「あれ?田所さん」
「おう、中山」
俺は、ノック練習の音が聞こえるグラウンドに向かって歩いていた。
フェンスにもたれ野球部の様子をながめている田所さんは、言っちゃ悪いが、ぱっと見、草野球見物のオヤジみたいだ。ほんとに、今年ハタチかよって思う。
ますます腹が出てきたんじゃないのか。俺は、ひとごとながら心配になる。
「あいかわらず、しょっちゅう顔出してんですね」
「お得意さんまわりの途中に、時間つぶしに覗いてんだよ」
「言い訳しなくてもいいでしょ」
俺の言葉に、田所さんは顔をそむけて帽子をかぶりなおした。
いつまでたってもこの野球部から離れられないんだろう。
こういう下手な照れ隠しが、この人の可愛いところだと思った。
「お前は何しに来たんだよ」
「俺ですか?俺は、谷口に用があるんですよ」
「だったら奴は今いないぜ」
「あ、そうなんですか?」
俺は、グラウンドを見わたしてみた。確かに、谷口の姿は見えない。
そのかわりに、ひときわ目を引くピッチャーの存在を認めた。
小柄な体からは想像もつかない力強さ。
けして重くはないが、正確なコントロールに操られた球であるのが、数回の投球を見ただけでもはかり知れた。
すごい、と思った。
「あいつは…」
と、声に出したつもりが、のどがカラカラになっていたのか、口が動いただけだった。
しかし、田所さんは俺の驚きを察していた。
「すごいだろ?」
「ええ。確か、谷口の後輩の」
イガラシという1年生だった。去年、墨谷二中を全国優勝させたキャプテンであり、ピッチャーだ。
その男が入部したという話は聞いていたが、実際にその投球を見るのはこれが初めてだった。
俺が見惚れたように凝視しているのを、田所さんはニヤニヤして見ていた。
それに気づくと、俺は思わずうつむいた。
「どうよ。これが俺がキャプテンを務めていたのと同じ野球部とは思えないよな」
「違いますよ、明らかに」
俺の返しが嫌味に聞こえなかったのか、田所さんは素直にうなずいていた。
「俺たちのいた去年とも、もう違うチームになってますよ」
ほかに、あのイガラシと張り合った江田川中の井口というピッチャーも入部したと聞く。
新入部員の人数そのものは多くないらしいが、今、練習の様子をざっと見ただけでも、粒がそろっている感触だ。
いつのまにか墨高野球部は、地元の野球少年から憧れの存在になっているのかもしれない。
かつてのできそこないぶりを知っている自分にとっては感慨ぶかく、誇りに思った。
しかし逆に、ほんの少しさみしさも感じた。
負けることしか知らず、ただ野球が好きだというだけで集まっていた男たちが、谷口という刺激を得てどんどん変わっていった。
俺たちはどこまで行けるのだろう。そんなワクワクした期待を持って練習して、試合をして、反省して、また練習して…。
そういう発展途上な楽しさが、俺の知る墨高野球部にはあった。
しかし、きっともうそういう野球部ではないのだろう。そう思うと、少しさみしかった。
黙り込んだ俺を見かねたのか、田所さんが声をかけた。
「ところでお前、谷口に会いに来たって言ってたけど…」
「え?ああ。うちの野球部に胸を貸してくれませんかって言ってきたんですよ。あいつ」
「大学の野球部に?」
「大学のっていっても、1、2年生だけのチームとですけどね」
俺は、卒業後、都内の私立大学に進学した。
さすがに野球で身を立てることまでは考えられなかった。自分の野球は高校まで、と決めていた。
それなのに、やっぱり俺はボールに触れずにはいられなかった。野球に戻ってきてしまった。
しかし入学した大学の野球部には10年前に社会人野球入りしたOBが一人いるだけで、目立った実績もない。
正直、今の野球部のぬるさがはがゆくもある。
今回、谷口の申し出を受けたのは、自分自身とうちのチームに喝を入れたかったからだ。
