「俺が嫌いでなかったら、応えてほしい」
そう言って、相木は谷口の右手をつかんだ。
(あ……)
谷口は、握られた指を相木から、いちどは引き離そうとした。
が、こわばった体には力が入らなかった。
谷口は、この閉じられた空間が、怖いと思った。狭いマンションの一室は、ここに入る前とまったく違って見えた。
「どうして」
「えっ?」
「どうして、俺なんですか」
谷口はうつむいたままで、相木の顔を見ることができなかった。
指を振り払うこともできず、ただじっとしていた。
「お前だからだよ」
前も同じようなことを言われたな、と谷口は思った。
卒業以来、一年以上も音信不通だった相木からの突然の電話。
それは、高校最後の甲子園へのチャンスをつかむべく臨まんとしていた地方予選前という絶妙のタイミングだった。
その再会は、不安と緊張で張り詰めていた谷口の心を解きほぐすものとなった。
あのとき、「なぜ自分に会おうと思ったのか?」という谷口の疑問に、相木は「ただ会いたかったから」と言った。
答えにならない答えではあった。
しかし、谷口もなにも本当の「答え」を求めていたわけではなかった。
理屈抜きで「会いたい」と思われるのは、やはり嬉しかったのだ。
夏が過ぎてからも、時折、谷口は相木と会っていたが、相木の下宿であるマンションで会うのはこれで二度目だった。
そのまま体を引き寄せられ、右耳を優しく噛まれた。谷口は、びくりと体を震わせた。
「あの、相木さん…」
かすれた声しか出ない自分に、谷口は驚いた。かえって相手を煽るようで、これでは抵抗にならないと思った。
事実、相木は谷口の背中にまわした右腕に、ますます力を込めた。
左手は、谷口の右人差し指に絡ませたままだった。
相木が左利きであることに谷口が気づいたのは、相木の卒業まぎわの頃だった。
国立大学を第一志望にしていた相木は最後まで忙しく、しかも努めていた生徒会長の仕事やサッカー部関係の引継ぎも重なり、ゆっくり話す時間も無いまま卒業していった。
そんなあわただしい季節に、ほんの少しだけ谷口は相木と言葉を交わすことがあった。
3月が近いとはいえ、その年はまだ春の訪れが遅いように感じられた。空には、にび色の雲があるばかりだった。
来週の今日は卒業式なのにな、と相木は肩を縮こまらせた。
おととい降った雪が解け、校庭にはいくつものぬかるみができていた。グラウンドを歩くふたりの足もとも悪くさせていた。吹く風もまだ冷たい。
それでも、今日はグラウンドで話したいとどちらとも思っていた。
グラウンドの中央付近に、サッカー部と野球部を隔てるフェンスがある。そこに相木と谷口は立った。
「もし相木さんが野球をやってたら、すごく器用なピッチャーになったと思うんですよ」
「俺が野球? 考えたこともなかったな」
「たとえば、右でも左でも投げられるピッチャーとか」
その谷口の言葉があまりに突拍子もなくて、相木は、ふふっと笑った。
しかし、谷口の大真面目な表情を見ていると、冗談で言っているのではないらしい。
普段はどちらかといえばリアリストで、大きな目標を立てたとしても根拠のないことは言わない。
その谷口が、こんなふうに自分のことを語っている。
一瞬、相木は自分には本当にそんな素質があるんじゃないだろうかと錯覚をおこした。
その錯覚はすぐに醒めたが、次の瞬間には、半ば本気でそんなことを言う谷口のことが可愛らしく、そしていとしくてたまらなくなった。
しかしその気持ちは言葉にはしなかった。
「お前がプロのサッカー選手になるってほうが、よっぽど現実的だよ」
「それはもっとありえませんね」
谷口は笑っていたが、きっぱりと否定した。自分には野球しかないのだという思いが、その短い言葉にはにじんでいた。
そんな軽いやりとりを最後に、相木は谷口から離れた。
谷口に惹かれていく自分が怖かったのだ。
きっとあのとき抱いた気持ちも冷めているはずだ。
ただ、谷口が、この現状に鬱々としている自分を変えるきっかけになるかもしれない。谷口の熱さに触れたい。
