあ、これから何回か歌っていけば、最後には覚えられるんじゃないか?」
「大きく出たねえ」
そう倉橋はからかうように言ったが、そんな谷口の口調が、明らかにさっきまでのかたくななものとは変わっていて、嬉しくなった。
「だって、そうだろ?」
谷口は右隣の倉橋の顔を見て、言った。
倉橋は、その笑顔に胸が騒いだ。そして少し視線をはずした。
「そのとおりだよ、キャプテン」
倉橋の返事に満足したようにうなずくと、谷口はベンチの中のメンバーを振りかえって見た。
やはりこわばった空気が流れている。
谷口は大きな声で呼んだ。
「イガラシ!」
「はい」
名前を呼ばれて、丸めていた背を伸ばした。さすがのイガラシも緊張した面持ちである。
「今日の校歌斉唱は、お前がリードするんだからな」
「え?」
「うちじゃあ、お前ぐらいしかまともに歌えそうもないって、今、気がついたんだよ」
「……はあ」
試合前の最後に、檄を飛ばされるかと待ちかまえていたメンバーから、ドッと安堵の声が漏れた。
「キャプテン、それはないですよ。俺だって歌えますよ」
「俺も音楽選択してて、1学期の成績、4だったんですから」
「へえ、意外だな」
「キャプテンに言われたくないですねー」
急にワイワイと騒がしくなったベンチの中は、いつもの部室のようだった。
これでいいんだろ?といった表情で、谷口は倉橋を振り返った。倉橋は黙ってうなずいた。
「じゃあ、一回みんなで練習しときますか?」
イガラシが冗談とも本気とも取れる口ぶりでそう言ったが、もうタイムアウトらしい。
選手集合の声がかかる。
厳しい日差しの午後1時。
谷口が広い球場を見わたすと、青い芝生の色が目にまぶしく映った。そのまぶしさは、痛いような気がした。
青い芝生