「佐野は、俺を覚えてなかったんだ」
3年生が引退し、秋季大会を前にした日の帰り道、どういう流れからだったか中学時代の青葉戦の話を倉橋にした谷口は、少し情けない表情でそう言った。

谷口は、地区予選の準決勝のあと佐野に会いに行き、「自分を覚えているか」とたずねたのだという。
「なんであんなことわざわざ言いにいったのか、今考えると恥ずかしいな」
それからもうずいぶん経っているというのに、まだその話をするときには目を伏せてしまうほどらしい。
倉橋は、谷口にこんな表情ををさせるその出来事を、もっと知りたくなった。
目の下を赤くしている谷口の顔をのぞきこんで、訊いた。
「なんで言いにいったんだ?」
「なんでだろうな」
谷口は伏せていた目を上げて、暮れかかる空を見た。
「ちょっとうぬぼれてたのかもしれない。無名の学校がここまでのし上がってきたことに、少しは興味をもってくれてるんじゃないかって。相手方のキャプテンが前は青葉にいたとか、そのくらいは知ってくれてるんじゃないかって」
しかし、青葉学院の視線は直前に迫った地方予選決勝ではなく、それを超えた全国大会へとすでに向けられていたのだ。当然、佐野の見ている方向も同じだった。

倉橋には、その時の佐野の態度がよくわかる。地方予選の決勝が眼中になかったのもあるが、佐野は本当に谷口のことを覚えていなかったに違いない。
それは谷口のことに限ったことではなく、基本的に他人に興味がない人間なのだ。
野球だけに没頭できるということでは、ある意味、谷口と同じ種類の人間だともいえる。そう思ったことを谷口に伝えることは、倉橋はあえてしなかった。
わずかな沈黙のあと、谷口はさっきよりも明るい声で言った。
「でも、今は少しでも覚えててくれる気がするんだけど」
谷口は、少し笑って倉橋を見た。倉橋はその笑顔から目をそらした。
「まあ、さすがに2回も戦って、それで負けた相手だからな」
「それでもいい。なんでもいいよ、佐野の記憶に残るなら」
その焦がれるような表情に、倉橋はまた胸を騒がされた。


倉橋が中学時代、佐野と対戦することはなかった。
隅田中と青葉学院がぶつかることはあっても、佐野の投球を目の当たりにすることはなかった。それは当然で、佐野は地方予選で投げることは一切なかったのだ。
佐野は1年のときからエースを張っていた。青葉学院では、エースは予選で投げないというのが通例になっていた。
その佐野が予選のマウンドに引きずり出されたということを聞いて、倉橋は本当に驚いた。しかも、一ヵ月後には再試合を行うという。
準決勝で対戦した墨谷二中には、延長戦までもつれ込んだ末に負けてしまったが、それでも青葉とわたりあえるようなレベルとは思わなかった。圧倒的な強さではなく、自分たちとの実力は僅差だと感じた。
青葉は違う。もっと次元の違うところにいる集団だと思っていた。自分たちが勝てるはずがない、と戦う前から思い込まされる、そんな存在だった。倉橋は、準決勝と決勝の間の墨谷二中にいったい何が起こった?と不思議でならなかった。

再試合の日、スタンドから見た墨谷二中は、明らかに自分たちと対戦したときのチームとは違って見えた。
そして、準決勝のときにも感じたが、墨二は試合中にどんどん強くなっていくチームだったことを倉橋は思い出した。だから、延長戦に持ち込まれたときに、ふと「危ない」という思いがかすめたのだ。こちらのほうが選手層はずっと厚いのに、なぜかそう思わされる勢いがあった。
それまでピッチングに自信過剰なところがあった松川も、なにがなんでもくらいついてくる墨二に対してひどく怖がるようになってしまった。倉橋は、そんな松川を何度も鼓舞したが、時間とともに強さと粘りを増していく墨二には、もう通用しなかった。


