思うように体が動かない。イメージどおりの投球ができない。
そう谷口が感じたのは、東実戦を制した日―――秋季大会ブロック予選に優勝してからしばらく経った頃だった。
疲れているのか?と最初は思った。
というか、自分以外にはこの違和感に誰も気づいてはいない。おそらく、常に自分の球を受けている倉橋でさえもそうだろう、と谷口は思っていた。
3年生が引退し、本格的に谷口の新体制が固まり、誰への遠慮もなく力を発揮できる条件が整ったというのに。

忘れていたと思っていた人に会ってしまったからだろうか、と谷口は自分なりに考えていた。
佐野の存在は世間的にも大きかったので、彼の中学卒業後の進路やその後の活躍は、話には聞いていた。
しかし、2度にわたるあれほどの戦いをしたとはいえ、自分の指のことだったり、サッカーに転向してみたり、下級生キャプテンを務めたりと、自分のことで一杯の高校生活だったのだ。
過去に戦った相手のことなど思い出している暇はなかった。目の前の敵をどう倒すかしか考えられなかったのだ。
そして、そのうち再び相対することもあるだろうが、自分はもう中学生の頃とは違うのだ。実績も積んでいる。
その自負があったから、対戦するとしてもさほどの動揺はないはずだ、と思っていた。それなのに、である。

佐野が、自分にとってこんなに大きな存在だったのか、と思い知らされた。
好きとか嫌いとかではなく、自分の野球に大きな影響を与えているのだと思った。
しかし、佐野のほうは自分のことなど歯牙にも掛けていないに違いないのだ。
たとえ試合に負けたとしても、「自分は」負けていないと思っていそうだった。
それがやけに悔しかった。
いつか、佐野が自分を意識するようになって、むきになって本気で倒したいと思うようにならないと、自分は佐野を乗り越えられないと思った。
彼にそうさせるにはどうしたらいいだろう?
谷口は、部室のすみでグローブを磨きながら、そんなことを考える日が続いた。



練習を終えて、最後に部室の鍵をかけて終わりという頃に、谷口は、倉橋に佐野のことを訊いてみた。
倉橋は佐野とリトルリーグでバッテリーを組んでいた、ということを以前に聞かされていたからだ。
「佐野ねえ…。生意気な奴だったっていう記憶しかないな」
「あのなあ、真面目に答えろよ」
「生意気だったのはほんとだぜ」
谷口は倉橋の目の前で、はーっとわざとらしくため息をついて、背中を向けた。
倉橋は笑って谷口の肩に手を置き、自分のほうに体を向けさせた。
「なんでそんなこと訊きたいんだよ。東実とやった決勝はもう終わっただろ」
「佐野に勝ちたいんだよ」
「勝ったじゃん」
「勝ってないよ。それにこれで東実とやるのは最後じゃない。来年の夏だってある」
倉橋は少し考えて、ああ、と言った。
「確かに、奴が投げてからは点が取れなかったな。“逃げ勝った”ってやつだな」
「そうだよ」
「でも、逃げ勝ちも勝ちには違いないだろ」
「佐野から点を取ることができなかった。それが俺は、嫌だったんだ」
倉橋は、いつになく”嫌だ”と感情的な言葉を使う谷口を、いぶかしげに見た。
「お前、この頃黙って何か考えてると思ったら、そんなことだったのか」
「悪いか」
谷口は、倉橋に気持ちを吐き出しながら、佐野にはコンプレックスともいえる感情を持っているのだと気づいた。
佐野のことを考えると、やけに身構えてしまうような緊張感がある。
倉橋は、普段は冷静な谷口をこうまで感情的にさせる佐野に、少なからず嫉妬した。

「でも、あいつは天才だからな」
「え?」
「いや、練習も人一倍やってたけど、天性のものがあるから、できない人間…つうか普通の人間の気持ちがよくわからない奴なんだ」
「だから?」
「お前がそんなにむきになったって奴は気にしないし、そういう気持ちも理解できないと思うぜ」
天才には、はなから相手にされないってことか。谷口は、絶句した。
「だから、気にするなよ。試合に勝てばいいんだから」
「気にする。そういう問題じゃない」
「お前もしつこいな」
「墨二の仲間だったらこの気持ちはわかってくれる。お前にわかんなくて当然だよ」
その言葉に、倉橋はイラッとした。
谷口はまた背を向けて、部室を出て行こうとした。倉橋は、その背中に投げかけた。
「ああそうかよ。俺だって、どうしたって勝てなかった墨二のピッチャーには、いまだにコンプレックスだらけなんだけど」
え?という表情で、谷口は倉橋を振り返った。

「お前は俺をはっきりとは覚えていなかったよな。ここで初めて会ったとき」
確かに、しばらく思い出せないでいた。準決勝を戦った相手だというのに。延長戦まで持ち込まれた、確かに手ごわい相手だったのに。
「俺はお前のつらを忘れられずにいたのに、お前はそうじゃなかったもんな。結構ショックだったんだぜ」
「……ごめん」
心底申し訳なさそうな谷口の顔が可笑しくて、倉橋は、吹き出した。
「今更あやまられてもさ。まあ、俺がそれだけの印象しか残せない選手だったからなんだけど」
「そんなことない」
「いいんだ。でも、佐野はまたそれとは違う次元にいるような男だからな。あんまり、誰かに勝ちたいとかそういう目的で投げてないんじゃないか」
「そんなんで野球やってる人間、いるか?」
「でも、あいつの涼しい顔見てたら、そうも思えるぜ」
倉橋は、笑ってこの話を終わらせようとした。

