あの日から、谷口の様子が変わった。
浮ついた感じもしたが、いい加減に練習をすることはない。むしろ、いっそう熱がこもった特訓をチームに課す。もちろん自分にも。
“浮ついた”ように見えるのは、時おり黙りこくって、空を眺めているような時間が増えたからだった。
物思いにふける、というのはこういう感じだろうか、と倉橋はその黙りこむ谷口に声をかけることもせずに見ていた。

谷原に大負けしてから落ちていたテンションが上がったのはいいことだ、と倉橋は納得しようとした。
谷口も野球部も、これから始まる予選に向かって意欲を見せている。
しかし倉橋は、谷口の突然にも見える変化にもやもやとしたものを感じていた。
自分のこの感情が理不尽であることも、じゅうぶんにわかっていた。
こういうとき、変化が起こる原因は決まっている、と倉橋は自分の経験から確信していた。


ある土曜日の練習からの帰り、皆と別れたあと、倉橋は自販機でコーヒーを買うからと谷口の足を止めさせた。
来週には衣替えという時期だったが、朝から降っていた小雨のせいか、この日は肌寒かった。
「ほら」と倉橋は谷口に缶コーヒーを放り投げた。
それを右手で受け止めた谷口は、ほっとした表情で温かい缶を頬に押し当てた。
谷口の目の前には、錆びたシャッターが降ろされていた。それは谷口が小さい頃によく遊びに来ていた駄菓子屋のものだった。しかし数ヶ月前に閉めてしまい、そのままになっている。
商店街のわき道にある小さな店だったが、今は店の前にはほとんど人通りがなく、ただ自販機だけが稼働している。谷口は、その様子を寂しく感じた。
倉橋は、その店の軒先に谷口を引きとめていた。

「お前、好きな人でもできたか」
谷口は、口に含んだコーヒーをあわてて飲み込んだので、むせてしまった。
倉橋は、咳き込む谷口が落ち着くまで背中をさすっていた。
しばらくして谷口は、ようやく声を発することができた。赤い顔をしている。
「なに言ってんの、お前」
「違うのか?」
「違うよ」
倉橋は、谷口の右腕をつかむと、自分の体にグイ、と引き寄せた。
「お前さあ、俺らの間に隠しごとは無しにしようって言ってなかったっけ?」
いつ言ったんだ、と谷口はちょっと引いてしまった。
確かに、キャプテンと参謀、バッテリーとしての意思疎通のことは言っていたかもしれない。
しかし、こんな自分の内面のことまであけすけにしなくちゃならないのかよ、と谷口は戸惑った。
困ったような顔の谷口を見て、倉橋はつかんだ手の力をゆるめた。

誰かを倉橋と比べようなんて思ったことはない。
好きか嫌いかといえば、もちろん好きに違いない。
一緒に過ごす時間の中で、自分と同じ気持ちでいてくれる、と感じられる瞬間が何度となくあった。
時おり、倉橋から自分に施される優しさには、意識が遠のくような恍惚さえおぼえる。他の友達にはない距離感だった。
だからといって、お互いを束縛する存在かというと、そうではなかった。それを言葉にしたことはない。
しかし、さすがに鋭い、と谷口は倉橋のことをそら恐ろしく感じた。
以前から、倉橋には自分の内面を見透かされている、と思っていた。
言うか言うまいか迷ったのは一瞬で、谷口はあっさりと白状した。
煽るつもりはなかった。倉橋には嘘がつけない、と思ったのだ。

「好きな人…っていうか、ずっと憧れてた人に会ったんだ」
「憧れ?」
谷口の顔は少し上気した。あの“物思いにふける”ときの表情と似ている、と倉橋は思った。
「その人に、すごく嬉しいことを言われた。でも向こうは俺の気持ちは知らない。いつか、伝わればいいと思うけど」
倉橋は、次第に頭に血が上っていくのを感じた。しかし努めて冷静を保とうとした。
谷口の体を引き寄せた倉橋の腕には、いったんゆるめた力が、また込められた。
「へえ…。よかったな。それで、このごろ舞い上がってんの」
その倉橋の言い方には、さっきまでのふざけた調子がみられなかった。明らかに谷口を問い詰めている声だった。
谷口は、その口調に相手まで侮辱するものを感じた。
「お前だって、女の子とつきあってんじゃん」
別れたとは言っていたが、噂は絶えない。俺にだけ一途さを求めるのか、自分が責められるおぼえはないと谷口は言いたかった。
しかし、それを言葉にする前に、倉橋の唇でその口はふさがれた。谷口の右手からコーヒーの缶が落ちて、薄暗い路地に転がった。
谷口は驚いたが、驚くと同時に抵抗する力が抜けた。しばらく、背中に回された太い腕の熱を感じていた。
しかし、ようやく体を離した次の瞬間には、谷口は倉橋の頬を強くはたいていた。