そう思って果たした再会だったが、失敗だった、と相木は後悔した。
谷口の、以前と変わらない、むしろもっと強くなった純粋な勝利への情熱は、確かに相木を奮い立たせた。会ってよかった、と思った。
しかし谷口はまったく以前のままではなかった。素直で純粋なだけではない、度量を感じさせる18歳になっていた。
きっと、この一年半近くの間に経験してきたこと、出会ってきた人々が彼を育てたのだろう。
相木はそれは自分のことのように嬉しかった。
しかし、冷めたはずの気持ちもそのままではいられなくなってしまった。―――会ったことに、後悔した。
谷口の体は、相木の右腕にしっかりととらえられたままだった。
相木は、もういちど谷口の右耳に唇を寄せると、耳の内側を舌先でゆっくりと舐めた。
谷口は、一瞬、めまいをおこしたように視界が歪んで見えた。抱かれている肩をすくめた。
「谷口、お前はどんなことを経験してきた? 俺に聞かせてくれよ」
耳元でそう言われ、谷口はまたかすれた声で答えた。
「指の手術を受けてから投げられるようになって、本格的にピッチャーをやるようになって、去年の夏の予選では…準々決勝まで行って、それから」
こんな体勢にされても律儀に答える谷口を、相木は哀れに思った。
が、谷口を解放することはできなかった。今度は、左耳の耳たぶを噛んだ。
「それだけじゃないだろう」
「え…」
倒されそうになる体をなんとか支え、谷口は訊いた。腹筋を鍛えておいてよかった、と頭のすみで変なことを思った。
「どういうことですか」
何を言わせたいんだろう、と谷口は不安になった。
「わからない?」
「……わかりません」
舌先は、谷口のうなじをなぞった。
谷口は、思わず左腕で相木にしがみついてしまった。それは、施された行為への反射的な体の動きかもしれない。
(どうして、俺なんだ……)
相木に体を寄せていながら、恍惚よりも嫌悪感よりも、谷口はそれが疑問だった。
相木は、谷口がある名前を意識的に出さないようにしていると思った。
前は、もっと語りたくて仕方がないというように、無邪気に話の端々に出てきていた倉橋の名が。
その指摘はあえて相木はしなかった。
そのかわりに、相木は絡ませていた谷口の右手人差し指に、唇を寄せた。
「あっ……」
谷口は声を上げて、相木から体を離した。同時に、今まで自由にならなかった指も振りほどいた。
相木は、急激に体が冷えていくのを感じた。
「す、すいません」
「その指は、嫌なのか」
「あの……」
嫌なのか、と問われて改めてその指を見ていたら、谷口の顔がしだいに熱くなってきた。
なぜ無意識とはいえこの指への愛撫を拒んだのか、気づかされたのだ。
野球をしていない自分は想像できない。野球を取り上げられては生きていけないとすら思うほど、野球は谷口の人生そのものだった。
野球を自分に授けてくれた右手、ボールを投げさせてくれるこの指、それこそが自分のすべてだと思っていた。
数日前、倉橋に、今日と同じように右手を握られ、この人差し指や手の甲を長い時間をかけて愛されていた。
その時間は、興奮よりも安らぎを感じていた。ずっとこのままでいたいと思う、優しい時間だった。
倉橋だからこそ、自分の右手をあずけていられたのだ。
(いつのまに俺はこんなに……)
あいつのことを、と自分で驚くほどだった。
倉橋は自分にとって、誰とも違う特別な存在になっていたのだ。
熱い顔を、谷口は自分の両手で包んだ。
「谷口」
不意に名前を呼ばれて顔を上げ、まばたきをすると同時に、谷口は唇を重ねられた。
驚いて、谷口は小さい抵抗じみた声を上げた。
「あ、あの」
「やっぱり、まだ話していないことがあるだろう?」
倉橋とのことを言っているのだろうか。でも、相木さんはそんなこと知らないはずだ。
それに俺はともかく、あいつが俺をどう思っているのかわからないし…と谷口は頭の中でぐるぐるといろんなことを考えた。
その不安そうな表情を見ていると、相木には恋とはまた違った、憐憫の情がわいた。
「言いたくないなら、いいさ。今は」
今度は、性急でないキスをした。
(今は……?)
