俺の大学の野球部との練習試合の日程は、こちらの都合に合わせるということだった。
いくつかの候補日を決めてきた俺は、それを知らせるために墨高グラウンドに来ていた。
べつに、電話ですむ話ではある。
谷口にも、わざわざ足を運んでもらって、と恐縮されたが、
「こっち方面に来るついでがあったから。それに、母校の野球部の練習の様子は見ておかないとな」
なんていう、自分でもくすぐったい口実を並べた。
野球部の練習もなにも、今は中間試験前で部活動が休止される期間なのだ。
ここに田所さんがいなくてよかった。もしあの人がこの口実を聞いたら、
「谷口に会いたかったからだろ?」
と、きっと言われてしまっている。自分も、似たような気持ちでたびたびここに来るくせに。
谷口にとりあえずの用件を伝えたあと、俺は雲ひとつない空を見上げて言った。
「しかし、暑いよな。まだ5月だろ?」
俺は、すでに夏のような日差しに耐え切れず、今朝から半袖Tシャツを着ている。
しかし目の前の谷口は、真っ黒な冬服に学帽という姿だった。
「お前のその格好も暑苦しいよ」
「だって、衣替えは来月ですよ」
そういう問題じゃないだろ、と突っ込もうとしたとき、谷口が続けて言った。
「中山さん、大学に入って体力落ちたんじゃないですか?」
「何?」
「いつもは、このぐらいの季節でも、走りこんでバテることなんてなかったでしょ」
さすがに俺はカチンときたが、反論もできなかった。そのとおりなのだ。
墨高野球部を引退してからというもの、大学でも野球を続けているとはいえ運動量は大幅に落ちた。
というか、体がなまっている、というのが正しいかもしれない。
それにしても、この谷口が嫌味のひとつも言うようになったか、と俺は軽くショックを受けた。
お前ってもっと素直で優しい子だったんじゃないの、と言いたくなった。
そのかわりに、こっちから痛いところを突いてやった。
「お前、言うことが倉橋に似てきたな」
「えっ」
谷口は、一瞬、顔を赤らめた。
「お前ら、一緒に居すぎなんだよ。あいつの嫌味なとこまで似ることないだろ」
「べ、べつにそんなに一緒にいるわけじゃないですよ」
谷口の戸惑う様子があまりにあからさまで、俺は逆に気の毒になった。
野球で見せる、冷静な策士の姿の谷口は、チームメイトであったときですら、恐ろしく感じたものだ。
敵でなくて、ほんとによかったと何度も思った。
しかし、普通の高校生に戻ったときの、この嘘のつけない素直な表情が、俺はとても可愛いと思う。
根っこは全然変わっていない。
だからこそ、正直な気持ちが、あのあからさまな焦りように出るのだろう。
谷口と倉橋がお互いにどこまで自覚しているかは知らないけれど。
俺たちは、グラウンドの背の低いフェンスにもたれながら、しばらく話していた。
俺の知る「下級生のキャプテン」と、今の「最上級生のキャプテン」とでは、同じ谷口でも印象が違う気がした。
2年生だった谷口は、チームのキャプテンであっても、やはりどこか後輩という面がぬぐえなかった。
しかし今は、後輩というよりは、もっと対等な立場で向き合えているように思う。
谷口も、きっとチームメイトには吐かないであろうこと、今のチームはまったく模索中であるということを、相談というわけでもなくぽつりぽつりと俺に聞かせていた。
「中山さん」
話が途切れしばらく沈黙が続いたあと、谷口は、いくぶん神妙な表情をして言った。
「中山さんの彼女って、俺とおんなじクラスの子だったんですね」
「は…?」
唐突だ。
谷口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった俺は、一瞬絶句した。
ていうか、遅い。遅すぎる。あの子とは1年ちかく前に別れてるよ。
「ああ。前は、な」
「前は?今は違うんですか?」
いやに絡みやがる。そういうところが、倉橋に似ているというんだ。
「なんでそんなこと訊くんだよ」
「いや、彼女から聞かされたんで…。『こないだ中山さんと会ってたら、谷口君のことばっかり聞かされるんだよ』とか言われて」
俺は、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。体も熱くなった。
この熱は、夏のような日差しだけが原因ではない。
しかし俺を見ている谷口は、からかう様子でもなくただ訊きたいことを訊いている、といった表情だった。
こんなこと倉橋にでも聞かれていたら、と思うとぞっとした。
確かに、向こうから振られたことで彼女とはいったん終わったはずだった。俺には不思議と未練も残らなかった。
しかし2週間前、墨高にふらりと寄ったときに、偶然、彼女と顔を合わせてしまった。
一瞬、お互いの間に気まずい空気が流れた。
俺もそこで表情も変えずに視線を逸らしてしまえば格好よかっただろう。
しかし彼女からかけられた、「久しぶり。元気そうだね」という言葉は、一瞬にして、俺を高校生に戻らせてしまった。
彼女は、最後に見た日よりも大人びていて、少し痩せていた。
しかも、彼女のかすかに申し訳なさそうな、かぼそい声に、くらりときた。
嫌いで別れたわけじゃないんだから、仕方ない。
