谷原高との練習試合で大敗した。
あれが甲子園に出るチームの力なのだ、と自分たちとの実力の差をまざまざと見せつけられた。
それから表面上は、以前と変わりなく毎日の練習は続いていた。「こなしていた」という表現がふさわしいかもしれない。
熱がない、と谷口は感じていた。それがいい雰囲気とは谷口は思っていなかったが、この現状を変える手立ても見つけられない今、とにかく体を動かすほかなかった。
谷口が転がるボールを追いかけて、まだ草むしりの終わっていないグラウンドの隅まで走っていった。
すると、フェンスの向こうに誰かが立っているのが見えた。
墨高のそれとは違う、濃紺の学生服を着ていた。
(―――佐野だ)
それを認めると、谷口は一瞬にして体を硬くした。一度右手におさめたボールも、ポトリと地面に落とした。
どうして彼がこんなところにいるんだ。何を見に来た。まさか俺―――
谷口の頭の中は、ひどく混乱した。
谷口はそこに立ったまま動けずにいた。そのうちに、のどが渇いてきた。
(水分、とらないと)
佐野は視線で、こっちへ来い、というように谷口をうながした。
谷口は誘われるままに足をその方向に向けた。
草の上には、落としたボールが残された。
離れ校舎の陰には、放課後には来る者もほとんどいなかった。
谷口が佐野に会うのは、秋季大会ブロック予選の決勝以来だった。それから佐野は少し痩せたように見えた。
佐野は、目深にかぶっていた学帽を取ると、帽子に押し込められていた髪を2、3回指でかきあげた。
「谷原との試合、ひどい大差だったな」
佐野は開口一番、谷口が今もっとも言われたくないことを言った。谷口は思わず目を伏せた。
「うん」
それがどうした。わざわざ俺を笑いに来たのか、と普段は言わないような嫌味が口をついて出そうになった。
そんな自分が情けない、と谷口は思った。
「谷原が甲子園常連っていっても、今の布陣を見たら、以前ほどの強さじゃないはずだけど」
佐野がさらりとそう言うので、谷口は反射的にムキになった。
「それほどじゃない谷原に、大敗したんだよ、俺たちは」
声に抑揚なく聞こえたのは、懸命に感情を抑えていたからだった。
それを聞くと、佐野は谷口の顔を見て言った。少し笑っていたかもしれない。
「意外と感情的なんだな」
谷口の顔がカッと熱くなった。
「それって、どういう意味…」
「もっと冷静なたちかと思ってた」
谷口がそれに反論めいたことを言う前に、佐野は制した。
「それが悪いって言ってるんじゃない。でも俺にはそこまで谷原と墨谷に差があるようには思えないんだ」
谷口には、佐野が策を講じるような人間でないことはわかっていた。お世辞を言う男でもない。
だから本当にそう思って言っているのだろう。
しかし、谷口には佐野がここへ来た目的がわからなかった。
何が言いたいんだ、と谷口は少しイライラした。その谷口の苛立ちにも、佐野は気づかない。
「じゃあ、なんで俺たちは負けたんだと思う」
谷口は自虐的だと思いながら、訊いた。佐野は間髪入れずに答えた。
「ふたつある。ひとつは準備不足。相手を知らなすぎた。墨高お得意の偵察ができてなかったんだろ」
「もうひとつは?」
「もうひとつは、意識はしてなかったかもしれないけど、相手が強豪っていうことが変な先入観になってたんじゃないか」
谷口ははっとした。
たしかに墨谷は、どんなに相手が強豪だろうと、先入観で負けるようなチームではなかった。
強豪ならば偵察で徹底的に相手を調べ上げ、勝つためのあらゆる方法を探す。その喰らいつきは、気味が悪いとさえ思われた。
しかし経験を積むにしたがって、見えないプレッシャーにとらわれるようになってきていたのかもしれない。
それは“墨谷”というチームではなく谷口の変化でもあった。
キャプテンである谷口のそういう内面は、きっとチーム全体に伝わってしまう。
「まあ、急に上に上がってきたチームがよく陥ることだけど」
佐野は、涼しい顔でそう指摘する。悔しいがそれは間違いなかった。
確かに墨谷はポッと出のチームに違いない。全国も知らない。小さい世界で一喜一憂しているようなものだ。
佐野の言うことは、すべて正しかった。それを遠まわしにすることなくストレートに伝えてくる。
