自分のしていることが、誰かを裏切ることにはならないのだろうか。
俺はまた電車に乗ってあの部屋に行くことがあるのだろうか。
行くことがあるとしたら、次は何かに答えを出さなければならないのだろうか。

そう谷口が自問した日からほどなく、電話があった。
また会いたい、と。

以前、倉橋に
「お前、あの人のことが好きなのか?」
と訊かれた。
好きかと訊かれればそのとおりで、ごく当たり前のことだった。しかし、こういう関係になりたいという意味あいではなかった。
尊敬の域を出ることはなかったのだ。以前も、今でも。




相木は、谷口にキスをしながら、シャツの下から谷口の腹に触れた。
谷口は驚いて、少し体を引いた。手のひらから伝わる相木の体温が、ひどく熱く感じたからだ。
しかし相木は、谷口を逃がさなかった。
「だめだよ」
耳元でそう言うと、相木は谷口の耳を噛んだ。

相木は、谷口がこういう状況に置かれるのが初めてではないのだと悟った。
慣れている、とは思わなかったが、以前の何も知らない谷口ではないことが、自分の愛撫を受ける様子でわかった。
相木は、無意識に谷口の耳を強く噛んでいた。
「痛っ……」
谷口が小さくそう言うと、今度は、労わるように耳の内側を舌先で撫でた。
本当はそんなに痛くはなかった。ただ、谷口は小さな抵抗をしたかったのだ。



谷口は、サッカー部のことを思い出していた。

ほんの短い時間のことだったが、それは谷口にとってあとにも先にも得がたい経験をさせてくれた。
谷口は、相木のキャプテンとしての度量に惹かれた。
部員に厳しいけれど、自分にはもっと厳しい。そういう姿勢がまさに谷口の目指すものであり、理想だったからだ。谷口の内面にも少なからず影響を与えた。
しかも相木は自分とは違って生来の才能にも恵まれているように見えた。しかし、決してそれにおごることはなく努力を惜しまない。
そんな相木に見込まれたということは、自分にも多少なりともサッカーの素質があるのだろうと谷口に思わせてくれた。
こんな素人の自分に、貴重な練習時間を割いてくれる相木の期待に、なんとか応えたいとも思った。この人についていくしかない、と。

相木は、通常の朝練が始まる前に、荒川の堤防をジョギングしていた。
朝練が始まるころにはジョギングを終えていたので、サッカー部員でもそれを知らない者も多い。
谷口がそれを知ったのは、サッカー部に入る前だった。
その頃、野球ができないということに触れないよう、周囲は谷口に気を使っていた。
それが谷口はわかっていたから、表面上は淡々としていた。
悟ったように、「できないんだからしょうがない」といった態度で運命を受け入れているように見えた。
そんな谷口の様子からは、事情を知る友人や先輩後輩、両親でさえ、谷口の心の底を知ることはできなかった。
野球をすることもかなわず、かといって他のことをしたいとも思えない。自分の居場所を見つけられない。
谷口の内面は、悟っているどころか、自棄な気持ちで一杯だったのだ。それをどこぶつけていいかわからなかった。
そんな毎日だったが、とにかく体を動かしていたかった。
それで、誰もいない堤防を走ろうと思ったのだ。

早起きのジョガーでさえもさすがにまだ走らないであろうという時間に、走った。
荒川の風景は野球部のころのことも思い出させてしまうけれど、夜が明ける前の薄暗い中ではその風景も見えない。
それに、しばらく走っているとだんだん頭が空っぽになってきて、グズグズとくさっている自分を忘れることができるのだ。

ある日、朝焼けの色が特に赤く見えた。赤い色はきれいだったが、どこか暗いかげりがあった。
谷口は空を見上げながら、
「雨が降るのかな……」
とぼんやり考えながら走っていたので、誰かがこちらに向かって走ってくるのを認めることができなかった。
すれ違う瞬間にやっと、背の高い人の気配に気づいた。
その人とはそれから何度かジョギングですれ違った。それは決まって水曜と金曜だった。
谷口が、その人がよくサッカー部のグラウンドで見る相木であることに気がついたのは、ジョギングを始めて1ヶ月経った頃だった。

