佐野が去る前に、谷口は、本当は言っておきたかった。
「君は僕の―――憧れだった。ずっと」
そして今でも。まだ超えられない、憧憬だと。それでも超えたい、目標でもあるのだと。



ほんの3ヶ月だけ在籍した、青葉学院中等部の野球部。
転入した谷口の目にまっさきに飛び込んできたのは、冷静沈着な下級生。
3年が引退済みの今、新キャプテンを務めていたのは、異例の1年生エースだった。
しかしおごった態度でもなければ「下級生だから」という無駄な遠慮もしない。実力がすべてだという徹底ぶりは、爽快でさえあった。
補欠の補欠だった谷口が、実際に佐野のピッチングを間近で見られるのは、練習時でもめったにないことだった。
試合の見学でも、スタンドの一番後ろで見るしかなかった。それでも谷口には、佐野のピッチングは誰よりもずば抜けて光って見えていた。

どれくらい練習したら、あの球を打てるようになるのだろう。
1軍の練習の準備をしていたときに偶然見た佐野の投球に、そんな言葉が口をついて出た。
その時は、自分でも、ただかなわない夢のようなものにしか思えない言葉だった。
そばにいた仲間にも、半ば呆れたように笑われた。つられて谷口も情けなく笑った。



それから数か月後、谷口の胸には、佐野の球を本気で「打ちたい」という気持ちが生まれてしまっていた。
中学最後の全国大会地区予選を、青葉と戦うことになったのだ。
まわりは、すごいすごいと騒いでいる。
確かに、無名の公立校がここまで這い上がってきたサクセスストーリーは人々の興味を引くだろうし、そういう美談めいたものも好まれるから無理はない。
まわりだけではない。メンバーたちも、このトントン拍子に浮き足立っていた。注目され、期待されることに酔っていたのだ。

ある日の練習の終わり、部室の鍵をかけている谷口は、後ろに気配を感じた。
背を向けたまま、谷口は言った。
「みんなの様子……どう思う?」
少しの沈黙のあと、答えが返ってきた。
「楽しんでますね、ほんとに」
「そうだな」
振り返ると、イガラシが一人で立っていた。
「きっとみんな、決して実力でここまで勝ってこれたとは思ってないでしょうね。だから、ラッキーもここまでで、青葉に勝てるとは思ってないはずです」
谷口は、黙ってイガラシを見ていた。
もうすっかり暮れてしまっていたから、イガラシの表情はよく見えなかったが、きっといつもの冷静な顔をしているのだろう。
「でも、キャプテンは違うでしょう?」
「違う…?」
「野球を楽しむって、こんなことだとは思ってないですよね」
谷口は、イガラシの指摘にドキッとした。そのとおりなのだ。

言葉にすれば、青葉で球拾い専門だった自分の思い上がりと勘違いだと思われそうで言えなかった。
しかしもう、負けるのは嫌なのだ。
負けるのは嫌、というよりも、その負けて当たり前、相手が青葉なら負けたってしょうがないという性根が嫌だったのだ。
我ながら、いつのまにこんなプライドが生まれていたのかと谷口は驚いた。
そして、これはとても個人的なことなのかもしれないが、佐野の球を打ちたいという欲が抑えられなくなってきたのだ。
彼をマウンドに引きずり出すには、青葉を窮地に陥らせてやらなければならない。
あの監督が思わずタイムをかけるほど追い詰めなければ、自分は佐野と相対することはできないのだ。
谷口は、墨二をそんな脅威のチームにしたいと本気で思うようになっていた。
「俺はわかってますよ、キャプテンの気持ち」
「えっ」
「本気で青葉とわたりあうつもりですよね。そうこなきゃと思ってました。俺も望むところです」
暗くてよくわからなかったが、イガラシの声音はとても嬉しそうで、笑顔が見えるようだった。
谷口は、自分の秘めた佐野への執着心まで悟られたかと、一瞬肝を冷やした。が、イガラシはそこまで気づくことはできなかった。


迎えた青葉戦に破れはしたが、確かに谷口は佐野に打ち勝った。
試合後、佐野から握手を求めた。―――左手で。それでも谷口は嬉しかった。
その嬉しさは、卑屈な気持ちからではない。もちろん勝利は死ぬほど手に入れたかった。
しかし今、自分には佐野と、佐野の投球と対等にわたりあえる力を持っているという自信が確かにあるのだ。
今は、ただ憧れて見ているだけだった自分を佐野の中に刻み付けることができれば、また対決したいと佐野に思わせることができればそれでいいと思った。
握手している間、谷口は頭を下げてしまっていたので見ることはなかったが、佐野はふっと笑いを漏らしていた。
それは佐野自身も自分が不思議になる笑いだった。
勝者が敗者にかける哀れみでも気遣いでもない。自分を本気にさせる人間に出会えたことへの喜びからだったのかもしれないと、佐野はあとから思った。





あれから2年。佐野は、東実のピッチャーとして谷口の前に現れた。
墨高のキャプテンになっていた谷口は、3年生が引退したあとのチームで秋季大会に臨んでいた。
ブロック大会決勝の相手、東都実業はさらに選手層を厚くして、毎試合を大量点で勝ち上がってきていた。