中学時代、隅田中が青葉にも墨二にも勝てなかったのは、実力以前に気持ちで負けていたから―――倉橋がようやくそれを認めることができたのは、その墨二のかつてのキャプテンだった谷口と、高校になって一緒に時間を過ごすようになってからだった。
思えば、自分はいつも言い訳ばかりしていた。
自分はこの地区じゃ敵なしのキャッチャーなのに他のメンバーの不甲斐ない、とか、青葉なんてプロ養成所みたいなとこと俺たち普通の中学生が本気で戦えるわけない、とか、自分には意欲はあったのに入った野球部の先輩がだらしなさすぎてやってられない、とか。自分は悪くない。悪いのは周りのほうだ。倉橋は、そんなふうに自分を正当化して生きてきた。それを認めざるを得なくなったのも、谷口の存在のせいだった。
普段はおとなしそうなこの男のどこにこんな前向きな闘志が秘められているのかと、知り合ってずいぶんたってからも驚かされる。
最初は、谷口を半ば興味本位で見ていた。たった数ヶ月で弱小野球部を青葉に勝利するまでに育てた手腕があるらしいが、どうやってこの先輩方や素人みたいな部員たちを奮起させる?と、遠巻きに眺めているつもりだった。
それなのに、そんなふうにいつも斜に構えていた自分が、いつのまにかまっすぐな谷口の情熱に引っ張られていた。自分の中にも野球や勝利に対する熱い思いが確かにあることを、谷口に気づかされたのだ。
そういう自分を顧みると、倉橋は自分に対して苦笑してしまう。今ではこんなに、離れられなくなっているのにと。野球からも、谷口からも。




ブロック予選決勝の日は、まるで夏が戻ってきたかのような日差しが照りつけていた。
佐野が東実に進学していたことを、倉橋は知っていた。しかし、青葉学院のエースであっても、層の厚い東実で1年の佐野が投げるかどうかはわからなかった。
その佐野が、決勝のマウンドに登っている。佐野は、倉橋の姿を認めると、会釈するでも笑いかけるでもなく、ただ目を細めるだけだった。
「変わらねえな」
「えっ?」
「相変わらず、すかした野郎だよ、あいつ」
ベンチの中で倉橋がそう言うと、硬かった谷口の表情がゆるんだ。そして、食いつくように訊いた。
「小学生の頃から、あんな感じだったのか?」
「もっと生意気なガキだったよ」
その倉橋の言い方に、谷口は吹き出した。
谷口は、佐野が登板したときから、それまでの表情を変えてしまっていた。
努めて平静を保とうとしているが、倉橋には動揺が見てとれた。しかし、その短いやりとりがきっかけで緊張が解けたのか、谷口がいつものキャプテンの顔に戻ったのを、倉橋は見た。
結局、決勝戦は墨谷が制した。とはいえ、先発ピッチャーから1回に取った1点を守りきる形で、結果的に佐野からは点を奪うことはできなかった。
ブロック優勝の次は神宮だ、と喜ぶ部員たちの中で、そのことにこだわる谷口だけは、手放しで喜ぶことはできなかった。




決勝戦を終えて一週間ほど経った日、倉橋が練習を終えて家に帰ると、玄関の前に誰かが立っているのに気づいた。秋が深まり、日がすっかり短くなった夕暮れの中では、その姿を認めるのに時間がかかった。
「佐野」
東実の制服を着た佐野を、倉橋は初めて見た。
一番身近にいたのがお互いが同じリトルリーグにいた小学生の頃だったからか、濃紺の詰襟姿が大人びて見えて、倉橋は違和感というか妙なくすぐったさを感じた。
もともと日焼けしないたちなのか、秋とはいえ連日練習で走り回っているはずなのに、白い顔をしている。そういえば、子供のころからそうだったな、と倉橋は思い出した。
「何か用か」
「用があるから来た」

汗もかかないようなこの涼しい顔が、愛想のない物言いを余計に生意気そうに響かせる。年下のくせにまったく年長者を立てようとしないのも、昔と同じだった。
「やっぱり変わってねえな」
「何?」
「なんでもない。で、何の用だよ」
「谷口のことで訊きたいことがあるんだ」
「谷口?」
倉橋は、一瞬、むせたように咳き込んで訊きかえした。
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予感
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佐野は、あの決勝戦に敗れた日から、何度も何度も考えているのだという。
中学のときも勝てなかった、そして今度も。自分のどこが悪いのか、何が谷口に劣っているのか。自分と比べて、谷口が何か特別な才能を持っているようには思えない。なのに、なぜ勝てないのか。あの日から、どんなにがむしゃらに練習しても疑問が晴れず、谷口のことが頭から離れない。一週間経っても変わらない。このままでは前に進めない、だから今日、ここに来たというのだ。
目のふちにかかりそうな前髪を払いもせず、まっすぐに倉橋を見てそう話す。こんな心のうちをあけすけに吐かれて、倉橋はしばらく絶句していた。

