気苦労というものを谷口が自覚したのは、墨高のキャプテンになってからだった。
戦力になる人材を取るか、チームの和を優先するか。
負けてもともととありのままの実力でぶつかるか、それとも強敵と対等にわたりあうための(おそらく部員には受け入れられないであろう)激しい特訓をするべきか。
墨谷二中でキャプテンをしていた頃も、そういうことのはざまで思い悩む経験をしていた。
しかしそれには、実は自分の中ではすでに答えは出せていたのだ。
丸井をレギュラーからはずすか否か、その葛藤に対して父親に背中を押されたのは確かだった。
しかし、もし「いや、レギュラーをはずされる子の気持ちを考えるべきだ」と言われたとしても、自分の出した結論を曲げることはなかったのだろうと、谷口は今になって思う。
本当に情だけで動く人間なら、イガラシをレギュラーにすることもなかったし、仲間に反発されながらあんなに辛い特訓をさせることもなかった。なによりキャプテン業を放棄していただろう。
自分は野球に対しては、きっと自分が思っていたよりもドライで、チームへの情よりもむしろ勝つことへの執着が強いのだと感じていた。
もちろん、チームメイトは大切であるし、友情も愛情も感じている。しかし、自分の勝利への執着は、“勝つためなら手段を選ばない”青葉のスタンスと紙一重かもしれないとも思う。
そして、野球に関しての苦労なら、どんなに苦しくても、投げ出すことだけは絶対にしないという自負があった。
最近になって谷口が自覚した「気苦労」というのは、今まで経験してきた悩みとはまた違う次元からやってくるものだった。
墨高キャプテンになった頃、というのは倉橋が野球部に出戻ってきた頃と重なる。
そうか、あれからか、と谷口は思いかえした。
この一年で、倉橋は変わった。
入部当初の、意図的にチームの和を乱すようなことはもうない。
あの頃、倉橋は、谷口にだけは本音、というかその不協和音を起こす言動の真意を伝えてきた。直接であったり、間接的にであったり。
しかしそんなことを、まだそう親しくもない自分に明かされても、と谷口は正直、困惑したしイライラさせられた。
自分たちの力を過信するメンバーに喝を入れたいという倉橋の意図は、谷口にもわかっていた。
それだけに倉橋を否定することもできず、だからといって倉橋に同調することでさらにチームの和を乱すことなどできない。
ただでさえ、下級生がリーダーという危ういバランスで成り立っている特異なチームなのに、これ以上ぐらつかせることはできなかった。
谷口は不思議だった。倉橋は頭のいい男なのに、なぜこんなに“頭の悪い”(と当初、谷口には思えた)やりかたを選ぶのか。
きっと狙いがあってのああいう不遜な態度なのだろうが、今そんなことしてる場合なのかとイライラした。
そんなまわりくどいことをしている場合か?とぶちまけてもよかったのだが、そんなことに使うエネルギーは野球に費やしたい、というのが正直なところだった。
悩むのはいやだ。野球以外のことで煩わされるのは、本当にいやだ。
性格が悪いのも、仲間となじまないのも自分のせいなのに、なんで俺にだけ言うんだ。俺にだって言わなきゃいいのに。俺にどうしろって言うんだ。
自分だけが知っている、それなのにまわりにも明かせない、変に秘密の共有者みたいな立場にされて、迷惑なんだよ。
そう思っていた。
そう思っていたのに、気がつくと、いつのまにか倉橋はチームの中心にいた。
以前は、実力は認めるが人間的には…という倉橋に対する周囲の空気だったのが、それはもう今はない。
むしろ名参謀として頼られる存在になっている。谷口にとっても、心強い女房役である。
キャプテンの自分を差し置いてチームを仕切っているのはどうなのか、などということは谷口は微塵も思わない。
思わないが、もやもやと、釈然としないものは感じていた。
結果的には、倉橋の不遜な態度に反発した部員たちは、逆に鼓舞されたかたちになった。倉橋の狙いははじめからそこにあったのだ。
今となっては、倉橋なくして、墨高野球部はありえない。
そして谷口にも、倉橋のいない野球は今は想像できなかった。
しかし倉橋がいなければ、トラブルメーカーとチームメイトの板ばさみになるような、あんな気苦労はしなかった。
そのぶん、野球に集中できたのにと思う。そのゴタゴタのさなかにいたときは、倉橋の存在が疎ましく思うことさえあった。
それなのに、今の倉橋は、谷口の当時の気苦労を知ってか知らずか、飄々としている。すっかりチームになじんで、あんな過去などなかったかのような顔をしている。
