重そうな足取りで校門に向かう谷口の背中を、倉橋はバシッとたたいた。
「…痛いよ」
谷口は、怒るでもなくそうひと言つぶやいて、ゆっくりと倉橋を振り返った。
もっと大げさな反応をするかと思っていた倉橋は、ちょっと拍子抜けした。のぞき込んだ谷口のその顔を見て倉橋は、一瞬、泣いているのかと思った。
「おはよ。どうした?目え、赤いな」
「あー…うん。―――いや、べつに」
谷口が赤い目をさらにこすろうとするので、倉橋はその手を取った。
「まだ、こないだの谷原のことでも考えてた?」
夏の大会を前に新体制で初めて挑んだ相手、谷原高に大敗したのは、試合経験の多い谷口にとっても、少なからずショックだった。自覚はなかったが、多少は過剰な自信があったのかもしれない。
しかし、試合を終えたその日はさすがに落ち込んだが、そのおごりをなんなく打ち砕かれ、かえって目が覚めた。それは墨高野球部の全員が感じたことだ。
加えて、谷口はとことん反省はするが、マイナスな感情をいつまでもひきずる性格でもなかった。
泣いていた次の日にはケロッとした顔を見せるので、むしろ周りの人間が肩すかしを食らうほどだ。
そういうところが、ウエットなようでじつはドライな人間だと思われるゆえんだろう。
だから、今朝の谷口がいつになく沈んだ、というか疲れた様子なことが、倉橋には気になった。
「そりゃあ、力の差ってもんを見せ付けられてショックだったのは俺も同じだけどさ…」
しかしそこまでひきずることもないだろう、いつもどおり勝てるような練習をすればいいんだ、と慰めのような、鼓舞するような言葉をかける自分が、らしくないとむず痒くなった。
しかもその言葉は、谷口の専売特許のようなものばかりなのだから。
しかし倉橋は、谷口が一睡もできないほど、あいかわらず野球ひとすじなことが嬉しくもあった。
それでこそ谷口だと安心もした。
その言葉に、谷口は顔を赤くした。
「ち、違うんだ」
「え?」
「……また、あとで話すよ」
谷口は、制帽を目深にかぶりなおすと、倉橋から顔をそむけた。そして、足早に昇降口へ消えていった。
(なんなんだ…)
さすがにあいつでも、高校最後の地方予選を前にナーバスになるもんなのかな。と、倉橋は、その後姿に一日、もやもやとした気持ちにさせられた。
しかし、ことの真相を知った倉橋は、開口一番に言った。
「心配して損した」
「損って、なんだよ」
放課後の練習に現れた谷口は、今朝とは違って、いつもの表情をしていた。
練習が始まる前に、さりげなく朝の話の続きを振ってみても、「眠かっただけ」としか言わない。
そして帰り道でようやく聞きだした倉橋が、呆れたように放った言葉に、谷口はムッとした。
「お前が勝手に聞きたがったくせに」
「そりゃそうだけどな」
倉橋には、谷口は、ばつの悪い気持ちをごまかすために怒ったふりをしているようにも見えた。
ゆうべは、ほとんど眠らず手紙の返事を書いていたというのだ。
時おり、人づてだったり机の中にしのばされていたり、あるいは直接手わたされる、女の子からの手紙に。
谷口がもらった手紙に対して、ひとつひとつ返事を書いているというのは知っていた。
それを聞いたとき、倉橋は、その谷口の律儀さに呆れつつも感心した。しかし、そこまで根をつめて考えているとは思っていなかったのだ。
そして「損した」と思ったのは、予選前のキャプテンなりの心労のためだと気遣った自分の勘違いが裏切られたような気がしたからだ。
「でも、そんな徹夜するほどもらってたとはな」
「そういうわけじゃないけど…。でもいくつかためちゃってさ」
「そんなの、おんなじような文章で返せばいいんじゃないの。気持ちは嬉しいけどごめんって。どうせつきあう気、ないんだろ?」
