学校へ戻る道すがら、祭囃子が聞こえてきた。
夕暮れも近く、風上から流れてくるその音に、谷口は足を止めて聞き入った。
「どうした?」
右隣を歩いているはずの谷口の姿がふっと消えたのに、倉橋は驚いた。
「聞こえない?」
「なにが」
「お祭りの音」
倉橋は、顔を空に向けて茜色の薄い雲を見た。
「…そういえば」
確かに小さく聞こえるが、今日はその祭りの日ではないらしい。本番を控え、囃子の練習をしているのだろう。


今日、墨高野球部は、ふた駅離れたところにある都立高との練習試合をしてきた。
谷口が新しくキャプテンになって、5月から毎週敢行している練習試合の第2回目である。相手は、かつては都大会決勝の常連校と呼ばれたところだった。
近年は少々低迷気味だが、今年こそは全国出場を果たそうと戦力を強化してきているという噂を聞いていた。
今回は松川に先発させ、3−3という結果に終わった。まだまだ課題が多いな、と谷口は明日からの練習内容のことを考えていたが、ふと耳に入った音に誘われてしまった。
今日は時間も遅いこともあり、現地解散にして部員はもうそれぞれに帰宅させたが、谷口は倉橋と一緒にしばらく相手校の練習を見学してから帰途に着いた。

今日の試合相手の校区のこのあたりは、新興住宅地におされつつあるが、まだ昔ながらの地域のつながりが強く、祭りを支える人たちの気持ちも熱いらしい。
「俺、この音聞くと、墨二の野球部のこと思い出すんだよ」
「この音?祭囃子のことか?」
「うん」
谷口は、懐かしそうな表情をしている。



谷口が初めて墨谷二中を訪れたのは、町じゅうに祭囃子がにぎやかに響いている日だった。
青葉から転校して心機一転、好きな野球をのびのびすることができる。
きらびやかに飾られたお神輿が揺れる人ごみの中をすり抜け、ワクワクした思いで新しい学校に向かった。
そして帰り道、「とんでもないことになった」と目の前を真っ暗にしながらとぼとぼと歩いたのを覚えている。
覚えているのはその気持ちだけで、夕暮れの祭りの華やかな雰囲気などはまったく記憶になかった。
「なんで俺、あんなユニフォームなんか持っていっちゃったんだろうって思ったよ」
「それは、普通は新しい野球部ですぐに練習を始められるようにって持っていくだろ?」
「うん、まあそうなんだけどさ…」


青葉の野球部は、中学の「部活」をとうに超えていた。
戦力にならない者は容赦なく切り捨てるという徹底した勝つための哲学に、甘さの残る自分にとって学ぶべきところもあったのは確かだと谷口は思う。
1軍たちは間違いなく実力者だったし、練習量も半端ではない。尊敬もした。
しかし青葉の野球部には自分の居場所がなくて、大好きだった野球すらも嫌いになってしまいそうだった。
だからこそ、両親に無理を言ってせっかく入った青葉からの転校を決めた。
しかし本当は、逆に青葉に強烈な愛情を持っていたのかもしれない。そして離れたあとでも憧れを捨てきれなかった。
事実、あのユニフォームは本当に子供の頃からの憧れだったのだから。自分が青葉学院野球部の一員であったことは誇りに思う。
今となっては青葉での日々も、誤解から始まった墨二野球部の初日も、谷口にとっては、いい思い出だ。笑い話にもできる。

めったに同じグラウンドで練習することのなかった1軍、ほとんど声すらかけられたことのなかった監督の顔を思い出しながら、谷口は倉橋にぽつりと言った。
「俺には、あれほど、なにがなんでも勝てばいいなんて野球はできないもんな」
だから青葉を出て墨谷二中に来たのは自分にとって正解だった、と言おうとしたが、その言葉を倉橋にさえぎられた。
「よく言うよ。お前は、じゅうぶんその青葉らしさを持ってると思うけどね」
「え?」
「ルールに反してまでとは言わないけど、なにがなんでも勝とうといつも思ってるのは、同じだろ」
谷口はギクッとした。
『融通がきかない』、『妥協しない』とは、キャプテンというものになってからよく言われるようになった。
自分でも、こんな気性を持っているとは思っていなかった。
自分はもっと、のんびりしていて人当たりがよくて、いさかいを好まない人間だと思っていた。
野球だって、楽しければそれでいいと思っていた。負けたってくやしくもない。くやしくなるだけの努力をしていないのだから当たり前だ。それが悪いとも思わない。
そんな、ただ面白く楽しい野球ができれば、それでいいと思っていた。
しかし、自分の本性はそんなことを望んでいなかったのだ。