佐野は常に、勝者の顔をしていた。過去の対戦では、確かに佐野のチームには勝っているのに、なぜか圧倒されるものがある。
「でもな、夏の予選は、つまんないとこでつまずいて早々に負けられちゃ困るんだ」
「え?」
驚いて谷口がうつむいていた顔を上げると、佐野と視線が合った。佐野は、一瞬ひるんだような表情をした。
しかし言葉をにごすようなことはしなかった。谷口は、体を硬くした。
「甲子園に行くのは俺たち東実だ。谷原じゃない。でもそれ以上に、俺はあんたと対戦して勝ちたい」
それまでの佐野とは少し違う、乞うような声音でさらにたたみかけた。
「あんたに勝たないと、甲子園も意味がないんだ」
谷口は佐野のその言葉に、体じゅうの血が倍の速さで流れるような興奮をおぼえた。大きく響く心臓の音が、体の外まで聞こえてしまいそうだった。
谷口は、佐野のまっすぐに自分を見つめる視線から逃れることができなかった。
佐野の顔をこんなに間近で見たのは、初めてかもしれない。案外、まつげが長いんだな、とドキドキしている時間にもそんなことに気がついた。
目の前がにじんだような景色に見えた。
「おい、聞いてる?」
大きな声で耳元でそう言われ、谷口はやっと夢から覚めたように、目の焦点が合った。
「あっ……う、うん」
谷口は、あわてて自分の頬を右手でこすった。そのしぐさに、佐野の表情が緩んだ。
「あんた、変な人だな」
そう言うと、佐野は浮かべていた笑みをさっと引っ込めた。
「とにかく、東実と対戦するまで絶対に取りこぼしなんかするなよ。あんたは俺が倒す」
佐野は念を押すように谷口をにらんだ。
それから少し照れたような顔をしたが、すぐに背中を向けてしまった。
「それだけが言いたかったんだ」
佐野が去ってしまってからも、谷口はしばらくその場に立ち尽くしていた。
最後に見た背中が、まだ残像のように目の前に現れている。
谷口はその背中に言いたかった。
自分が立ち入ることのなかった1軍専用のグラウンドに、練習だというのに全力投球している一年生がいた。フェンス越しにその姿を初めて見たときから、佐野は自分にとって憧れだったのだと。
そのときは自分がまさか投手になるとは思いもしなかった。もちろん敵として戦うことも、さらに言えば言葉を交わすこともないと思っていた。
谷口の心の中にずっとあり続ける、佐野への憧憬と劣等感。いつまでたっても「勝った」と思わせてくれない存在。
その人に、自分を「俺が倒す」と言われたのだ。
谷口は頭の奥からこみ上げてくるものを感じて、目のまわりが熱くなった。
絶対に負けない。
谷口は密かにそう決意した。
もちろんそれまでも目標は甲子園だった。しかし先日の対谷原戦での大敗に、自分たちが実力を買いかぶっていた事実を突きつけられ、チームのテンションが下がっていたのも確かだった。
さらに重症だったのは、谷口自身だったのだ。
しかし今日の、ほんの少しの夢の中のような一件で、谷口の気持ちは一気に熱を帯びた。
俺も単純だな、と谷口は自分自身を笑うしかなかった。
まさかチームの皆に、勝利の目的が「憧れの人から本気で挑まれたのが嬉しかったから」とは言えない。
もちろんそれだけが動機のはずはないが、やはり言えないと谷口は思う。
キャプテンとしてあまりに自分勝手すぎる。しかしそれは偽らざる自分の気持ちでもあった。
「こんなとこにいたのか」
離れ校舎の陰に谷口が立っているのを、倉橋が渡り廊下から見つけると、息を切らせてやってきた。
「ボールを追っかけたまま戻ってこないから、どうしたのかと思った」
倉橋が笑ってそう話しかけても、谷口の意識はまだどこかへ向いてしまっているようだった。
「誰か来てたのか?」
肩に置かれた手の熱に、谷口はビクリと反応した。
「い、いや来てないけど?」
視線をそらして話す谷口を、倉橋はいぶかしげに見た。
とっさに、嘘をついた。
なぜ隠そうとするのか、谷口は自分がわからなかった。
以前、倉橋は、どうしても佐野に勝ちたいと言った自分に、「協力する、でもそれにこだわって自分の野球を見失うな」と言ってくれた。
だからきっと自分の気持ちもわかってくれるはずなのだ。隠す必要などない。
しかし今は、自分の胸の中だけに秘めていたいと思った。今日のことも、この気持ちも。
約束