「そうもいかないよ。失礼じゃん、そういうの」
「なに、なんか気になる子でもいたわけ」
「お前、うるさいよ。俺のことはほっとけよ」
谷口は倉橋の頭を軽く殴った。
「痛てえ」
ほんとうは別に痛くはない。
倉橋は、谷口がイライラとした本音を自分に見せるのが面白くて、つい絡んでしまうのだ。
淡白そうな上っ面でいつも感情を抑えようとするのを、時々、引き剥がしたくなる。
実際、谷口が毒というか本音を吐くのは、自分の前だけだと自負している。
そうして本音を吐かせることで、谷口をプレッシャーから開放してやりたいとも思っている。
しかし、倉橋が「損した」と思ったのは本当だ。からかうつもりはなかった。
谷口が夜も眠れないほど悩むのは、野球のことだけであるはず。そうであってほしい、という勝手な思い込みを裏切られたからだ。
女からの手紙に神経を使うなんて谷口らしくない、予選前になに軟派なことしてるんだ、と自分のことは棚に上げて言いたくなる。
そして、そういう野球とは無関係なことで谷口をわずらわせたくなかったのだ。
倉橋の少し前をのろのろと歩く谷口は、背を向けたまま言った。
「お前はほんとにそういうのに慣れてるよな。俺にはやっぱり向いてないよ」
「たしかに、お前よりは慣れてるかもな」
倉橋の返しに、谷口は吹き出した。そして振り向いた。
「今の、嫌味で言ったつもりなんだけど」
「へえ、褒められてるのかと思った」
やっと見せた笑顔に、倉橋はほっと安堵した。
こういうやりとりが、倉橋は本当に好きだった。
そして自分の中の、自覚したくなかったことに気づいてしまった。
野球が谷口の心を占めるのにはあたりまえのことだ。谷口にとって自分が野球よりも優先されたいとは思わない。
自分がただ一方的に思い続けるだけになっても、それでもいいと思っていた。
しかし、そのほかのこと―――たとえば、谷口の心を捉えてしまうような恋の対象が現れたら、自分はきっと冷静ではいられない。
(でも、それは俺が言えた立場じゃないしな…)
倉橋自身、自分勝手な独占欲だとわかっている。谷口はべつに誰のものでもないし、谷口の心を支配できる者はいない。
谷口にも、誰かに恋わずらうときが来るだろう。それが谷口の運命につながる出会いなら、見守っていくのも親友の役目だとはわかっている。
しかし、実際に目の当たりにしたら、自分がどういう行動に出るのかわからないのが、自分で怖かった。
今回のことは、淡い恋にも発展しないようなものだろうが。
だいたい、当の谷口が恋とはあさっての方向を向いている。
「で、ほんとのところ、どうなんだよ」
「ほんとのところって?」
ふたりは、大通りに出る交差点で信号待ちをしていた。倉橋の帰り道はそのまま左に、谷口のそれは横断歩道を渡っていったところにある。
しかし信号が青に変わっても、どちらも歩き出さなかった。そして何度も青信号を見過ごした。
目の前を人と車がせわしなく通り過ぎていく。
「いいなあとか思う子はいなかったのかよ?」
「わかんない。知らない人ばっかりだもん」
そこで倉橋は、『つきあってみなきゃわかんないだろ』とは言わなかった。
ほかの友達になら、当然のようにけしかけるところだが。しかし、どういうタイプに惹かれるのかには、興味はあった。
倉橋は、望んでもいないことを言ってみた。
「じゃあ、俺にその子達、紹介しない?」
谷口は、おおげさに落胆したような声で言った。
「お前って…最悪」
「俺だって去年別れてからもうずーっと独りなんだから。ていうか、本気にすんなよな」
倉橋は、谷口の制帽のつばを右手でグイッと押し下げた。
