夏の地方予選を控え、放課後の練習は、連日9時まで続く。
マネージャー的な存在を置かない墨高野球部では、雑用にいたることまで、キャプテンである谷口がしていた。
別にそういう慣習があるわけではないが、野球部のすべてを把握していないと気がすまない谷口の性格がそうさせていた。
今日も、練習が終わってから、明日の朝練に備えた準備を最後までしていた谷口の背後から、声がした。
「そういうことは、1年にでもやらせれば?」
それが倉橋の声だとわかっていたから、谷口は振り向きもせずに作業を続けていた。
「俺に言ってもきかないってわかってて、言ってるんだろ?」
「…まあね」
苦笑する倉橋の表情が見えるようで、谷口もうつむいたまま笑った。

倉橋は手伝うでもなく、谷口に背を向けてパイプ椅子に腰かけた。そして左手でほおづえをつき、日焼けした自分の右手の甲をぼんやりと見つめていた。
ああやってグローブやボールに触れているのが、谷口には一番落ち着くのだろう。
それを知っている倉橋は、谷口の気の済むままにしておいてやろうと思った。
そして、この野球部で過ごせる時間はもう残り少ない。少しでも長く野球に触れていたいと思うのは、倉橋も同じだった。
ふたりの間に流れる沈黙は、決して気まずいものではなく、むしろ、この忙しい毎日の中で唯一ほっとできる時間なのだ。
ひとりでなくふたりでいる時間。その時間が、谷口は好きだった。
だから谷口は「帰れ」ともうながさない。倉橋も、普段の文句も垂れずに待っている。
谷口は、倉橋も自分と同じように、この静かで穏やかな時間を好きでいてくれるといい、と思っていた。


以前、中山にピッチャーをやるようになったきっかけを訊かれたとき、谷口は
「ほかにやる人がいなかったから」
と答えた。
やむにやまれぬ事態になって、自らが投げなくてはならなくなった。きっかけがそれであることは間違いではなかったが、心のどこかで、いつかは挑戦してみたいと思っていたに違いない。
だからあんな無謀なこともできたのだと、谷口は今になって思う。
しかし墨二に来る前の谷口なら、たとえどんなに人材不足であったとしても、自分が急ごしらえの投手になろうとは考えもしなかっただろう。試合そのものを辞退していたかもしれない。
そうしなかったのは、「挑戦しないうちから諦めたくない」と思えるようになっていたからだ。
練習すれば、青葉の二軍の実力から、日本一を狙えるまでに自分を変えることができるのだと、身をもって経験していたからだった。
谷口はグローブを磨きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

そして谷口はぽつりと言った。
「お前、最初からキャッチャーだったの?」
急に沈黙を破られて、倉橋は目が覚めたようにはっとした。振り向くと、谷口は変わらず背を向けてしゃがんだままでいる。
「なに、突然」
「いや…。俺が初めてピッチャーやったときのことを思い出しててさ。それで、お前はどうだったのかなって」
改めて訊かれて、倉橋は自分のリトルリーグ時代を思い出してみた。

始めた当初は外野手を務めていた記憶があるが、あるとき監督に肩の良さを見込まれてマスクを被るようになり、ついにはチーム初の5年生での正捕手に抜擢されたのだった。
そしてひとつ年下のエースとともに、下級生バッテリーを組むことになった。
「最初からといえば、最初からかもな。それ以外のポジションに印象が無いし」
「ふうん」
ひとつのグローブを磨き終わると、また別のグローブを手に取った。
「お前はキャッチャーに向いてると思うよ」
「へえ…。エースにそう言われると光栄だね。このふてぶてしい性格が向いてる?」
「別に冗談で言ってるわけじゃない」
谷口は背を向けてしゃがんだままでいた。
「お前は、何人ものピッチャーと組んできてわかると思うけど、ピッチャーってこう…わがままだろう?いろんな意味で」
「確かにな」
「でも俺は、お前に投げるのは、安心できるんだ」
その言葉に、倉橋はなにも答えなかった。


投手にはよくも悪くも、プライドが高い人間が多いと言われる。それは倉橋も嫌というほど感じてきた。
キャッチャーは、ピッチャーという人間そのものをコントロールして初めて、役割が果たされるものだ。
その人間をコントロールする力量と、「どこへ投げても受け止めてやる」と言える技術。
それが求められるポジションは、倉橋にとってやりがいのあるものだったし、これからも自分にはこれしかないと思っていた。
谷口にも、マウンドに一人で立たされるという経験を経てきて、確実にピッチャーらしいプライドは培われてきている。
ともすれば独りよがりになってしまうプライドの悪い面、それを常に気づかせてくれるのが倉橋というキャッチャーだと谷口は感じていた。
経験不足のピッチャーくせに、わがままさだけは一人前な自分をうまく受け止めてくれている。
そういう意味で、「安心して投げられる」と言ったつもりだった。
言葉足らずで、それがちゃんと倉橋に伝わったかどうか、谷口にはわからなかった。