倉橋は谷口の頭に手をポン、と載せた。
「おとなしそうな顔してるくせに」
意地悪い倉橋の声音に、一瞬、自分が辱められたような気がして、谷口は思わずその手を振りはらった。
「なんだよ、それ」
こんな、まだ言葉を交わしてから数ヶ月というのに、お前に俺の内面のなにがわかるっていうんだ、と腹も立った。
しかし谷口には、倉橋の言いたいことがわかっていた。
『おとなしそうな顔をしているのに、内面は熱くて負けず嫌いだ』と言いたいのだろう。それを否定しない自分がいた。
倉橋は、振りはらわれた手を、また谷口の頭に載せた。今度は谷口は、そのままでいた。
「違う?」
「…わかんないよ、自分のことなんか。でも」
谷口は、自分より少し高いところにある倉橋の目を見た。
「自分が青葉らしいって言われたのは、初めてだ」
「へえ、そう」
倉橋は、二、三度さすってから、手のひらを谷口の頭から離した。
谷口は、拘束されていた体を解放されたような気がして、力が抜けた。
「俺はお前の野球を見て、やっぱり青葉で仕込まれただけあるなって思ったぜ」
「どういうとこが?」
その答えを渇望するような目に、倉橋のほうが少し戸惑った。
「いや、なんとなくなんだけど。技術というよりは、根性が、かな」
「根性?」
「勝負に対する覚悟というか。俺は佐野のこともよく知っているけど、そういうとこは似てるかもな」

谷口は自分の内面を、倉橋の言葉をとおして見ているようで、気恥ずかしくなった。
そしてその自分のことを、自分よりも倉橋のほうがよく知っている。
倉橋は、谷口が墨二時代、丸井をレギュラーからはずすという決断をした、キャプテンとしての初めての辛さを味わったことなどは知らない。
あれは、谷口にとっていつまでたっても忘れられない経験だ。
結果的には、チームにとっても、丸井にとっても、そして自分にとってもよかったと思うが、その決断の瞬間を思い出すと、今でも胸がチクリと痛む。
谷口も、墨高に来てからそのことを誰かに話したことはない。
しかし倉橋がそれを知ったとしても、「お前らしいな」と言いそうな気がする。
「自分のことは自分で見えていない」というのはありがちだけれど、はたして、自分が他人のことをそれほどよく見ているのかは、怪しい。
だから、倉橋が自分のことをこんなにもよく見ているということに、驚きと恥ずかしさを感じた。
そして、なぜかありがたいとも思った。



青葉での自分は、戦力としては期待されていなかった。そのために劣等感を感じなくもなかった。
しかし、入部当初からつねに「勝つための野球」の精神を、徹底的に叩き込まれたのは確かだった。それは2軍でも同じである。
そういう経験なしに、たとえば以前の墨高のような、「楽しめればそれでいい」という野球部に入っていたとしたら、自分のこのキャプテンとしての才能が開花したかというと、それはわからない。
周りの空気に流されて、勝つよろこびも、勝ちたい、そして勝つための努力をしたいと思う気持ちも、知らないままだったかもしれない。
青葉学院と最後の対決をしたあの日、試合終了の総礼のあと、谷口はもういちど、監督の背中に向かって、
「ありがとうございました」
と、誰にも聞こえないほどの声でつぶやいたのを思い出した。
あれはきっと、自分を、勝負から逃げない人間に成長させてくれた、青葉での経験への感謝の気持ちだったのだろうと、今、気がついた。

今は自分の居場所を探して迷うことはもうない。
自分がしたいこと、自分のいるべきところ、そして自分を必要としてくれる人。それがはっきり目に見えている。
今、しっかり地に足が着いて立てている気がする。
それは、とても幸せなことなんだろうな、と谷口は思った。