そして、俺が谷口と野球をしたかった、というのもある。いや、それが大きいかもしれない。
新入生が入ってから二ヶ月、新しいチームで挑んだ谷原高との練習試合は散々だったと聞く。
その後しばらくして、奴は俺のもとにやって来た。そしてくだんの依頼をしてきた。
谷口のことだ、何か思うところがあるのだろう。
俺は、その理由を詳しくは訊かなかった。
「谷口がいないんじゃ、出直すかな」
俺がそう言ってフェンスに背中を向けると、田所さんが俺の肩をつついた。
「あいつにことづけといたら?とりあえず」
その言葉にグラウンドを振り返ると、倉橋が俺たちのほうに歩いてきた。
「お久しぶりです」
そう言って、倉橋が帽子を取って頭を深く下げた。
俺は久しぶりに先輩扱いされたことに、一瞬、とまどってしまった。
「おお」
そのとまどいぶりに、田所さんは、声を出さずに笑っていた。
チッ、と舌打ちしたのを、田所さんには聞こえただろうか。
しかし、倉橋が俺を先輩扱いしたのはそこまでだった。
奴は、俺を上から下まで眺めると、意地悪い声音で言った。
「中山さん、髪伸ばしちゃって…。格好も、なんか見た目、軽いですよ」
「軽くねえよ、普通だよ。洒落っ気のひとつもないお前に言われたくないね」
口の悪さはあいかわらずだが、このやりとりも懐かしい。俺の顔は、だらしなくゆるんでいたと思う。
「倉橋、あのちっこいピッチャー、すごいじゃん」
「イガラシですか?入部当初はしばらく守備をやらせてたんですけど、今日から本格的にピッチング練習させてるんです。いいでしょ、奴」
倉橋は、まるで我がことのように自慢げに語る。
俺は、こいつのあいかわらず尊大な態度がやっぱり鼻につく。懐かしいと思ったのは、撤回する。
「ところで、おたくのキャプテンに用があって来たんだけど」
「谷口は今、病院に行ってますよ」
「病院?例の、毎月の検査か?」
「ええ」
倉橋は少し視線を下げて、自分の足もとを見た。
谷口は、指の手術を受けて包帯が取れたあとも、毎月、検査に通っている。
しばらくの間はしょうがないと俺も思っていたが、やけに長引くことは気になっていた。
しかし、「まだ検査をやめられないのか」とは谷口には言わなかった。
たとえひと言でも、谷口を不安にさせるようなことは言いたくなかった。
誰よりも、谷口自身が一番不安なのだから。
それでもあいつは、俺たちの前ではひと言も愚痴をこぼさず、いつものとおり黙々と練習を続けていた。
よくもそう、誰にも頼らず不安を抱えたまま立っていられるものだと感心していた。
しかし、あるとき気づいてしまった。
俺の目の前のこの男―――倉橋の存在が、谷口を支えているのだと。谷口にとって心を預けられる人間なのだと。
しかし、そんなことは今はどうでもいい。俺がその存在になりかわろうとも思わない。
ただ、谷口の指がいまだに検査が必要なことが気になった。
「いないんじゃしょうがないな。また来るわ」
「伝えることがあるんなら、聞いときましょうか?」
「いいよ、本人に言うから。お前、練習にもどれよ」
倉橋は、少し不満げな顔をして、グラウンドに戻っていった。
そんな俺と倉橋を見て、田所さんはクックッと笑っていた。
俺は、眼鏡の奥から田所さんを軽くにらんだ。
「…なんですか?」
「お前、あからさまだなあ」
「あからさまって?」
「いや、べつに。気持ちはわかるけどな」
一瞬、俺は顔を熱くした。気持ちってなんだよ、気持ちって。
俺がそう訊きたげな表情をしていたのか、田所さんは言葉を続けた。
「俺も、谷口の球をもう少し長く受けていたかったもんな」
だから、今も奴の女房役をやれているあの男がうらやましい、ということなのだろうか。
俺は、それにはなにも答えなかった。
「それより田所さん、谷口の指って、まだ完治してないんですかね」
「いや、してるはずだけど」
「じゃあ、なんでいまだに毎月毎月、検査なんて…」