サッカー部に慣れてきたある日の練習終わりに、谷口は相木に話してみた。
相木はザブザブと顔を洗っている。
「キャプテン、朝練前に荒川を走ってますよね」
ん?という表情で濡れた顔を上げ、相木は谷口を振り返った。谷口はタオルを差し出した。
相木は、タオルを受け取り顔を拭いた。
「毎日じゃないけどな。他の日は、別のコースを走ってるから」
「知ってます。水曜日と金曜日ですよね」
「そうか、お前も走ってたもんな。もう走ってないのか?」
「す、すいません」
谷口はサッカー部に入ってからは、早朝のジョギングの時間をサッカーの自主トレに使うことにしていたのだ。
相木が笑って谷口にタオルを返し、いいさ、と言った。そして、
「お前がサボってるとは思わないよ。お前はお前なりに考えて、自分で練習してるっていうのがわかるから」
と言って、ポン、と手のひらを谷口の頭に載せた。
そんなことを自分から言ったこともない。相木だけにではなく、誰にも言っていないのだ。それなのに自分をこうまで認めて信用してくれることが、谷口は嬉しかった。
そしてその信用に応えうるだけの結果を出したいと思った。自分のためであるのはもちろん、相木のためにも、そう思った。


そんなことを、この一瞬の間に思い出した。

「相木さん」
「何だ…?」
相木の大きな手が、シャツの下から谷口のわき腹を撫でている。
「今でも、ジョギングしてるんですか?」
「…荒川をか」
「ええ」
「走ってるよ」
しかしもう、高校生の頃のような情熱や目的を持って走っているのではない。
おそらく、無為な毎日を忘れたかったかつての谷口のような気持ちで、ただ体を動かしたいだけなのだろう。
「…お前、細いな」
そう言って相木が、谷口の腰を引き寄せようとした。
谷口は、体を硬くした。



谷口は、相木に感謝している。
周りが腫れ物に触るように自分に接していたあの頃、自分にも周囲にもイライラしていた。
野球への未練は断てず、かといって自分から何かを始めようともしない。
そんな自分を、強引ではあったが、新しい世界へと導いてくれたのが相木だった。
結果的に、野球に戻るきっかけを作ってくれたのも相木なのだ。
あの時相木が腕を引っ張ってくれなければ、いつまでも自分は同じところに立ち止まっているだけだった。
感謝してもし足りない。
しかし、それが愛情に応えられる理由になるかというと、違った。

サッカーには、「自分のために力を貸してくれた人の気持ちに応えたい」という動機があった。それこそが、サッカーをやってみよう、やるなら中途半端にはできない、というモチベーションになった。
自分を見込んで、信用してくれた相木のため。自分が入ることによってレギュラーを外されてしまう部員のため。閉じこもっていた自分を心配していた両親や、周りの人のため。
しかしそこには、「自分がサッカーをやりたい」、という気持ちは自分をどんなにだましても込められなかったのだ。

野球に対しては、とにかく自分がやりたいからやる、という動機しかない。
どうしてやりたいのか、なんて理由はない。考えたこともない。
野球を通して、離れがたいと思う人間にも出会ったが、たとえその人間―――倉橋が自分から去っていっても、野球をやめることはないと断言できる。
だから、倉橋にも自分から離れないでほしいとは言えないし、倉橋が自分よりももっと技術を高めあえる選手に出会って、そして選んだとしても認められると思った。
恋愛感情のように、人間として相手を求める気持ちとはまた別のことだ。
冷たいようでも、野球に情は絡めたくない、絡められないというのが、谷口にとってはごく自然なことだった。




相木は、また谷口にキスをした。今度は、触れるだけでない、深く長いキスだった。
キスの間に、相木はその手を谷口の背中に回した。
慣れた指先と、上あごに触れる感触に翻弄されそうになりながらも、谷口は腕を伸ばして相木から体を離した。
「すいません…」