倉橋は、左頬をさすりながら不機嫌な声でつぶやいた。
「なにすんだよ」
「…それは俺のせりふだろ」
「初めてでもないのに」
倉橋のその言葉に、谷口の顔がカッと熱くなった。
確かに、初めてではなかった。
しかし、それはもっと、お互いの気持ちが寄り添ったときに交わしたのであって、今日のとは違う、と谷口は思った。自分が辱められたように感じた。
「こんなのは嫌だ」
谷口がうつむいてそう言うと、倉橋は谷口のあごに右手をかけて、強引に顔を上げさせた。
「じゃあどんなのがいいんだ。もっと優しく、か」
谷口は、目の周りが熱くなるのを感じた。泣きそうな顔をしていたかもしれない。
でもそんな顔を見せるのは悔しい、と谷口は精一杯、倉橋をにらんでいた。
「お前、なんで……」
カラカラに乾いた口からは、やっとそれだけが言えた。
「なんで? なんでだと思う」
倉橋の声からは、さっきまでの険しさは少し削がれていた。しかし、谷口の顔は、自分に向けさせたままだった。
「俺だって、嫉妬ぐらいする」
そう言うと倉橋は視線をそらし、右手を下ろした。
(嫉妬…?)
谷口は、自分の唇を指でぬぐった。

だったら、はっきり言えばいいのに。俺の気持ちも確かめればいいのに。
と、谷口はもどかしくなった。
しかし、自信過剰で初対面の他人の領域にまで入り込むような男が、この谷口の気持ちにだけは触れてこない。まるで、確かめるのを恐れているようだった。
それは谷口も同じだったが。



倉橋は、確かに「誰」とも言えない相手に嫉妬していた。
たとえその相手を知ったところで、納得したり、鷹揚に構えていられる自分でもないと自覚していた。
どんなに自分が側にいて、毎日話をして、お互いが近づいていけたと思っていても、落ちてしまった谷口の気持ちをこうまで上げることはできなかった。
しかしその「憧れの人」に言葉をかけられたほんの短い時間だけで、谷口の表情はがらりと変わった。
それは事実だった。自分には谷口を変えられなかった。
それで頭に血が上った自分の行動をおさえられない自分に、倉橋は少し驚いていた。
しかも「嫉妬している」と、あからさまに言ってしまった。それは勢いのようなものだった。
自分はもっと大人で、恋愛経験のない谷口よりもそういう心の機微はわかるはずだと自負していた。
しかしそれは単なる自分への誤解だったのだと、倉橋は思った。


谷口は、その「憧れの人」が佐野であることを倉橋に話さなかった。
同じチームにいた頃は遠くで眺めていることしかできなかった人に、「甲子園へ行く以上に、自分に勝ちたい」と言われた。
それは嬉しい、とても嬉しい事件だったが、この喜びは倉橋とは共有できないと思っていた。
過去の墨二と青葉の対決の経緯や、それにともなう自分の積み重ねてきた佐野に対する複雑な感情は、倉橋にも理解はできないだろう、と。
しかし谷口は、自分と倉橋の気持ちが言葉にせずとも近づいていることも感じている。
そしてもっと、ずっと添っていたい、自分と同じ気持ちでいてほしいという思いは、時間が経つにつれて強くなっていた。
それは佐野に対する気持ちとはまた全然別の次元だった。
しかしどんなに心の中で感情があふれていても、言葉にしないと相手には伝わらない。
 『俺だって嫉妬する感情を持っている。だからこそ嫌味のひとつも言ったんだ』
そうか、そう言えばよかったのか、とあとになって思うが、なかなか言葉にはならない。
倉橋も言葉にできない気持ちを、あの強引な行動で表したのかもしれない、と谷口は思った。
ただ、あの“年下の天才”に抱くこの気持ちが憧れだけでないと言い切れないやましさがあることも、谷口はうっすらと自覚していた。それが、谷口の想いを複雑にしていた。



雲が晴れると、暗い路地にも光が射した。
飲み干したコーヒーの缶をゴミ箱に投げつけるように放り込むと、倉橋は黙って表通りに向って歩き出した。
谷口は、倉橋に聞こえないように、大きく一回深呼吸をした。
こんなことで二人の間に溝ができていくのは嫌だ。その気持ちを、ひとことでも伝えたい。
そのために谷口は目の前の大きな背中に声をかけた。
「倉橋、待てよ」
谷口は無視されるかと思ったが、その声に倉橋は足を止めた。
「もう少し、話したい」
そう谷口が言うと、倉橋は振り向いた。表情はまだ険しかった。
谷口はもう一度、深く息を吸い込んだ。次にかける言葉が震えてしまわないように。
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深呼吸のあとで