「お前、この指のことを忘れたいって言ったけど」
「うん」
「この指が折れて、投げられなくなって、それでまた投げられるようになって…。そういうことも忘れたいの?」
その問いに、谷口はうつむいて、ほんの少し考えた。
指を折ったままグラウンドに立ち続けた結果、一度は高校での野球はあきらめた。
それでも野球を忘れられず、まわりの理解と協力で、こうしてマウンドに戻ってこられた。
野球への愛情も、より強くなった。得がたい出会いもたくさんあった。
そんなことも忘れたいのか、と倉橋は言っているのだろう。
「そんなはずないよ」
「でも、その指が折れたことだけは忘れたい?」
「…そういうこと」
「それは都合がよすぎるよな」
「わかってるよ」
そんなこと、はじめから谷口にもわかっていた。
あのとき試合を捨ててすぐに病院に駆け込めば、せめてあのファウルボールを追わなければ、こうはならなかっただろう。
そうも思ったがそれも一瞬だけで、あの日を後悔することだけはなかった。
いいことも悪いことも、すべては勝負に本気で向き合った結果なのだから。
ただ自分の体がふがいない。それが情けないのだ。
「そういうこと、いままでに誰かに話したことあるのか?」
「いや。…よけいな心配させるだけだもの。みんなもう、俺は大丈夫だって思ってるのにさ。親にだって言わないよ」
さっきまでの饒舌さとはうって変わった、谷口のかぼそい声音に、倉橋は思わず絡めた指に力を込めた。
「不安になったら俺に話せよ。いつでも聞いてやるからさ」
倉橋が谷口の顔をのぞきこむと、谷口の大きな目が、まばたきもしないでじっと見つめ返してきた。
暗い中でも、谷口の瞳はかすかな光を集めている。
「…倉橋」
「なに」
「お前さ、今日、俺と話したいって言っただろ」
「ああ」
「なんで?」
不意にたずねられて、倉橋はとまどった。
が、なんとか平静を装って答えた。
「あれは…検査のある日って、いつもお前がイライラしてるみたいな感じだからさ。なんでなのか、いちど聞いてみたいと思ってたんだ」
「いつも?へえ、そうだったのか…。よく見てるなあ、お前」
谷口のその指摘に、自分の気持ちが悟られたかと一瞬、肝を冷やした。
しかし谷口の声の調子からは、単純に驚いている様子しかうかがわれなかった。
それが倉橋を、悟らせたいような、秘めていたいような複雑な思いにもさせた。
「そりゃあ、見てるさ。俺はいつでも」
そんな言葉は言えなかったが、そのかわりに体が動いた。
倉橋は指の力をゆるめた。
絡めていた指をほどかれて、谷口は急に体が冷えた気がした。
しかし次の瞬間、背中からまわされた腕の熱に、驚きはしたが、自分を支える存在がそこにあることに安心した。
倉橋も、不意のことに拒むでもない谷口の肩を抱いたまま、なにも言わずにしばらくそのままでいた。
いいんだろうか、このままこうしていても。と、倉橋は逆に心配になった。
「俺にこうされてて、嫌じゃないの」
自分からしていて、おかしなことを訊いているとは思った。
「嫌じゃないよ」
「変だとか思わないのか?」
「変だと思うなら、こんなことするなよな」
谷口の口調は、少し怒っていた。
倉橋は、暗闇の中で顔を熱くした。
谷口は自分の肩を力づよくつかんでいる倉橋の手の甲を、左手でそっと触れた。
どこまで許すだろう。
それを試したみたい欲がわいて、倉橋は谷口のうなじに唇を寄せた。
が、触れさせる前に体を離した。
暗闇の中では、谷口はその倉橋の行動に気づかなかったかもしれない。しかし、熱い息がかかるのを感じたかもしれない。
それは、倉橋にはわからなかった。確かめる勇気もなかった。
「ありがとうな」
谷口は、前を向いたまま言った。
「お前に話せてよかったよ。ほんと、話したことなかったんだ、誰にも。だからずっと…」
「ずっと?」
「苦しかった」
谷口は、これが明るい空の下なら話せなかったと思った。
お互いの表情を見ずにいられるこの時間が、とてもありがたかった。
でもそれは今夜だけだ。「いつでも聞いてやる」とは言われても、自分にもなけなしの男のプライドがあるつもりだ。そうそう甘えたくはない。
それは倉橋も感じていた。きっと明日になれば、谷口はこうして自分に不安を吐き出したこともなかったかのような顔をするだろう。
それでもいいと思った。そして倉橋はそんな、素直なようで意地っ張りなところもある谷口が好きだった。
今日、自分がいつでも谷口を支える存在であることを知らしめることができたのだ。
そして谷口にとって他の誰にも見せない不安な心のうちをさらけだせる、唯一の存在にもなった。
親にもほかの友達にも言えない、秘密を共有しているのだ。
そこから先の関係へは、急がない。
「帰ろうか」
倉橋から切り出した。
「うん」
谷口は立ち上がると、ズボンについた雑草をパンパンと払った。
鉄橋を通る車のライトが、ちらちらと谷口の姿を照らしていた。
倉橋は、倒してあった谷口の自転車を立ててやった。
谷口は、家までの道を、自転車を押しながら歩いていた。
信号待ちの間に、じっと右人差し指を見つめた。
この指が原因で自分の野球人生を絶つ日が来るかもしれない。そうならないかもしれない。
それでも自分は、この指でボールを投げるしかないのだ。
この指は、自分にフォークボールを与えてくれた。ピッチャーとして本格的に投げていくきっかけにもなった。
それでもどんなに野球を愛していても、その愛情だけで続けてはいけないと思う日が来るだろう。
その日が数年後か、何十年後かはわからない。
しかしそんなときに、今夜のように不安と本音を聞いてくれる存在が自分のそばにあったら…と思う。
その存在が倉橋だったら、きっと自分にとっては幸せなことなんだろうな、と谷口は思った。
いつまでも自分のそばにいてほしいとは、とても言えないけれど。
指 2