わらかわれたことに気づいて、谷口は口をつぐんだ。
倉橋には、谷口にとってまだ野球より大切なものが現れてはいないように見えた。
寄せられる好意を拒むことに対して、いちまつの申し訳なさを感じてはいるのだろうが、今の谷口にはなにものも野球と天秤にかけることはできない。
しかし今更ながら、こうまで野球いちずに打ち込めることが、倉橋には不思議に思えた。
自分と同じ年代の男ならもっと心が揺れてもいいはずなのに、谷口の視線の方向はいつも定まっている。
そういう『強さ』に阻まれて、じゃれあって悪態を付き合うような関係にはなれても、谷口の本当の心の芯まで入り込めない。そんな寂しさを、倉橋は感じていた。
ただ、その意固地すぎるいちずさにも、惹かれているのは確かだった。
「今の俺は、それどころじゃない」
「それもすごい言い草だな」
「言い方が悪いなら、そうだな…余裕がないんだ。他のものを好きになれる余裕がないんだよ」
倉橋と谷口は、横断歩道を渡ることなく、まだ信号のわきに立っていた。
日が長くなったといえ、さすがに暮れかけてきた。長く伸びた影ももう、たそがれにのまれていきそうだった。
そのかげりの中では、お互いの表情はよく見えなかった。
「お前にガキっぽいとか言われてもしょうがないけど、今の俺には野球だけで手一杯なんだ」
「べつにガキとか思わねえよ」
「お前、言いそうじゃん。適当につきあっとけばいいのに、とか」
「…俺ってそんな軽薄そうか?そのほうが失礼なんだけど」
谷口はふっと笑いを漏らした。
「けなしてるわけじゃないさ。褒めてるんだよ」
「ほんとかよ」
「俺も、もうちょっと器用な性格なら、楽に生きられるんだろうなと思うもの」
今、谷口はどんな表情をしているのだろう。倉橋は無性にそれを確かめたかったが、宵闇に阻まれてしまった。
もしかしたら、谷口の心の芯に近いところに近づけているのかもしれない、と倉橋は期待した。
「ガキとは思わないけど、お前らしいなとは思うよ」
「それって褒めてる?」
「褒めてるよ」
「へえ、ありがと」
キャッチボールのように言葉を投げあうとき、優しい時間が流れている。
いつまでもこの時間に浸っていたい。そう谷口も同じように感じていてほしいと思うが、今はそこまで欲張られない。
「恋をしているどころじゃない」と言い切る、この不器用な朴念仁を好きになる女の子も、自分もきっと想いは一方通行だ。
奴はいつももっと遠くを見ているのだから。
長い時間が経ったことにようやく気がついたように、谷口は信号に視線を向けた。
「あ、俺、次の青で渡るから」
そう言って倉橋に背を向けた。
「谷口」
「ん?」
「手紙の返事に眠れないくらい悩んだら、俺がアドバイスしてやるよ」
その言葉に、谷口は振り返った。いぶかしげな表情をしている。
「…本気で言ってる?」
「キャプテンがそんなことで何度も徹夜してたら、この夏乗り切れないでしょうが」
「まあ、何度も徹夜するほどもらわないけどさ」
「頼りにしろよ。こういうことは、お前よりは慣れてるって言っただろ」
「悪かったね、経験不足で」
谷口は、いつもの冗談だと受け取っただろう。
しかし倉橋の言葉は、半分冗談で、半分本気だった。
これは独占欲から来ている言葉でもあったが、今は、野球以外のことで谷口をわずらわせたくないというのも本音なのだ。
墨高野球部での最後の夏。倉橋自身にとっても大切な、取り戻せないこの季節を、なにものにも邪魔されたくなかった。
しかし、そこまでの想いを明かすのは重すぎて、とてもできない。
谷口は小さく手を振ると、そのまま振り返らず走っていった。
夕闇と人波にその背中が消えていくのを、倉橋はしばらく見つめていた。
片想い