そんな野球選手、ほんとにいるものだろうか。それが天才の考える世界なのかもしれないが、谷口には信じられなかった。
「それでも俺は、佐野に勝ちたい」
「わかったよ。俺も協力する。でも」
倉橋は、谷口の両肩に手を置いて、正面を向かせた。
「そればっかり考えてたら、お前の野球を見失うぜ。お前は自分の野球をやって、それで結果として佐野に勝てばいいんだろ。それなら協力する。けど、奴に打ち勝ってもチームが負けるなんてことになったら、俺はお前についていけないからな」
谷口は、はっとした。
敵は、佐野だけではないのだ。佐野と戦う以前に敗退してしまっては、どうしようもない。
自分の狭いこだわりに、野球部を巻き込むわけにはいかないのだ。
谷口は、思い込んだら暴走しがちな自分をいさめてくれる、冷静な倉橋の言葉に感謝した。
「でも確かに、奴の涼しい顔にはむかつく。一回へこましてやりたいとは思うな」
倉橋が意地悪くそう言うと、谷口はあわてた。


倉橋が谷口に言ったことは、半分本当で半分はおそらく嘘だった。倉橋はそう自覚している。
「勝ちたい」と思わずに野球する選手なんていない。
きっと佐野は、本当に負けるのが嫌いな男なのだ。負けたくないから誰よりも練習する。加えて天賦のセンスがある。だから負けない。
“普通の人間の気持ちがわからない”というのは、自分が結果を出せるだけの努力をしているからこそで、結果が出せない凡人のことを単に“努力してない人間”としか見られないのだ。
センスの良さは、結果が一番早く出る効率のいい方法も瞬時に嗅ぎ分けてしまう。どんなに監督やコーチに言われても、自分がそれが効果的だと思わなければ却下する。
そういう態度は小学生の頃から変わらない。生意気と思われても当然だったが、そう思われることなどどうでもいい。
ただそういうことなのだろう。
しかし倉橋は、佐野が谷口の率いる墨二や墨高に敗れたことを気にも掛けていないとは決して思わなかった。
むしろ生まれて初めての挫折として、それこそ彼のコンプレックスになっているのではないか。
そういう意味では、佐野は谷口を意識しているだろうし、これからも続くふたりの野球人生で、お互いが生涯のライバルともなりうる。
倉橋は、そういう関係もうらやましいと思った。



「お前、青葉にずっといたらどうなってたんだろうな」
「え?…ああ。そんなことはありえないけど」
考えたことは、ある。無理をすれば転校せずにいられる選択もあった。
しかし経済的なこととは別にして、とにかくあの自分の居場所のない毎日から逃げたかったのだ。
自分が居ても居なくても誰も困らない。大好きな野球が大嫌いになってしまいそうな、劣等感にさいなまされる日々。
「あの監督はともかく、お前の才能を見抜くコーチが一人でもいたら、違ってたんだろうな」
「あそこはそういう、“発掘されて磨かれる”みたいな人間はいらないんだ。もともと光ってなきゃ拾われることすらない」
吐き捨てるような谷口の物言いに、倉橋は、ぎょっとした。

でももし、と谷口は思う。
青葉にいた頃、俺にもっと力があって、俺が佐野の視線の端にでもひっかかるような選手だったら、佐野と対等に野球のことを話せていたなら、と。
この気持ちは一方的な対抗心だけれど、どうしても抑えられない憧れであることも否定できなかった。それははっきりと自覚していた。
その気持ちは、倉橋には言わなかった。
「でも、やっぱり墨二に来てよかったと思う。でなきゃ墨高で野球してなかっただろうし、そしたら…」
「俺にも会えなかっただろ」
こいつ自分で言うか、と呆れたが、それは谷口が言おうとしてのどの奥に閉じ込めた言葉だったのだ。
確かに、こうして話すことはなかっただろう。深いところでいつまでもつながっていたいと思える人間に出会えることもなかったかもしれない。
しかし、好敵手にはなっていたに違いない。きっと中学のときよりもずっと手ごわく、谷口を苦しめる相手になっていただろう。
そういう倉橋にも会ってみたかったと思った。
しかしこれから別々の道を歩くことになって、いつか、谷口の勝利を阻む日が来るかもしれない。
だから、こうして同じ目標を目指す仲間として過ごせるこの時間のほうが、谷口には貴重に思えた。

「お前、『そうだ』って言ってほしいのかよ」
「俺は、お前が今の選択をしてよかったって思ってるからさ。お前のためにも」
どこまでうぬぼれられるんだ、と思いながら、谷口は逆に訊きかえした。
「お前はどうなの。俺と……会えて」
自分で訊いてから、谷口は恥ずかしくなった。うぬぼれているのはどっちなのかと。
しかし倉橋は躊躇することなく答えた。
「だから言っただろ。お前がこの選択をしてよかったって。俺は、お前と話したかったんだ。一緒に野球がしたかった。お前に覚えられてなくてもな」
真顔でそう言うので、谷口は茶化すタイミングを失った。
「……ありがと」
ただそう言って、谷口は顔を見られないようにうつむいたまま、帽子を目深にかぶった。


また以前のように、忘れてしまうほど日々の練習に忙しくしていれば、調子は取り戻せる。
しかしこの胸の奥の佐野へのわだかまりのような―――嫉妬と憧憬が入り混じった感情は、ずっと抱えていることになるのだろう。
これは倉橋に話しても消えるものではないことはわかっていた。
だからこの気持ちは、自分ひとりで抱えていこうと、谷口は決めた。
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