今は、許してくれたんだろうか。と谷口はその間考えていた。
秋風の吹く駅までの道を、相木と谷口は、黙って歩いた。
甲子園に行く前にも、相木の下宿を訪ねた際にふたりで歩いた道だった。しかし、今日はあの日と風景がまるで違って見えた。
それは季節が変わったからだけではなかった。
谷口は、相木にされたことに驚きはしたが、嫌悪感を抱くことはなかった。
むしろ、自分が残酷なことをしているような気がしていた。
それなのに、相木は谷口のことを責めたりはしなかった。自分を駅まで送ってくれて、最後に改札の向こうで見せた笑顔は、いつもどおりだった。
自分が拒んだことで嫌われてしまえば、そして自分がもう嫌だと思うのなら、もうあの部屋に行くこともないのだろう。
谷口は、電車に揺られて窓の外をながめていると、荒川の流れが視界に入ってきた。
降りる駅が近づいてきたのだ。すでに夕闇が垂れ込めている。
「嫌いになんて、なれないよ…」
谷口は、ぽつりとつぶやいた。
「谷口!」
ホームに降りた谷口が改札に向かっていると、背後から呼ぶ声がした。
その声に、谷口はいつになく緊張した。胸の鼓動が激しくなった。
「…倉橋」
「おんなじ電車に乗ってたんだな。どっか行ってたんだ?」
倉橋は、えんじ色のジャンパーを着て、ポケットに両手を突っ込んでいた。擦り切れたようなジーパンも、谷口には見慣れたものだった。
屈託の無い声に谷口は嬉しくなったが、とっさにうそをついた。
「ああ、その……買い物。おふくろのお遣いでさ。お前は?」
「俺も買い物。新しいアンダーシャツとストッキング買いに行ってたんだ。今朝、いつもの店でセールやるってチラシ、入ってただろ」
そう言ってガサガサと店の袋を見せる倉橋。
「俺、それ見てなかったなあ、行けばよかった」
谷口は、さも残念そうな声音で言った。
「安かったから、まとめていっぱい買ったんだ。お前にも分けてやろうか」
「お前と俺とじゃ、サイズが全然違うだろ」
「ああ、そりゃそうだな」
谷口は、このなにげないやりとりが嬉しくてたまらなかった。
どうして、こんなどうでもいいようなことが大切に思えるのだろう。こんな時間があと数ヶ月で終わってしまうことが明らかだからだろうか。
ははは、と倉橋は笑ったあと、倉橋は谷口の右腕のひじ辺りをつかんで小さく言った。
「これから、うちに来ないか?」
谷口は、数日前の倉橋の部屋での触れ合いを思い出し、心臓がドクンと大きな音を立てるのを感じた。
いらない期待をする自分をいやらしい、と思ってしまった。
今日は、倉橋と過ごしてはいけない気がした。
谷口は、すっと体を引いた。
「いや……今日はやめとく。おふくろが、俺がお遣いから帰ってくるの待ってるし」
「そっか…。そうだな」
倉橋は、軽く拒まれた気まずさをごまかすように、頭を掻いて笑った。
「また、来いよな」
「……うん」
谷口はうつむいた。今、顔を上げれば、赤い顔を見られてしまう。
谷口は、ポンと倉橋の背中をたたくと、
「ごめんな」
とだけ言って、顔を見ないまま改札を走り出ていった。
駅から家までの道のりも、谷口はずっと走り続けた。
自分のしていることが、誰かを裏切ることにはならないのだろうか。
俺はまた電車に乗ってあの部屋に行くことがあるのだろうか。
行くことがあるとしたら、次は何かに答えを出さなければならないのだろうか。
そんな疑問を、自分自身にぶつけながら、走っていた。
夕闇はすでに、深く深く夜に呑み込まれていた。明日は、雨でも降りそうな生暖かさだった。
閉じた部屋