別に、またみんなと険悪になれというのではない。感謝されたいとか、そういうことでもなかった。
俺のあの気苦労はなんだったんだ、とバカバカしく思えるのだ。
そして、この感情をひと言でいうなら―――嫉妬かもしれない。
そう気づいたとき、谷口は自分の子供っぽさに嫌気がさした。
あの秘密を共有していた時間は、気苦労を感じたし、迷惑なのは確かだった。
しかし反面、どこかで楽しんでもいた。
自分だけに心を開いている。そういう人間の存在が、谷口には快感だったのだろう。
それなのに今では、八方美人とは言わないが、誰かれなく懐いている、ふうに見えてしまう。
そんなことにムカつくなんて小学生の女の子じゃあるまいし、と谷口は自分に腹が立った。
そして、不器用な自分にはとてもできそうにない、17歳にして本音と建前を上手く使い分けられるその生き方がうらやましくもあった。
よほど自分に自信がある人間にしかできないと思った。キャプテンとしての器は、おそらく倉橋のほうにあるのだろうとも思った。
そういう嫉妬でもあった。
谷口は実際、自分の情緒は幼いと思っている。
小さい頃から争いを避けてきた谷口は、友達と本気でけんかするような経験をしてこなかった。
意図的に誰かをいじめたり、傷つけたりすることもしたことがない。精神的にも肉体的にも。
ましてや、誰かに強い恋愛感情を持つことなど、この歳になってもまだなかった。
野球にかけてはそれなりの自負があったが、人間的にはまだまだ経験不足で薄っぺらなのだ。
だから、一時的に寄せられた興味や好意を自分だけのものと思ってしまう、そんな幼い勘違いに振りまわされているのだと、谷口は自分をいましめた。
倉橋は、最初から谷口の感情に、ずかずかと踏み込んできた。
穏やかだった谷口の心をかき乱し、今まで知らなかった感情のぶつかりあいを、一気に倉橋が経験させたのだ。
そばにいるとイライラしたり逆に気持ちが安らいだり。遠い存在に思えたり、誰よりも自分を理解してくれる存在に感じたり。
そんな人間は、谷口のまわりには今までなかったのだ。
「…みっともない」
谷口は、自分に対してそう言った。
子供っぽい独占欲と嫉妬が、醜くてみっともないと思った。
―――もっと大人にならないとな。
春の日の昼下がり。昼食が終わると、3年ともなると、進学を考えている級友は休み時間でも教科書に向かっている。
まだ目の前の目標である、高校最後の夏の大会のことしか考えられない谷口にとっては、なんとなく息苦しい空気の教室だった。
その空気の中にいると、もっと先の将来のことを見据えている友人たちとの距離に、焦りといたたまれなさを感じるのだ。自分の居場所がないように思えた。
ふらりと廊下に出て、校庭で遊ぶ生徒たちの姿を窓からぼんやりと眺めていた。ほとんどが1、2年生なのだろう。
春の、眠気を誘うような風にあたっていると、以前からなんとなく胸の中に抱えていたもやもやとしたことを、うっかり考え込んでしまったのだ。
そして窓の桟にもたれながら、谷口はくだんの言葉をつぶやいたのだった。
つぶやいたつもりだったから、誰かに聞かれているとは思わなかった。
「みっともないって、なにが?」
その言葉がかけられるのと同時に、背後から谷口の肩に、さらに大きな肩がおおいかぶさってきた。
「わっ……」
谷口は肩をすくめて振り返った。
「く、倉橋」
「誰か、へんなやつがいるのか?」
倉橋は、谷口の肩ごしに窓の外をのぞき込んだ。谷口は、倉橋に肩を抱かれた格好になった。
胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
一瞬、このままでいようかとも思ったが、次の瞬間には谷口から体を離していた。
「お前、重いんだよ」
「ごめんごめん。で、なにがみっともないって?」
頭を掻きながら言う倉橋が軽薄そうに見えて、余計に谷口はイラッとした。
「お前のこと」
「俺?」
倉橋は、驚いた顔をした。
「…嘘だよ」
谷口は、また窓の外に視線を向けた。
誰かれなく懐くお前にイライラするなんて、言えやしない。
それ以上に自分の幼さに腹が立っているなんて、言われた倉橋は困るだけなのだから。
そう谷口は感情をおさえ込んでいたつもりだったが、イライラした空気は倉橋に伝わってしまっていた。
そんな感情の機微が感じられるほど、もう倉橋は谷口のそばに長くいるのだ。
そむけた谷口の顔を、倉橋はのぞき込んだ。そして、その額を人差し指ではじいた。
「顔が赤いな」
そう倉橋に言われて、ますます顔が熱くなるのを谷口は感じた。
