初めて触れ合った雪の日から、時おり谷口は倉橋の部屋で過ごすようになっていた。
それからはもう数ヶ月が経つ。
そこでは、自分の知らなかった自分が現れる、と谷口は思っていた。
倉橋の表情も、野球の時間とは違っていた。
それが怖いようで面白いようで、少し切なくもあった。
ふたりはもう、以前のままの無邪気な友達同士ではなくなってしまったのだという現実を突きつけられるからだ。
何も考えずに野球への愛情だけで生きてきた谷口には、少し疲れることだった。
今までなら要らなかった緊張も覚えた。
しかしそのネガティブな感情をも超える気持ちが、自分の中に生まれつつあることを感じていた。
しかも、それはどんどんと大きくなってきている。
だからこそ、誘われることに迷いながらも、今日も倉橋の部屋に来ていた。



高校最後の夏が終わり、初秋の風が吹くころになると、それまでは時々グラウンドに顔を出していた3年生も、野球部を次の世代にきっぱりと引渡さねばならなかった。
そして自分たちの将来も、もう本腰を入れて見据えなければならない。
いろんな現実が立ちはだかる季節になった、と谷口はそっとため息をついた。

倉橋がそのため息に気づくと、ちょっと不機嫌な顔をした。
「…なんだよ、来たくなかったんならそう言えばいいだろ」
「は…?」
「別に、無理強いしてるわけじゃないんだから」
谷口は、倉橋が思い違いをしていることに気づくのに、数秒かかった。
「違うよ」
案外、能天気なんだなとこっそり思いながら谷口が笑って否定してやると、倉橋はむっとした表情のまま、谷口の両肩を抱いた。


倉橋の唇が首筋に触れたとき、一瞬、鳥肌が立った。
それはただほんとうに触れるだけだったが、何度も何度もくり返された。
その優しい感触に、谷口はめまいを感じた。酔ったような感覚に襲われ、思わず小さく声を上げた。
「あの……」
「何」
唇を触れさせたままの倉橋の声は、くぐもっていた。
「嫌か?」
谷口はだまって頭を振った。
「嫌なら言えよ」
声を出すたび漏れる息が、首筋にかかる。
唇の感触よりも、そっちのほうが谷口には耐えられそうになかった。
「お前、黙れ」
谷口の怒ったような声に倉橋は、ふっと笑った。そして、首から耳の後ろに舌を這わせていった。
谷口の体じゅうがゾクッと冷えた。その直後、逆に熱くなった。
いままでされたことのない行為に、谷口は少し怖くなった。
しかし怖さよりもこのままこうしていたいという気持ちのほうが強かった。
倉橋のその手馴れた様子にむかつきもした。

  俺とは違って、きっとこんなこと何度もしてきたんだろう、だから俺の不安とか緊張とかわからないんだろう。
  嫌か?ってお前、前も同じこと訊いたよな。嫌だったら俺がこうしておとなしくしてるわけないだろ。
  自信がないなら、すんなよな。また俺にも同じこと言わせるつもりかよ。
  無神経なやつ。

頭の中でそんな文句を言いながら、谷口は拒むでもなく、その愛撫を受けていた。
硬くしていた体からは力が抜けていくようだった。
身を任せているというよりは、あらがう力が出てこないのだ。
そして、ふと体を離した倉橋は、谷口の右手をつかみ、人差し指に唇を寄せた。
指から手の甲へ、点々と唇を押し付けていく。それは、唇を重ねるよりも、ずっと扇情的な感触だった。

前に、相木に首筋に触れられたときは、そんなことは感じなかった。求められているとも思わなかった。
相木に対して、きっと自分は残酷なことをしてしまったのだと今は思う。
なんだか、この数ヶ月で自分が自分でない別人になっていっているような気がした。
倉橋は、何度も谷口の人差し指と手の甲にキスしている。谷口は、その様子をぼんやりと見つめていた。


この右手は自分の全てだ、と谷口は思っていた。自分には野球しかない。
ボールを投げるこの右手が、この手のひらが、この指が自分を自分たらしめてくれる。
指を折ったそのときでさえも、自分から野球を取り上げることはなかった、この右手。
その右手を、今、倉橋にあずけている。撫でられたり、指の間をくすぐられたり、くちづけられたり。
それは気持ちが安らぎこそすれ、辱められているようには感じなかった。
それはなぜなんだろう…。のぼせた頭で考えていると、谷口の意識は遠のきそうになった。