「どうした?」
と、逆に佐野が倉橋を心配するような声を出した。
「それは俺が訊きたいよ」
倉橋は、苦笑した。しかし、こういう自分の気持ちに素直なところや、自分の才能と実力を信じられるところが天才たる所以なのか、と倉橋は思った。別の言い方をすれば、天然だが。そして、疑問に思ったことは晴らさないと気がすまない。その証拠に、佐野の態度に敗者の卑屈さはまったくなかった。卑屈にもならず人のせいにもせずに、ただ自分の何が相手に劣っているのかを純粋につきとめようとする姿勢はさすがだな、俺とは違う、と倉橋は変に感心してしまった。
「谷口の何が訊きたいんだ」
「なんでも。全部だ」
「全部?」
さすがに倉橋は驚きをとおり越して、呆れた。


佐野は、自分で気づいているかどうかわからないが、谷口に生まれて初めて「屈辱」を与えられたのだ。
今までは、たとえ試合に負けたとしても、「自分が」負けたとは思わなかった。それだけ過剰なほどの自信があったし、そう言える実力だったからだ。だから相手の勝ち投手のことなど気に掛けることもない。ただ次の試合に向けて練習するだけなのだ。
しかし谷口だけは違った。忘れようとしても忘れられない、三度にわたって自分に屈辱を与えた唯一の人間。もう理屈ではなく、どうしても頭から離れないのだ。
倉橋は、佐野の性格を知っていたから、佐野がこんなに谷口のことを訊きたがることに驚いた。
佐野はあくまで冷静に、まっすぐな視線を倉橋に向けている。しかし、なんでも話せと言って話せるものではなかった。倉橋が話を逸らそうとすると、冗談ではなく真顔になって「さっきの話の答えを聞いてない」と詰め寄った。
「お前な、そんなこと自分で調べろよ。いくらかつてのバッテリーったって今は敵同士なんだ。こっちのエースの情報なんか簡単に言えるか」
「ああ、そうか」
今初めて気づいたように、詰め寄った姿勢を戻した。

そんなことにも考えが及ばない。それほど、俺たちのことを敵と思ってなかったってことか。まあこいつならしょうがない、敵情視察なんてこともしてこなかったからな、と倉橋は変に納得した。
墨高が持てる力を最大限に発揮するためにあらゆる策を講じるのと対照的に、佐野は自分の力を絶対的に信じていたから、策などは講じない。むしろそういう行為を、「小賢しい」とひと言で片付けてしまっていただろう。
しかし今は違うかもしれない。意図せずにせよ、その小賢しい行為をこうしてあからさまなほどしているのだから。
この「天才」も、谷口によって今までの自分を変えられてしまったのだ。それは谷口と出会って変わっていった自分と同じだ、と倉橋は思った。

だからといって、佐野を谷口に近づけたいとは思わなかった。谷口が佐野のことを語るときの、あの焦がれるような表情を思い出すと、耐えられないのだ。
谷口は佐野を、自分の前にたちはだかる大きな壁として見ている。と同時に、憧れの対象でもある。
佐野から離れていれば離れているほど、谷口は佐野へのその気持ちを大きくしていくだろう。それが勝利へのモチベーションにもなるだろうが、谷口の心を奪っていく存在だと思うと複雑だった。
それに、根っこのところで同じ野球への思いを持つ、違うタイプの「天才」が、心の中で共鳴してしまうかもしれない。それはもう、自分の立ち入れないところのような気がして、怖かった。
谷口が自分から離れて手の届かないところへ行ってしまうのを、喜んで見届けられるような余裕は、倉橋にはまだなかった。

自分たち隅田中と延長戦までもつれ込んだ末の勝利のあと、まっさきに次の敵のエースのところへ乗り込まざるを得なかった。それは、憧れの人と相まみえることの喜びをおさえきれなかったからではないか。
少なくとも、直前の闘いに勝利したことへの喜びはその瞬間に谷口の頭から消えてしまっていたのだ。実力は僅差だと感じたのは自分のほうだけだったのだ、と倉橋は思った。

谷口、よかったな。佐野はお前を「少しでも覚えてる」どころじゃないぜ。―――と一瞬、すぐにでも谷口に伝えてやりたいと思った。が、抑えられない嫉妬がそれを打ち消した。倉橋は、俺もたいがい小さい人間だな、と自分に対して笑うしかなかった。
しかし、「なんでもいいよ、佐野の記憶に残るなら」と焦がれる谷口と、「あれから何度も考えている」という佐野。倉橋には、このふたりがどこかでまた再会して、理解しあうのもそう遠いことではないような予感は、打ち消すことはできなかった。
Special thanks! illustration:吉Eさん