「うるさい」
谷口は倉橋から顔を背けたまま話した。
「お前、なんでこっちの校舎まで来てんだよ」
倉橋のクラスの教室は、谷口とは別の棟にある。
長い渡り廊下でつながっているが、科学や物理で教室移動するのにも、けっこう億劫に感じる距離である。
「え?ああ。お前の顔を見に来た」
「え?」
「うちのクラス、昼休みだっていうのにみんな勉強してんだもん」
倉橋は、呆れたようにわざとらしく肩をすくめて言った。
「理数科は進学組が多いからだろ。まあ、うちも最近はそんな感じだけど」
「教室にいても退屈だからさ。お前はどうせ勉強なんかしてないだろうから、遊びに来た。ほら、これ」
そう言って、倉橋は持っていたふたつのあんパンの片方を谷口に放った。
野球とは離れた場所で見る倉橋の表情は、本当に屈託がなかった。
谷口は、パンをゆっくりかじりながら、まだ窓の外を眺めていた。
「…そのとおりだけどさ。お前だって理数科だろ。進学しないのかよ」
「さあ、どうするかな。俺は文系が全滅だから理数に来ただけだし」
「へえ。俺は進学するんだと思ってた」
倉橋がどこまで本当のことを話しているのかは、谷口にはわからなかった。
卒業して、お互いがどこへ進むのか。その結論を出す日はずっと遠いことのように思っていたが、いつのまにか目前にせまっている。
これからも自分のそばにいてほしい。ということは、谷口にはとても言えない。
ただ、倉橋も自分と同じ気持ちでいてくれたらいいだろうなとは思う。嬉しいと思う。
実際、離れてしまうことになっても、一瞬でもお互いの気持ちが確かめられたなら、この先、将来どこかでまた一緒に野球ができるような気がするのだ。
野球に情熱を持っていても、人に対しては距離を置きがちだった自分が、いつのまにかこんなにも他の人間の存在を欲していることに、谷口自身が驚いていた。
谷口の視線は、いつからか倉橋の目に向けられていた。
他の人間の存在を欲している。これからも自分のそばにいてほしい。
そんなことをぼんやりを考えながら黙って見つめていたので、逆に倉橋のほうがあせらされた。
「…なんて目で見るんだよ、お前」
「えっ?」
倉橋の声に、谷口は目が覚めたようにまばたきをした。そして、自分のほほを2、3回こすった。
「誤解するだろ。俺が」
「誤解?」
「そんな目で見られたらさ。それともなに、お前は誰かれなくそういう感じで見つめるわけ?」
「ちょっと待てよ」
谷口は、自分がおとしめられたようで、カチンときた。
倉橋の両肩をつかんで、軽くゆさぶった。
「変なこと言うな。俺が誰かれなくって…。今だって自分がどんなふうに見てたかなんて知らないし」
倉橋は、はあっとため息をついた。
「自覚なしってわけか」
「何か、俺が悪いことでもしたか?」
誰かれなく懐くのはお前のほうだろう、という言葉はぐっと飲み込んだ。
ムキになる谷口に、倉橋はフッと笑いかけた。
「じゃあ、今のは俺だけに向けた視線って思っていいんだな?」
「……たぶん」
谷口は、倉橋の肩から手を引いた。
倉橋が自分に何を言わせたいのか、谷口にはなんとなくわかった。
でも、こんなかけひきみたいなことは、したくないのだ。
本当はもっと屈託なく生きていたいのに、素直にもなれず、かといって拒むこともできない。
谷口は、倉橋の存在がこんなふうに自分を変えてしまったのだと思っている。
もし意味ありげな視線で倉橋を見てしまっていたのだとしたら、それもきっと奴のせいなのだ。
顔が熱い。
そう感じたとき、額にひんやりした手のひらが押し付けられた。
「お前、まだ顔が赤いぜ。熱もあるみたいだし」
「だ、大丈夫だよ」
「今日の練習は休んだほうがいいんじゃないか?」
「大丈夫だって言ってるだろ」
手のひらの感触の心地よさから逃げるように、谷口はその手を振り払った。
かけひきであっても、こんなやりとりをどこか嬉しく思っている自分。そして、優しさに浸ってしまいそうになる自分が、とても弱い人間に感じられる。
倉橋とは対等でいたい。頼りなく情けない、“みっともない”人間だと思われたくないのだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえてきた。
「じゃあな。ほんと、練習は無理すんなよ」
倉橋は、谷口のほほをそっと指で2回叩いた。そしてまた長い渡り廊下に向かって走っていった。
確かにゆうべから風邪気味ではある。だからこの微熱もそのせいかもしれない。
きっとそうに違いない、と谷口は思い込もうとした。
微熱