「お前さ…」
「えっ」
急に呼ばれて、谷口は目が覚めたように驚き、手を引っ込めようとした。しかし、倉橋はその手を離さなかった。
「何…」
「いや、なんでもない」
呼びかけた倉橋が、逆に口をつぐんだ。しかし倉橋は、あきらかに何かを訊きたそうな表情をしていた。
谷口は少しもどかしい気持ちにもなった。




好きとも嫌いとも、どちらからも言ったことはない。
それでも、こうなることがふたりの間ではごく自然な流れだった。
倉橋は、その流れに戸惑ってもいた。今までこんなつきあいは経験してこなかったのだ。
たいてい女は、自分が相手にとってどういう存在なのか、友達なのか、その他大勢なのか、恋人なのかをはっきりさせたがる。
惚れた腫れたにこだわりなく、こっちはちょうどいい距離感でつきあえていると思っていても、相手はそうでなかったりする。
そう気づいたとたん、こっちの気持ちがさっと冷めてしまう。

ところが、今の倉橋はまさに、自分と谷口の関係をはっきりさせたいと思ってしまっているのだ。
どういうつもりで、谷口は自分とこうしているんだろう。どうして谷口は俺に許しているんだろう、と。
より近くに触れ合うほど、谷口の心の中が見えなくて、不安になる。
気持ち悪い、恋愛対象にされるなんてまっぴらだ、と拒否されてしまえばすっきりする。
それで谷口を憎むこともうらむこともない。愛情も、信頼も変わらない。
キャッチャーとして、これからもピッチャー谷口を支えていくだけだ、と思っていた。
そしていつか谷口が誰かを選び、伴侶とするのを見守っていけるという自信もある。
しかし今の谷口は、自分が施す愛撫を拒まない。それを待つ表情をすることもある。自分を煽るときもあった。
だからこそ要らない期待も抱いてしまうが、単に谷口が無邪気なだけかもしれない、とも思う。
気持ちを確かめたい、関係をはっきりさせたい、と思うのと同時に、その結末を見るのが怖い。
闇の中で抱き合っているような見えない関係のほうが心地よくて、そこから脱したくない、とも思ってしまうのだ。

だから倉橋は、今も思わず口をつぐんでしまった。
訊かなければ、このあいまいでも心地いい関係でいられるのだから。
今はそれでもいい。しかし、もう数ヶ月で高校生活も終わりを告げる。
ふたりが違う道を選んだら、このあいまいな関係はもろく途切れてしまうのだろうか。
そうなってしまうことも、倉橋は怖かった。




もどかしさは、谷口をいらいらさせた。
倉橋は、よく「嫌だったらそう言え」と言う。
でも、なぜ、自分が嫌がるかもしれないということ―――キスしたり体に触れたり、そんなことをするのかは言わない。
自分から訊けばいい。そんなことは谷口にもわかっていた。
訊かなくても、言わなくても心が通じ合えるなんて、そんな都合のいいことはありえないのだから。
それでも訊けなかった。他力本願ではあるけれど、倉橋がもう一歩踏み出してくれたら、きっと自分の気持ちも言える、と思っていた。
だから、なにかを言いたげな表情で口をつぐんだ倉橋のことが、もどかしかったのだ。
そして自分から踏み出せない、自分のことも。



窓の外に見える街路樹が、少し色づき始めていることに谷口はきづいた。
ついこのあいだまで、強い夏の日差しに照らされて青々としていた葉が、かすかに黄色くなっている。
甲子園はほんの数週間前のことなのに、ずっと昔のことに感じる。
自分の青春はもうとっくに過ぎ去ってしまったのだと思った。寂しく、不安だった。
そばに好きな人がいても、不安だった。

「時間って、早いな」
そうぽつりとつぶやいた谷口の言葉に、倉橋は胸が痛くなった。
自分たちには、もう時間が残り少ないことを感じていたからだ。
このふたりの関係に答えを出すのも、将来の道を決めるのにも。
谷口も自分と同じように不安に思っているのだろう、と思った。
しかし、谷口の不安を消し去ることができるような大人になっていない自分がふがいなく、悔しかった。
「…ほんと」
今の倉橋にはそう返すことしかできなかった。
そしてまた、谷口の右手に触れた。

闇の中
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