「お前、俺を代わりにするつもりか?」
「代わり?」
谷口から思いがけない言葉を聞いた倉橋は、本気でその意味がわからなかった。
倉橋の表情を見た谷口は、顔を赤くして視線をそらした。
倉橋は、自分がよほど軽薄で軟派な男と思われているらしく、それが少し情けなかった。
しかし、倉橋は谷口に対して過去の恋愛について詳しく話したことはない。むしろ倉橋にとっては話題にしたくもなかった。
つきあったことがあるのかと訊かれれば、「そうだ」と普通に答える程度だ。
そのほかに谷口が知っているのは、周囲からの倉橋の評判ということになる。
まわりから聞こえる声というのは、えてして大げさになるものだ。
だからきっと、彼女の存在が切れたことがないとか、ともすればとっかえひっかえしているとか、事実とはかけ離れて谷口の耳に入っているのだろう、と倉橋はなんとなく感じていた。
しかし、訊かれてもいないことをわざわざふたりの間にもちだすこともない。
少なくとも谷口は、自分と一緒にいることを嫌がっているようには見えなかった。今も、以前も。
墨高野球部を支えるバッテリーの相棒として信頼されていることは、口には出さずとも感じられる。
それでじゅうぶんなはずだった。
男に対してこういう感情を持ったのは初めてのことだったから、はじめは、自分の気持ちに嫌悪感を持った。
自分の内面にふつふつと湧き出る違和感に気づいたのは、谷口と一緒にいて、楽しさよりも嬉しさを感じたときだった。
顔を見ても声を聞いても嬉しい。毎日会っているのに、もっともっと一緒にいたいと思う。
そして谷口が誰かのことを親しそうに話すとき、自分でも驚くほど嫌味を吐いてしまう。
そんな時も、谷口は倉橋を拒否するわけでなく、ただ笑っているだけだった。
恋愛経験に比例して精神的にも練れている、ということはない。
倉橋は、谷口のほうがよほど大人だと思うことがあった。
谷口は生来の包容力を持っているのか、ときに感情的になる倉橋を穏やかな空気で包んでしまう。
倉橋はそういうつかみどころのない谷口の不思議な力を、「天然だ」と呼んでいた。
それは、そんな谷口の力に惹かれていく自分への精一杯のけん制だったのかもしれない。
それでも倉橋は、野球とは違って自分の気持ちをコントロールすることができなかった。
その手に触れたい、体ごと抱きしめたい。
そういう欲求に嫌悪感を感じつつも、倉橋には止められなかった。
いままでの例なら、気持ちが高まって体のつながりを求めるのは自然な流れだったからだ。
ただ、どうなんだ。谷口は男で、仲間で友達で、自分のチームのキャプテンなんだぞ、といままでとは勝手が何もかも違っていて、さすがに倉橋も戸惑った。
倉橋の部屋で過ごすとき、新たな体制となった野球部をどう育てていくのか、不安要素が尽きない船出について話すこともあったし、野球から離れた他愛ない話をすることもあった。
とはいっても、谷口と倉橋から野球を切り離すことはできなかったから、違う話をしていても、結局は野球に行き着くというのが常だった。
今日もそんないつもと変わりない日常の続き、のはずだった。
倉橋を今日の行動に移させたのは、ちょうど二日前、昼休みの廊下で谷口に投げかけられた視線がきっかけかもしれない。
何かを欲するような、微かな熱を帯びた視線は、もしかしたら谷口も自分と同じ気持ちかもしれない、という期待を倉橋に持たせてしまった。
そうでなければ、「誰かれなく」とは言いたくないが、ほんとに天然で嫌な男だ、と倉橋は心の中で毒づいた。
それからのお互いの間に流れる空気は、かすかではあっても、以前とは確かに変わっていた。
それは周りにはわからない、本人たちですら気づかない変化だった。
本当は、気づかないふりをしていたかったのかもしれないが。
倉橋は、谷口の右手を握った。
驚かせてやろう。どんな反応をするのか見てみたい。と思って起こした行動のつもりだった。
しかし、谷口は伏せた視線を窓のほうへ流しただけで、黙っていた。
そのまま倉橋は谷口を引き寄せた。
谷口は、少しだけ意味をなさないほどの抵抗をしたが、すぐに体を倉橋の胸におさめてしまった。
その抵抗が本気でないことを感じて、倉橋の欲はますます増長した。
