谷口は、少し赤い目をして翌日の朝練に顔を出した。頭がぼんやりしている。
しばらくして勘は戻ってきたが、ちょっと体の動きが鈍い気がした。
やはり、ここ数日の間、取材に応じたり、抽選会に大阪に行ったりと、まともに練習ができていなかったせいだろうか。谷口は、何度も何度も、自分の投球フォームを確かめていた。

あと20分で授業が始まるというころに練習を終え、谷口が着替えて部室を出ようとするところを、倉橋に引き止められた。
「な、何」
「ゆうべ、10時ごろ電話したんだけど」
「ああ、ごめん。出かけてた」
「出かけてた…って、そんな時間にか」
倉橋の語気を荒げた口調に、谷口はむっとした。しかし表情に出すのは抑えたつもりだった。
「電話に出れなくてごめん。何か用だったのか?」
「べつに、ゆうべでなくてもよかったけどさ」
倉橋は、自分の責めるような口調に谷口がイラッときているのを感じた。
しかし、気づかないふりをして言葉を続けた。
「1回戦の相手も決まったことだし、俺ができるだけ集めた相手校の情報をにメンバーに伝えようと思って、放課後の練習中にその時間が取れるかどうか相談したかったんだ」
谷口は、はっとした表情になったあと、倉橋に頭を下げた。
「ありがとう。お前、大阪から帰ってきてから、いろいろ調べててくれたんだな。…ほんとは、キャプテンの俺が率先してやらなきゃなんないのに」
「いや、どっちにしてもやるべきことだったし」
謝ることじゃない、と倉橋は谷口の頭を上げさせた。

それよりも倉橋は、訊きたいことがあった。「誰と会っていたのか」ということ。
しかし、谷口が誰と会おうと、倉橋にとがめる権利はない。
今朝の谷口は、一瞬でも野球のことを忘れたかのようだった。なにかに浮かれたような、夢うつつの中にいるような。そんな谷口は見たくなかった。
この忙しい時期に、谷口が大会以外のことに気持ちを移すことといえば、きっとあの人のことに違いないと倉橋は思っていた。


「相木さんに会ってたんじゃないのか」
訊いてどうなるものでもないとわかっているのに、言わずにいられなかった。
「…そうだよ」
谷口は、すんなりと認めた。倉橋は、一瞬、顔が熱くなった。

くだらない嫉妬だとは自覚している。
今はそんな感情に振り回されている時ではないこともわかっている。それでも倉橋は、ぶつけずにはいられなかった。
「ちょっと馴れ馴れしいんじゃないか。先輩ったって、サッカー部じゃん。関係ないだろ。あの人だって、今がどんな大事なときかわかってるのに、この前も…」
誘われたんだろう、という言い方はあまりにも下卑た感じがして、やめた。
しかし言外に何かを感じて、谷口は、さっと表情を変えた。
誰であっても相木をおとしめるようなことは言わせたくない。
「昨日は、俺から会いに行ったんだ」
「お前、あの人のことが好きなのか?」
「好きだよ」
間髪入れないその答えに、一瞬、倉橋は絶句した。
その一瞬の倉橋の表情に、谷口は胸が痛んだ。それでもそれは、正直な気持ちだった。
「悪いか?当たり前だろ。嫌いなわけがない」
「…そういう意味で言ってない」
それは谷口にもわかっていた。ずるい逃げだった。

首筋に押し当てられた感触を受け入れてしまう自分は、それ以上を求められても拒まない気がしていた。
相木は谷口にとって、感謝してもしたりない大切な人だ。それは何があっても変わらないし、相木に対して自分にできることがあるのなら、何でもしたいと思う。
相木の、厳しさの中に時折見せる弱さも、力強い抱擁も、優しい声も、触れる指も、どれも谷口は好きだった。
ただそれは、自分から積極的に求める気持ちとは違う。尊敬の域をどうしても出ないものだった。
自分から欲する人、確かにそれは目の前にいるのだ。谷口は、その気持ちを素直に吐き出した。
「それでも俺は、お前にそばにいてほしいと思ってる」
「……」
倉橋は黙っていた。


谷口の、どちらを想う気持ちにも嘘はない。しかし、それを倉橋が理解して受け入れるには、よほどの包容力が必要だった。
人の気持ちに鈍感というか、自分の気持ちに正直すぎるというべきなのか。どっちも欲しいなんて、ありえないだろ、と倉橋は少し呆れた。
しかし、倉橋は谷口のそういうところすらも嫌いになれなかった。
嫌いな人間とバッテリーを組む。それは倉橋には苦痛ではなかった。
むしろ、勝負に集中できて気が楽だ。立派に女房役を務め上げる自信もある。
だから、谷口を嫌いになれたらどんなに楽だろうと思った。でもできなかった。
どうしてこんなやつが好きなんだろう、俺は。と、逆に自分が虚しくなった。
倉橋は、結んでいたこぶしから、力を抜いた。


「やめよう。大会前に、こんなことでバッテリーがくずれたら元も子もない」
倉橋からそう切り出した。
「俺は、まだお前に投げててもいいんだな?」
「当たり前のこと訊くなよ」
「お前が投げるなって言っても投げるんだけど」
「…じゃあ、なおさらそんなこと訊くな」
この変なやりとりが可笑しくて倉橋が情けない笑顔を見せると、谷口もようやく笑った。




谷口は、頭が冷えたような気がしていた。
ゆうべ相木と一緒にいた時間は、とても心地よかった。自分を包み込んでくれるような優しさをくれた。
それは、全国大会出場にまでこぎつけたことを喜んでくれて、そして疲れていた自分をいたわってくれていただけなのに、自分はすっかりそれに甘えてしまっていたのだ。
その優しさに浸ることにおぼれて、肝心の試合のことを一瞬でも忘れそうになった自分が、とても恥ずかしい。
倉橋は、東京に戻ってから今日までの二日間で、できる限りの相手校の情報を集めていたというのに。
本当に、自分が不甲斐ないと思った。責められて当然だと思った。

「ごめん」
「なにが」
そう返す倉橋の言葉は短かったが、険しくはない。
そういう口調のあやを感じ取れるほど、谷口は倉橋に近くなっていた。
今度は、素直に話すことができると思った。
「なんか俺、全国大会が決まってから、浮わついてたな」
「お前だけじゃないよ。甲子園なんて特別なことなんだから。誰だって普段と同じでなんていられないさ」
だから誰かに頼りたくなるんだよな、俺じゃない誰かに、と倉橋は心の隅で吐いた。
「でもお前は、冷静に動いてくれてて…。ほんとに助かる。ありがとう」
谷口は、頭を下げた。
倉橋は思わず目を逸らした。

好きでいるのがつらい。嫌いになりたい。
こんなやつの顔も見たくない、と思えたら本当に楽になれるのに、と倉橋はまた思った。
夏の朝日はもう高く上っていて、強く照りつけている。こもった部室の空気を逃がすように、倉橋は窓を開けた。
苦しい気持ちも逃してしまいたいと思った。
しかし吹き込むのも、熱くなった空気だった。
「さあ、忙しくなるな。もう感傷に浸ってる暇はないぜ、キャプテン」
倉橋は谷口の目を見ないまま言った。
「ああ」
谷口の声は、今朝までの鈍ったものではなかった。
気持ちのベクトルが、野球へと切り替わったように、倉橋には感じた。

熱い空気
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