2回の攻撃、3番倉橋を相手に東実エース工藤のコントロールが鈍ってきた頃、次の打順を待つ谷口は、目を疑った。
ブルペンで投げる佐野の姿を見たのだ。
(や、やつは……)
谷口の脳裏には、一瞬にしてあの青葉戦がよみがえった。あの日の暑さも、体の熱さも決して忘れられない。体が震えた。
目の前で倉橋が放ったセンター越えのヒットにも反応できないほど、谷口の視線は佐野に釘付けになっていた。

リリーフとしてマウンドに上がるとき、佐野はバッターボックスの外にいる谷口をちらりと見た。
そして、何も言わずに小さく手をあげた。その顔は、笑っているように見えた。
谷口の胸の鼓動が激しくなった。―――覚えていた。俺を。
谷口には、ぎこちなく「や、やあ」と答えることしかできなかった。
(あれが、常に勝ってる男の顔なんだな)
あの笑顔は余裕から来るものなのか、それともまた相まみえたことへの喜びなのか。
谷口は突然の再会に動揺しながらも、佐野のその相変わらず不遜にさえ見える態度をへし折ってやりたいとも思った。

―――うちで球拾いだったやつが4番なんてありえねえだろ。
谷口は、青葉のキャッチャー大山に言われた言葉を思い出した。
そうだよ。あのまま球拾いだったらありえないよ。でも俺はもうあの頃の俺じゃないんだ。
佐野の速球もさらに速くなったみたいだけど、俺だって成長しているんだ。
あの時バッターボックスの中で、大山にああ言われたことで逆に奮い立ったが、一瞬、萎縮したのも確かだった。
しかし今の自分は違う。自信の厚みが違うのだ。何を言われても揺るがない。それは自分の練習量に裏づけされているからだ。そう谷口は思っていた。


結局、1回に取った1点を守りきることで、墨高はブロック優勝を果たした。
東実は谷口に完封されたが、墨高も佐野から点を奪うことはできなかったのだ。
確かに墨高は東実に勝った。しかし、谷口には、勝利の爽快感を曇りなく感じることはできなかった。
むしろ、青葉戦で佐野に打ち勝ったときのほうが爽快感としてはあったように思っている。
試合のあと、ベンチの中でメンバーが帰り支度をしている間、谷口は少し離れたところでしゃがみこんでいた。

当てるだけで精一杯だった。完全に球を捕らえたバッティングはできなかった。俺は、佐野にまだ勝ってはいないんだろうな。
ますます速くなっていた佐野の球。速いだけでなく重さも増していた。
激しい練習で培ってきた自信が、くずれそうになる。自覚はなくても、自分はおごっていたところもあったのかもしれない。

谷口が、そんなことを地面を見つめながら考えていると、不意に誰かの影が目の前に落ちてきた。
「久しぶりだな」
その声にうながされて顔を上げると、佐野が谷口を見下ろすように立っていた。
まだ高い太陽が頭上で輝いていて、佐野の姿は逆光になっていた。
日光のまぶしさに谷口は2、3回まばたきをしたあと、はっとして立ち上がった。
「ひ、久しぶり」
2年ぶりに見る佐野の顔からは幼さが抜けていた。谷口より低かった背も伸びて、今では変わらないほどになっている。
しかし、感情をあらわにしないところは変っていなかった。
「おめでとう」
佐野は、右手を差し出した。
谷口は、一瞬、体を硬くした。そしておずおずと右手を伸ばし、握手に答えた。
(なんだ…。俺が負け投手みたいじゃないか)
谷口はそう自虐気味になりながらも、自分にとって、佐野は圧倒的な存在感なのだと思い知った。
投球する姿を初めて見たときから憧憬してやまない存在。そして超えなければならない大きな山―――。

その握手する手に込められた力があまりに強くて、佐野はふっと笑いながら言った。
「痛いよ」
「あ、ごめん」
谷口は思わず手を引こうとしたが、佐野はその手を離さなかった。
右手で握手したまま、佐野は左手で自分の帽子のつばを目深にした。
「君の投球、初めて間近で見たけど」
「うん」
「もうちょっと肩の力を抜いたほうがいいな。あれじゃ全国レベルじゃ通用しない」
「えっ……」
それだけ言うと、佐野はさっと手を離して、谷口に背を向けた。
去っていく佐野に、谷口は声をかけた。
「夏の予選で会おう」
佐野は立ち止まって振り向き、小さくうなずいた。



「キャプテン、帰り支度完了です」
丸井がベンチから出てきて声をかけた。谷口はその声に目が覚まされたようにはっとした。
さっきまでがまるで夢の中のことのように思えていた。
現実に戻されたことで変な焦りが生じて、恥ずかしくなった谷口は、丸井に顔を見られないようにして言った。
「ああ。それじゃ学校に帰ろうか」
「はい」


谷口は、佐野ともっと話したい、自分に足りないところがあるなら指摘して欲しい、強烈にそう思った。
しかし自分がそう思うのは、佐野がライバルではなく、まだ憧れの存在だからに他ならない。
佐野がアドバイスめいたことを言ったのも、自分がまだ佐野を脅かす存在とは認めていないからなのだろうと、谷口は冷静になった頭で思った。
『ライバルに手の内なんか見せられない』
そんなふうに佐野に思わせるほどのピッチャーになりたい。
そして完全に打ち勝ち、佐野から点を奪いたい。
『どのくらい練習したら、佐野君の球が打てるようになるのかな』
谷口には、そう言っていたあの時よりも、ずっと現実的なものに思えていた。
その時は今度は自分から右手を差し出して握手を求めたい。
それがこの高校時代に果たせないとしても、いつか、きっと。

その右手を
back