雨は降らなかったが、なまぬるい空気の夜だった。
谷口は、荒川の堤防をしばらくぼんやりと歩いたあと、帰り道に足を向けた。
途中、公園の水道で顔を洗った。蛍光灯の切れかけた公園の外灯が、途切れ途切れに灯る。
泣きはらした顔を両親に悟られないように、何度も何度も洗った。

夜の10時を過ぎた頃、谷口がようやく家に戻ると、母親が眠そうな顔で襖を開けた。
「ずいぶん遅かったじゃないか。先輩、ご迷惑じゃなかっただろうね?」
「……うん」
母親はいぶかしげな顔をしたが、すぐに襖を閉めてしまった。
が、ほどなくまた顔を出した。
「倉橋君から電話があったよ。遅くなるかも知れないって言ったんだけどね、遅くなってもいいから電話くれってさ」
「倉橋が?」
今、一番声を聞きたくて、でも聞きたくない。そんな複雑な思いを抱かせる名前だった。
今日はもう眠いし、なんだか疲れた。電話は明日でもいい。どうせあいつに急ぐ用事なんかあるわけない。くだらない冗談を聞かせるだけなんだ。
それよりも、今声を聞いてしまったら、自分が何を口走るかわからなくて、怖い。
そう思いながらも、谷口は、ダイヤルを回していた。


「……谷口?」
「うん。なんか用だった?」
「別に用はないけど」
用もないのに夜遅くに電話って、お前は俺のなんなんだ、と谷口はイラッとした。それでなくても、今日は気持ちが昂ぶっている。
「用がなきゃ切るぞ」
夜だから声をひそめたいのに、この震えそうな声を悟られないように、わざと声を大きくせざるを得なかった。
そんな谷口の不自然に張った声とは反対に、倉橋は電話の向こうで、静かにつぶやいた。
「会おうよ」
谷口は、その声に落ちそうになった。こんなタイミングに、ずるいと思った。
「……今からかよ」
「今から。だめか?」
谷口は拒めなかった。拒むくらいなら、最初から電話すらしなければいいのだから。
本当は、顔が見たくてたまらなかった。

谷口は、そっと玄関の引き戸を開け、外に出た。
曇った空には、月も見えない。夜空は黒じゃなくて、くすんだ青い色をしているのだと思った。
しじまの中、谷口は外灯の放つ淡い光だけを見ていた。
玄関先に立っていると、西の方角から歩いてくる背の高い影が見えた。
顔が見えるほど近づいてくると、倉橋は、右手を小さく上げた。
「よう」
その顔を見たとたん、谷口の中でなにかがぷつりと切れてしまった。
頭の奥からこみ上げてくるような感覚に襲われた。泣きたくなるような気持ちに似ているかもしれない。
谷口は倉橋の右手首をつかむと、外灯の光が届かない陰へとうながした。
「なに…」
倉橋が何かを言う前に、谷口は行動を起こしていた。


谷口は、倉橋に体をあずけると両肩をつかみ、キスをした。
倉橋は、谷口から求められたことに驚いたが、それに応えるように腕を腰にまわして、しっかり体を抱いた。
外灯からはずれた闇は、二人の姿を隠していた。しばらくして、谷口は倉橋から体を離した。
顔が見たい、と倉橋は思ったが、この闇の中ではそれもかなわない。そのかわりに、離れていこうとする谷口を捉えた。
「離せよ」
「今のは、どういうつもりだったんだ?」
そう言うのと同時に、今度は倉橋から顔を寄せた。
さっきとは違う、深いキスだった。「離せ」と言った谷口だったが、それを拒むでもなかった。
「谷口…」
倉橋は、何度も唇を離してはまた押し付ける、途切れのないキスを続けた。その間に、恨み言のように言った。
「俺にはお前がわからないよ」
「………」
「お前は、俺がこういうことには慣れてて、もしかしたら傷つくこともないと思ってるのかもしれないけど」
「そんなことは思わない」
「じゃあ、なんなんだ。冗談か?」
谷口はまた、黙り込む。倉橋は、あの人との間に何かがあったのだと悟った。しかし、その真実を聞くのはためらわれた。
キスの間にも、倉橋の腕は、優しく谷口の背中を撫でている。
憎らしくて愛しいという気持ちとは、こういうものかと倉橋は思った。
谷口は、頬を倉橋の胸に押しつけた。
「ごめん。明日には、またいつもどおりの俺になるから……今だけ」
「今だけ?…バカにするな」
表情は見えなかったが、その声音は谷口の身を硬くさせた。
「今だけなんて、俺はごめんだ。なんでお前の都合のいいときだけ、優しくならなきゃならない?俺はお前が思うほど、大人でも慣れてもいないんだ」
そう言いながらも、体を離そうとする谷口をまた引き寄せた。
「逃げるなよ」