「ああ、それは」
田所さんはニヤリと笑ったあと、空を見上げて言った。
「俺が、あの先生に言っといたんだよ。治っても、谷口を監視しててくださいって」
「監視?」
「お前も、谷口がほっといたらどんな無茶するかわかんない奴かって知ってるだろ?下手すりゃ、指を折ったことも忘れちまうよ。だから、常に指の故障を意識させとくぐらいがちょうどいいんだって」
俺は黙って、空を見る田所さんの横顔を見ていた。
「あいつは野球部を引退する頃に、『もう来なくていい』って言われるはずだよ」
ああ、そうなのか。
田所さんもまた、違う形で谷口をずっと見守っているのだ。
俺はこの人の持つ、自分には無い包容力に触れた気がした。
そしてちょっと悔しかったので、憎まれ口をきいてみた。
「…田所さんってますますオヤジじみてきたと思ったけど」
「なんだよ」
田所さんは俺を振り返って、顔を赤くした。
「オヤジっていうより、谷口のお父さんみたいですよ」
「俺は、今年ハタチなんだよ!」
「その腹を見たら、信じられませんね」
「うるさい、仕事の邪魔だ!俺はもう行くからな」
田所さんはブツブツ言いながら、校舎脇に止めていた軽トラックに乗り込んでいった。
俺の足は、広谷医院に向かっていた。
どうしても今日、谷口に会っておきたいと思ったのだ。何かに触発された、という気がしている。
あからさまだと言われても、かまわない。俺は田所さんみたいに鷹揚な人間じゃないんだ。
角を曲がって広谷医院の看板が目に入ったとき、ちょうど谷口が玄関から出てくるのも見えた。
少しうつむき加減の谷口に、俺は声をかけるのをためらった。
しかし谷口が顔を上げて俺の姿を認めると、すぐに笑顔を俺に見せた。
そして駆け寄ってきた。
俺の前に立つ谷口は、少し背が伸びた気がした。
「中山さん、どうしたんですか?こんなとこに…」
「こないだ言ってたうちの野球部との練習試合のこと、言っとこうと思って」
「あ、墨高に来てくれたんですか。すいません、俺からうかがわなきゃなんないのに」
本当に申し訳なさそうに、谷口は頭を下げた。
「いいさ、時間があったから寄っただけだし。それで、1、2年の部員のチームになるけどそれでよけりゃ受けてやるよって話になったから」
谷口は、パッと笑顔に戻った。そして、俺に最敬礼した。
「ありがとうございます!」
俺は、その笑顔が直視できなかった。
「俺、また中山さんと野球ができるの、楽しみにしてます」
その言葉に、『俺もだよ』と素直に答えることができなかった。
そしてなぜか、今まで口にしなかった、谷口の指のことに触れてしまった。
「まだ行ってるんだな、検査」
谷口はさっと笑顔を消した。そして苦笑した。
「…はい。なかなか検査から解放されなくて。来月も来いって言われました」
なんで俺は、谷口を不安にさせるようなことを言ってしまったんだろう。
俺は、沈んだ声の谷口の肩に、ポンと手を乗せた。
「いやでも、ほんとはもうとっくに治ってるんだと思うぜ。でも、あの先生がお前が無茶しちゃいけないって、予防線張って、通わせてんだよ、うん」
………あれ?どこかで聞いたような言葉だ。
自分で言っていて恥ずかしくなった。
「そうか…。そうかもしれませんね」
谷口は、腑に落ちたような表情をした。
「そうだよ。お前、野球のことになると自分で歯止めがきかなくなるもんな。指のこと気にしてるくらいのほうがいいんだよ」
「そうですね。中山さんにそう言ってもらって、なんか気が楽になりました」
自分でもあざといと思ったが、その言葉に明るく答える谷口を見ると、俺の口は止まらなかった。
なんとかしたい、このよけいなことを言う癖と、ひねくれた、素直じゃない性格。
俺が田所さんみたいな、オヤジくさくても大人の包容力を身につけるのは、まだまだ先になるだろうな、と思った。
ためらいの言葉