しばらくの沈黙ののち、倉橋から口を開いた。
「そういえば、松川も、今じゃちょっと控えめな感じだけど、あいつが隅田中に入ってきたときは、けっこうな自信家だったんだぜ」
「へえ…そうなんだ」
「小学校時代は、まわりにあいつにかなうピッチャーがいなかったんだろうな。変に自信過剰なとこがあって、それはお前の勘違いだってことから教えてやるところから始めなきゃならなかった」
そこまで話したところで、谷口が肩をふるわせてクックッと笑い出した。
「…なんか可笑しいか?」
谷口には、松川の自信過剰な鼻をへし折る倉橋の姿が、容易に想像できてしまったのだ。
谷口はひとしきり笑うと、ポン、とグローブを用具箱に投げ入れて立ち上がり、倉橋を見た。
「ごめん。いや、だから松川のやつ、あんなにお前に萎縮した感じだったのかって思って」
「萎縮?…でも言うことは言うだろ、あいつ。おとなしいだけじゃない」
「うん。それに、お前のことすごい信頼っていうか理解してるなあと思ってた。そういうことがあったからなんだよな」
谷口はクスクス笑いながらも、納得したようにうなずいている。
倉橋はそんな谷口を見て、むずがゆくなった。
「…まあ、無駄に調子に乗ってるやつを見たら、へこまさなきゃ気がすまないだけなんだけどな」
「照れなくてもいいよ。ていうか、そういうのもキャッチャーに向いてるんだな、きっと」
谷口の言葉に、倉橋はますます気恥ずかしく、逆に腹が立ってきた。
「わがままなピッチャーをなだめてすかして、大変なんだからな。最初から最後まで集中力が続くピッチャーなんてめったにいない。ムラッ気もあるし、いちいちあやしてやんなきゃならない、子供みたいだよ」
倉橋は自分でそう言いながら、逆に谷口にいいようにころがされているような気がしていた。
いつでも自分が主導権を握っていたい倉橋にとって、それは悔しいことだった。と同時に、そんなやりとりを楽しんでいる自分もいた。
「ほんと、大変だな」
谷口はそんな憎まれ口をきく倉橋を、どっちが子供なんだよ、と思いながらも可愛らしいと思った。そんなことを言ったら、きっと怒るだろうけれど。
そして、倉橋はやっぱり天性のキャッチャーなのだと改めて感じた。


谷口は、この高校時代に倉橋とバッテリーが組めて、本当によかったと思っている。
倉橋という存在がなければ、自分がここまでピッチャーとして成長できたのか、キャプテンとしてやってこられたのかもわからない。
それほどに、倉橋がいつも自分のそばにいるということが自然になっているのだ。
自分に不安に思うことがあれば、多くを口にせずともそれを察知して、ともに悩み、考えてくれる人。
それがあまりにも自然で、倉橋の存在がまるで自分の一部とさえ思える。
倉橋に会うまでは、たとえひとりでも、野球への情熱さえあればやっていける、きっと自分にはそんな強さがあると思っていた。
しかし、今は違う。ひとりでいるよりもふたりでいるときの沈黙のほうが心地いいほどになってしまっているのだ。自分にとって、こんな人間はほかにはいない。
だからこそ、この優しい沈黙をともにできる存在を失ってしまうときを考えると、自分の弱さを思い知らされる。さみしいよりも怖くなるのだ。
またひとりになっても、前よりも力強く立っていける自分に成長しているだろうか、と。



すっかり暮れてしまった帰り道、別れ際に谷口が手を振った。
倉橋も同じように手を軽く振ると、ふと何か考えたように谷口に近づいた。
そして谷口の右手の小指をきゅっと握った。谷口はその突然さと指の感触に、「あ」と小さな声を上げた。
倉橋は小指を握ったまま谷口を引き寄せ、耳元で「じゃあな」とだけ言うと、さっと体を離した。
そして、振り向きもせずに横断歩道を渡っていった。
(……なんなんだ)
時おり見せる、ああいう手馴れた感じが、谷口をいらだたせる。
普段、くだらない日常のことや野球のことで、悪態をついたりじゃれあったりしているときは、対等な関係でいられる。
しかしふいに大人びた態度を見せられ、そして好意を向けられると、谷口にはどうしていいのかわからなくなるのだ。
自分が戸惑いもするし、そんな自分を倉橋は物足りないと思わないかと。
谷口は、倉橋に握られた小指を、自分の左手でそっとさすった。

野球のことで自分が不安を感じると、倉橋はすぐにそれを察してくれる。
しかし、この自分が抱えている別の気持ち―――自分でもまだ把握できない、倉橋へのしこりのような気持ち。そんな気持ちには、気づいていないのだろうと思った。
だからきっと、あんなふうに慣れたふうに体を寄せるのだ。でなければ、残酷すぎる。

どちらも求めるなんて、きっとぜいたくなのだ。野球における、最高のパートナーなのに、何をそれ以上求めることがあるのか。
自分の野球人生の中で、こんなにも素晴らしいキャッチャーを得られた高校時代を、幸せだと思わなければならない。
このバッテリーを解消するその日まで、倉橋にも「最高のピッチャーだった」と思わせるような存在でありたいと思う。

今夜は月が見えない。風もやけに生暖かい。明日は雨になりそうだと思いながら、谷口は帰り道を急いだ。

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