俺は情けないほど、自分自身に言い訳をしていた。
それから彼女とは、外で2回会っている。はっきりとではないが、彼女も今はひとりだということを言葉の端ににじませていた。
だからといって、よりを戻すかというと、それはまた違う話だが…。
俺と彼女のことは、この際はどうでもいい。
ともかく自分自身に驚いたのは、谷口に彼女とのことを知られるのが、こんなにも恥ずかしいことだということだ。
俺と谷口の間には、そういう色恋沙汰の話題なんてありえないと思っていたからだ。
というか、そんな話はしたくなかった。
しかも、彼女との話題が谷口のことだったことまで暴露されている。
俺自身には、そんなに谷口のことを話していたという自覚はないというのに。きつい。きつすぎる。
それなのに、谷口はまだ絡んでくる。
「つきあってないのに、デートとかするもんなんですか?」
「デートじゃない。全然違う。お前には女友達がいないからわかんないんだよ」
淡々としている谷口に対して、俺の内面は焦って焦ってしょうがない。表面は、努めて冷静にしているつもりだったが、にじむ汗で眼鏡がずれるのを、なんども直さなければならなかった。
「でも、前はそうだったんですよね。彼女、可愛いですもんね」
「え?」
俺は、変なところで驚いた。
谷口でも、そういう風に見えるのか、彼女は。俺は、いやに胸が騒いだ。
谷口が、自分の彼女(もと、だが)を好きになって、もしかしたら彼女をとられてしまうのではとか、そういう類の心配ではない。
今の俺なら、また彼女が自分から去ってしまっても、そうは辛くない気がした。
もう、そこまで彼女に執着はしていない。
この胸騒ぎは、むしろ彼女に対してのものだ。
一瞬、ほんの一瞬だが、自分と彼女が谷口をめぐって張り合う図を想像してしまったのだ。
それって男としてどうなんだと、もと彼女よりも谷口に執着している自分が情けなくて仕方なかった。
「べつに可愛くないし。ていうか、あいつ、今は彼氏いるらしいしな」
俺は、とっさに嘘をついた。
「あ、そうなんですか。なんか嬉しそうに、中山さんと会ったってことをいきなり話しかけてきたから、俺、てっきり…」
くそ、可愛いことするなあ。
でも谷口はお前のものにはならないからな。今の谷口の恋人は『野球』なんだからな…って、また俺は変な方向にむかついている。
俺は、はやく話題を変えたかった。
「谷口、指の調子はどうなんだよ」
「いいですよ。ほんとに」
谷口は、にっこり笑うと、ボールを握るしぐさをした。
「まだ医者には通ってんのか」
「ええ。でもこのまえ中山さんに言われたことを信じてますから、もうあんまり気にしてません」
俺に言われたこと。
谷口の指は、本当はもうとっくに治っていて検査の必要もない。しかし勝負を目の前にすると無茶をしてしまう谷口を牽制する意味で、広谷医師は毎月検査に通わせているのだろう、ということだ。
実は、田所さんが広谷医師に検査を続けることを頼んでいたのだ。
俺は谷口に、それが田所さんの思惑であることを明かしてはない。あくまで、俺が谷口を安心させるために言った、ということになっている。
多少のうしろめたさはあるが、今はそのままにしておいた。
「楽しみだな。また中山さんと投げ合えるんですよね」
「俺?俺は投げないよ、多分」
「え、そうなんですか」
谷口は、心底残念そうな顔をした。こういうとこが、俺を、変に執着させるんだよ、と思った。
「俺は、中山さんからもらったエースナンバーをつけて投げるところを見てもらいますよ。手加減しませんからね」
勝負のときに見せるような、少し強気な目で俺を軽くにらんだ。
「弱小野球部だからってバカにすんなよ。少なくとも、田所さんの草野球チームよりはましだからな」
「それって、ましって言えるんですか?」
「お前、田所さんのチームだって、仮にも野球部OBのなんだぞ」
「中山さんだっておんなじようなこと言ってるじゃないですか。あれよりはまし、とか」
「…それもそうだ」
俺たちは、同時に吹き出して笑った。
あのとき―――野球部引退の日も、永遠にこの時間が続けばいいと思った。
やっぱり俺は、野球をやめたくない。
プロになるとか、社会人でやるとか、はっきりした未来は今は見えないけれど、いつかどこかで、この谷口と一緒にプレイできるなら、その可能性は捨てたくないと思う。
俺の想いは明かすつもりはないし、これからもそれはずっと胸に閉じ込めたままだ。
この気持ちは、彼女に対するものとはまた違う次元に、いつまでもあり続けるもののように思う。
俺には夢にも考えられなかった甲子園は、谷口にとっては実現できる目標として見えている。
その夢を叶えるために少しでも役に立てるなら、俺は何も惜しまない。
うちみたいな弱小大学野球部との練習試合でも、ひとつやふたつ、何か得るものはあるのだろう。
谷口の日焼けした笑顔が、俺を奮い立たせる。谷口と相対して恥ずかしくない自分でいたい。
体力落ちた、と言われて笑ってる場合じゃないんだ。
俺は、グラウンドを出たあと、この焼けつくような空の下を走って帰ろうと思った。
熱い、熱い夏はもうそこまで来ている。
夏空