いつのまにか、祭囃子も聞こえなくなった。
「倉橋、キャッチボールしないか?」
「今から?」
ボールが見えないほど暮れてしまったわけではないが、危なくないか、と言う倉橋に
「そこの公園なら、外灯があるから」
と谷口は誘った。

白いボールがお互いのグローブに収まるたび、バスン、と重い音が響く。
同じひとつのボールを投げ返すたび、言葉も行き交う。
「倉橋」
「ああ?」
「この前、俺、お前のこといくつか発見したって言ったじゃん」
「俺のこと?」
「お姉さんがいるとかさ、お前が悪いやつだったとかさ」
倉橋は、谷口からのボールを捕りそこねた。
「べ、べつに俺が悪い男だったなんて言ってないだろ」
暗くて表情はよく見えないが、不機嫌な、それでも怒っているわけではなく照れたような顔をしていると声からはわかった。
「似たようなことだろ」
「違う!」
「まあまあ、聞けよ。今日は、俺自身のことをお前に教えられたんだって言いたいの」
キャッチボールをしている時間は、普段よりも素直に言葉が出てくる。
ボールがお互いの手の中を往復するたび、気持ちも投げ返されている気がする。

「青葉にいてよかったって、今更だけど感謝できたもん、俺」
「ああ、そうかよ。よかったな」
倉橋は、まださっきのことにこだわっているのか、仏頂面な表情の声を返した。
「怒るなよ。俺のことよく見て指摘してくれて、お前にも感謝してるんだから」
「怒ってねえよ」
倉橋は、ボールを投げ返すのを少し溜めた。
「それじゃあ、お前は…俺がなんでそんなにお前を見てるんだと思う?」
「なんで…?」
そんなこと訊かれるとは思ってもみなかった谷口は、しばらくボールを待った。
考えた末に、谷口は答えた。
「なんでって…それはお前の性格じゃないの?」
「せ、性格?」
気の抜けた勢いのボールが、谷口に投げ返された。
「うん。他人に興味があるかどうかっていう…。俺、けっこう人のことに無関心だったりするから、そんなに見てないんだよ」
しばらく沈黙したあと、倉橋は、クックッという笑い声を漏らした。
「ああ、そういう奴だよお前は。他人の変化にも気づかないね。彼女が髪を切ったとか服を変えたとか、そういうのにも全然鈍いタイプだよな」
その指摘には自分でもまったく同感したので、腹も立たない。
逆に、そんなことにも気づいてやれるなんて、倉橋はそうとうマメな男なんだなと感心した。
しかしそう思ったことは、谷口は口に出さないでいた。


こういう倉橋とのなにげないやりとりは、キャプテンという緊張を強いられる立場から、普通の高校生である自分を取り戻すことのできる、楽しくもありがたい時間だと思う。
それで自分の中のバランスが取れているような気がしている。
黙って谷口はボールを投げ返した。そろそろボールの白さもかすんで見えてきた。




公園から道に出るまでの小さな階段は、外灯の光がとどかない。
「足もと、気をつけろよ」
「うん」
そう返事しながらも、谷口はつまづいて転びそうになった。
その体を、倉橋はがっしりと支えた。
「気をつけろって言っただろ」
「…ごめん」
誰かに支えられないと立っていられないキャプテンなんて、情けないと思う。
キャプテンが弱音を吐くのをチームメイトが見て、チームがいい状態になることはない。しかしキャプテンも普通の人間だ。弱音を吐きたいときもある。
そういうとき、倉橋になら素直に自分の内側をさらけ出しても、やっぱり「お前らしいな」と受け止めるような気がしている。
倉橋がどう思っているかはわからないが、いつしか自分にとって倉橋は、キャプテンの辛さと孤独を理解してくれる貴重な存在になってしまった。
いつでも自分を見ていてくれる、という安心があるから。
転びそうになった今の自分を、しっかりと支えてくれたように。


またあの祭囃子が聞こえるのは、これから迎える夏が過ぎてしまった秋だ。
そのころには、自分たちのこの新しいチームは、なにか結果を出せているだろうか。

祭囃子のころに
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