あれは、どういう意味だったんだろう…。
雪の中を走りながらそうぼんやり考えた自分が、谷口は可笑しくて笑った。
頬は火照るように熱いのに、風にさらされた鼻の頭は痛いくらいに冷たかった。
どういう意味もなにもないだろ。言葉どおりだよ。
お前だってわかってるから、心の準備ができたらって言ったんじゃないの。
そんな倉橋の声が聞こえるようで、耳が熱くなった。倉橋にもらった、自分には大きすぎる帽子のせいだけではないのだろう。
「なんであんなこと言っちゃったんだろうな」
小雪に変わったころ、走り続けていた足をようやく止めて、谷口は初めて声に出してつぶやいた。
冷えた鼻をマフラーに埋もれさせて、とぼとぼと歩いた。
倉橋とそういうことになったことについて、後悔しているのではない。
今日のことは、自分が誘ったのは確かなのだから。
しかし谷口には、さっきまでの自分が、まるで自分ではないかのような気がしてならないのだ。
自分の知らない自分が、ああいう場面で出てきてしまった。感情がコントロールできない。
それが怖かった。
今日のことで、倉橋との関係が崩れてしまうのも怖かった。
初めて触れた唇が、今では乾いて痛いくらいだった。その上唇を、谷口は舌で、一度だけなめた。
あのあと、谷口は動揺した心のうちを見せないように、なにも気にしていないように振舞ったつもりだった。
努めて、いつもと同じ態度を取ろうとした。
しかし、倉橋には見抜かれていたかもしれない。なんといっても、経験では倉橋にじゅうぶんすぎるほどの分がある。自分には不利だ、と谷口は思った。
(不利……?)
俺は倉橋と勝負してるのかよ、と谷口は自分に苦笑した。
確かに、勝負してるのかもしれない。
倉橋が自分に友達以上の感情を持っているのは、なんとなく感じていた。
自分も、姿の見えない彼女の存在に淡く妬くほどにはなっていた。
ときおり体に触れられるのも、嫌ではなかった。
今日、背中から抱かれた時も、自分だけに向けられる優しい感情と、そのぬくもりが心地よくて、抗えなくなっていた。
しかし、誰かに支配されてしまうのは、まだ受け入れられなかった。流されてしまうのは嫌だった。
なんだか、自分が負けてしまうような気がした。
そこで、自分の思いもよらなかった自分が現れて、倉橋を煽った。
谷口は、のぼせた頭を冷やすように、ぶんぶんと振った。
こんなこと、考えなくても生きていけたのに。勝負は、野球だけで手一杯なのに。
俺はとことん負けず嫌いなんだなと、谷口は自分に呆れた。
しかしどうせやるなら、真剣勝負がいい。一方の力が圧倒的にうわまわるようなワンサイドゲームは、面白くない。
落とすとか落とされるとか、そういうことには倉橋は長けているだろう。今の自分には、その意味では「不利」だ。
でも俺は、お前が今まで相手してきたような女の子とは違うんだよ。
―――と、そういう気持ちで、自分から誘うように求めたのかもしれない。
負けたくない、自分が主導権を握りたいと。
倉橋が、ピッチャーの自分にとって得がたい女房役であることには変わりないし、今まで築いてきた信頼関係を失いたくない。
その信頼関係と恋愛感情を天秤にかける意味もない。当然、今の自分にとっては野球がなにより優先される。それははっきりと答えが出ている。
しかし倉橋に惹かれる気持ちもまた、倉橋と一緒に過ごすうちに、自然ななりゆきで生まれたものだった。否定はできない。
初めて経験するこの感情に谷口は混乱していた。
しかし、このことで倉橋も自分と同じように思い悩むことがあるのなら、辛くはないと思った。
倉橋という男も、自分と同じように野球に対して人一倍真剣なのを知っていたからだ。
過去は知らない。野球は二の次で、女の子と遊ぶことにかまけていたこともあったのかもしれない。
でも谷口が知っているのは、今の倉橋だけだ。
悩むなら一緒に悩めばいい。倉橋が自分の前に現れるまで、ずっと自分だけで悩み、考え、苦しんできた。でも、今はひとりではないのだ。
そうは思っても、やっぱりさっきまでの自分が、いつもの自分とは違う人格が出てきた起こした行動のようで、時間が経つにつれて、恥ずかしさが増してきた。
小雪の降る中、ますます頬だけが熱くなってくる。
(とりあえず、明日の朝練はどんな顔して出て行けばいいんだろう…)
谷口は、マフラーにうずめていた顔を出して、はあっと息を吐いた。
気持ちは否定しないが、この女々しい感じが嫌だった。自分で自分にいらいらした。
雪はまだやんでいなかったが、谷口は、倉橋にもらった帽子も、巻いていたマフラーもはぎ取って右手に強く握った。そして走り出した。
顔は冷たく、耳も痛い。それでも走った。そうしないと、浮かんでは消える気恥ずかしさにつぶされて、前に進めなくなりそうだったからだ。
「倉橋、勝負してやるよ」
そうひと言だけつぶやいて、谷口は堤防を走り続けた。
クロス・ゲーム