(嫌がらなかったから、というのは自分にとって都合のいい口実…なんだろうな)
華奢に見えて、腰は意外とがっしりとしていた。
抱いた腰は、もちろん女の腰周りの肉付きとは違って薄い皮膚の下の筋肉を感じさせた。
そりゃあ、中学時代、打率5割を誇った男なんだから。折れそうな腰じゃありえないもんな。
そんなことを倉橋は一瞬の間に考えた。
それでも谷口の体の厚みは、倉橋の半分ほどしかない。
谷口は、強く目を瞑っていた。そんな谷口を、倉橋はかすかに哀れんだ。
それでも谷口を解放することはなかった。
いくら谷口が天然だ鈍感だといっても、今、自分がされてることの意味がわからないほどじゃないだろう。
だからこうして谷口が自分から離れずにいるのは、谷口の意志なんだ。
そう倉橋は自分に言い聞かせていた。
今まで踏み込めなかった領域を侵してしまった。しかし谷口は拒んでいない。
今は谷口の体を抱きしめているだけだが、触れあえているこの優しい時間に倉橋は酔っていた。
しかし谷口の言葉は、そんな夢うつつの時間を止めてしまった。
「お前、俺を代わりにするつもりか?」
「代わり?」
腕の中の谷口の顔を、倉橋はのぞき込んだ。谷口は赤い顔をして黙っている。
「何の代わりだっていうんだ」
「何のって…誰か、だよ」
「だから誰の」
「知らないよ。お前がわかってるんじゃないのか」
「わかんねえよ」
なんだこのやりとり…と思いながらも、倉橋は谷口の体を離すことはしなかった。
谷口も逃げようとはしなかった。
「前は確かにいた。でもな、今は」
倉橋の腕には、さらに力が入った。谷口もその力に応えるように抱き返してきた。
しかしそれは、倉橋の気のせいかもしれなかった。
「誰かの代わりにこんなことは絶対しない。お前は俺のただひとりの人間だ」―――と言いたかったが、重すぎる言葉のような気がして声には出せなかった。
しかし何か言わないと、何も伝わらないまま谷口が離れていきそうだった。
口の中は乾いていた。
「俺は…」
「わかったよ。いいから、もう黙れ」
そう言うと、谷口は自分の表情を見せたくないかのように、倉橋の胸に顔を押し付けた。
ああ、もう。なんなんだ。
これが女相手なら簡単なのに。
「わかった」って何がわかったんだ。どこまでわかった、俺のことが。
倉橋は本気でどうしらたいいのかわからなかった。こんなことは初めてだった。
自分がこんなに不器用だとは思ってもみなかったのだ。
こういうところが軟派と思われてもしかたがないのかもしれないが、こんなにも相手に近づくために手順を踏むなんて、自分の中ではなかったことなのだ。
気持ちを探りながら、怖がらせないように、嫌われないように、恐る恐る相手の領域に踏み込んでいく。
そんな手順を踏んでいても、自分だって怖くもあるのだ。
こんな自分に幻滅しないだろうか。これからもずっとつながっていられるのなら、友達の距離を縮めるべきじゃないのだろうか。
倉橋の葛藤は、今も消えてはいない。
そんな探りを入れてようやく抱きしめた谷口は、おとなしく倉橋の腕におさまっている。
それなのに、「誰かの代わりなのか」などと冷めたことを言う。倉橋は、違う意味で谷口が怖くなった。
手を出せるようで出せない。今もこうして抱いているだけだ。
こんなにおとなしくしているなんて前の自分ならありえない、と倉橋は思った。
谷口の額に唇を寄せようとして、倉橋は指先を谷口の頬にすべらせた。
すると倉橋は、指に触れた谷口の頬がかすかに熱を持っていることに気がついた。
「…お前、まだ熱があるんじゃないか」
「え」
そういえば、谷口の声は少し荒れていた。
「ゆうべも風邪薬は飲んだんだけどな」
「ほんとに風邪だったのか」
谷口は小さくうなずくと、少しつらそうに、また倉橋に体重をかけてきた。
倉橋は、谷口の目がやけに潤んだように見えたのも、頬が紅潮していたのも、抗うことなく自分に体をあずけてきたのも、この熱のせいなのか……
と、ホッとしたような、落胆したような複雑な気持ちになった。
谷口相手だと、やっぱり天然なのか転がされているのかわからなくなる。
(女なんかより、よっぽどたちが悪い)
まあ今日は熱のせいにしておくか、と谷口の熱っぽい体を抱きながら、倉橋は胸の中でそんな毒を吐いた。
微熱のあとさき