谷口はもう、以前のように無邪気に相木の目を見ることはできなかった。無邪気を装うことも無理だった。
視線を落として、ただ黙っているしかなかった。確かに自分は拒否をしたのだから。
気のあるふりをしたつもりはなかった、というのは嘘になるだろう。
いくら谷口が恋愛にうといといっても、こうまで何度も抱きしめられたりくちづけされたりと、愛情を示されていて、しかもそれを何度も受け入れているのだ。
愛される自分にうぬぼれていたと取られても仕方がない。
しかし拒まなかったのは、相手が相木だったからだ。
尊敬する人から、愛情を向けられて嫌とは決して思えなかったし、できるだけそれに応えたいと思ったのもまた、偽りのない自分の気持ちだった。
しかしその気持ちは、自分から求めるものとは違った。
自分から求める人が他にいて、誰よりもそばにいたいと思っている。そして自分はその人―――倉橋から求められることも望んでいるのだ。

好きで、そして尊敬する人から嫌われてしまうのは辛いけれど、もう逃げられないと悟った。


「谷口、俺は」
言葉を続けようとしたが、目の前でうなだれる谷口を見ていたらそれもできなくなった。
相木は、深入りしたことに後悔した。しかし、どちらにしても気持ちが抑えられなくなってしまっただろう。
そしていつかはこうなることも、わかっていた気がする。谷口が自分を先輩以上の気持ちで応えることはないだろうと。
谷口の心は、あのキャッチャーの存在が占めている。
以前は、無邪気に彼のことを憎まれ口を交えながらも語っていた。それがいつしか自分の前では話題に出さなくなった。
抱きしめたときの反応は、過去に誰かに同じことをされたことを匂わせた。
そういうことなんだろう、と自分を納得させるしかなかった。

自分はどこまで諦めがいいのか。よく言えば大人で、本当は臆病なだけだと思った。
これ以上そばにいたら、谷口のことも、あの彼のことも口汚く罵ってしまいそうだった。
そんなにあいつがいいか、と下卑た捨て台詞のひとつも投げつけてしまう。
振られたのだから傷つけたい、嫌われてもいいと思えばそうもするだろうが、やはり谷口は可愛い後輩で、今も確かに好きなのだ。

谷口が出て行った部屋はもう夕闇が垂れ込めていた。
相木は、窓の外を見ることもなくカーテンを閉めた。





谷口は、過去を悔やまないたちだと自分で思っていた。
事実、指を折ってしまっても、あのファウルボールを追わなければ、と自分の行動を否定することはなかった。
しかし今だけは、昔に帰りたいと思った。
ただそばにいて楽しいと思えた過去に戻りたいと思った。
嫌いで離れるわけではないが、もうそばにはいられない。そう判断したのは他でもない自分なのだ。


そういえば今朝も朝焼けだった。雨は降らなかったが、一日じゅう曇っていて空には星も見えなかった。
いつも、相木の下宿から駅までは一緒に歩いてくれた。それももうない。
ひとりで歩く道のりは、ひどく長く思えた。
家路へ向かう電車の窓からは、荒川が見えてきた。
といっても、暮れた視界に、黒く広い帯のように横たわる水面が、鉄橋を走る車のライトをちらちらと跳ね返しているのが見えるだけだった。

駅を出た谷口は、家とは反対方向に歩いた。足は、荒川へ向かっていた。
日が暮れても、谷口は家に帰る気持ちにならなかった。このまま行けるところまで朝まで歩き続けようかと思った。
堤防を下り、河川敷を歩いた。
今日は水曜でも金曜でもない。そして朝焼けが見える時間にはまだ遠い。
だから、あの人とすれ違うこともない。
今度、一緒に行こうと言ってくれた約束が果たされることもない。
谷口は生まれて初めて、胸が痛くて泣いた。
走ることも歩くこともできず、その場にしゃがみこんで泣いた。
堤防を歩く人は、その暗闇の中の谷口に目を留めることはなく通り過ぎていった。
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赤い空