谷口の体を抱きながら、倉橋は自己嫌悪した。こんなことを言うつもりはなかった。いつもの自分なら、のどの奥にとどめていられたはずなのに、と言ってしまってから後悔した。
しかし、きっと谷口は、言ったとおり明日の朝にはこんなことなどなかったかのような顔をしているのだろう。
心が壊れそうなときに頼ってくれる、谷口の支えになれる、自分はそういう存在でもよかったはずだった。
しかしいつのまにか、谷口にとっての一番でありたいという欲が生まれていたことに気づいてしまった。
今だけ、この夜だけなんて嫌だ、と思ったことが、素直に言葉として出てしまったのだ。


谷口は、確かに自分のしたことは自分勝手で、残酷だと思った。
人を傷つけたのがつらくて、そしてそれをひとり抱えて夜を過ごすのが苦しくて、それで慰めてほしくてこうしているのだろうか。
それもないとは言えない。しかしこのつらいとき、誰よりも声を聞きたくて、顔を見たかった存在だということに偽りはなかった。「会おう」と言ってくれたことに、とても救われたのだ。
そして、顔を見たとたんに起こした行動は、自分にとってはごく自然な流れだった。自分から倉橋を求めてやまなかったのだ。あの人よりも、側にいてほしい人間だったからだ。
しかし、ついさっきのことなのに、今こうして倉橋の腕の中にいるときに思い返しても恥ずかしい。
だからこそ、明日には忘れてほしいと思うのだが、倉橋はそれを許さない。
反面、「なかったこと」として流さずに、しっかりとお互いの記憶に刻みたいと思ってくれることが嬉しかった。


倉橋は、谷口の右手人差し指に唇を寄せた。指先から手の甲にかけて、ゆっくりとくちづけを滑らしていく。
谷口は、頭を倉橋の胸に押し付けたままでいた。
「ほんとに、何も用がなくて電話したのか?」
「そうだよ。あえて用っていうなら、お前の声が聞きたかったんだよ」
恥ずかしいことを……と谷口は闇の中で顔を赤くした。指に唇を触れさせたまま話す倉橋の声は、さっきまでとは違って、やわらかく響いた。
「お前は、なんでもなくても話したい、とかないわけ?」
「………ある」
「それで、声を聞いたら今度は会いたくなった。だから誘った。どうだよ、これで納得したか」
何でも理詰めで考える谷口にとって、この初めての感情に戸惑っていたのだ。
なんとなく側にいたい、声を聞いていたい、と求める気持ちが、もしかしたらわがままなのかもしれないと思っていた。
しかし、倉橋に言われて、それは理屈ではなく当たり前の気持ちなのだと知った。
さっき、自分からキスしていった自分の行動を、理屈で説明できないのと同じだと思った。ただ、求めたのだ。
「それにお前の声が、なんか震えてたから、なんかあったのかなって思ってさ」
「えっ」
やっぱり悟られていたか、と谷口は悔やんだ。しかしすぐに、倉橋の照れたような声が聞こえた。
「いや、それもあとづけの理由だな。やっぱり顔が見たくなっただけなんだ」
倉橋は、自分で言ってからこそばゆくなった。
あとづけの理由も確かにそうだが、本当はもっと単純なことなのだ。
夜に電話しても出かけているという。きっとあの人と会っているのだ。そう思うと、腹が立つのを抑えようとしてもできなかった。そして、今日の谷口の時間を独占したくてたまらなくなった。
そんな、嫉妬心でどうしても会いたかったというのが本音なのだ。


倉橋は、自分に誰かと何かがあったと気づいているのかもしれない。だとしたらその相手の想像もついているだろう。それでも何も言わないでいてくれる。
倉橋の言葉を借りれば「都合のいい」解釈かもしれないが、谷口はとても救われた気がした。この夜に会えてよかった、と思った。
谷口は、荒川の堤防を歩いていたとき、なまぬるくよどんだ空気の夜だと思っていた。早く明ければいいと思っていた。しかし今は、この時間がもっと、ずっと続いてほしいと思っている。
夜が明ければ、どんな顔をすればいいのかわからないから。
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蒼い夜