派遣少女――Agent.1 水城リリア――
電話の向こうから怒声が響く。
昨日の大豪雨で、首都圏のネット網は大規模故障。復旧の見込みなし。
お陰で私の勤務する東日本電信株式会社では苦情の電話がひっきりなしに鳴っている。
「申し訳ありません。ただ今調査中でして」
今日何度言ったかわからない謝罪の言葉を述べる。
何度も言ったが、効果があったためしはなかった。
やっと終話したころには、昼休みの時間を大きく二時間もオーバーしていた。
「ふう」
通話のためのヘッドセットをおくと、私、松下は息を吐いた。
「――いつになったら故障が治るか、なんて私が訊きたいわ」
大規模故障発生から約二十四時間。復旧の見込みはなかった。
「あ、あのっ」
ふと、甲高い声が場に響く。
アニメに出てくるような可愛い声。
同僚の佐藤さんだろうか。
彼女は自分の声が『可愛い』ということを理解しているから、最大の武器として利用している。
男性顧客に対する好感度ナンバーワンの女性社員だった。
「あのっ、すみません」
ん。なんか違うか。
声が若い。透き通っている。
佐藤さんのような計算高さが感じられない。
「あの、せんぱい」
なんだか声が近い。
話しかけられているのは私だろうか。
「松下せんぱい」
ふと、私は声のする方を見た。
誰もいない。
気のせいかと思って視線を下に落とす。
「あの」
いた。すごい美少女。
「わたし、派遣されてきました。水城リリア(みなしろりりあ)っていいます」
「みなしろ…さん?」
「はいっ。松下せんぱい」
彼女は、なめらかな金髪の頭を私に向けて下げる。
蛍光灯の光が反射するほどのキューティクル。三十近い私にはやや眩しい。
「えっと、派遣?」
状況がつかめなかった。
水城となのった少女は、顔をあげた。
「はいっ。本日中に『きんきゅうじたい』をおさめるために」
私は、そう言った少女の目の中で溺れるかと思った。
透き通る様な青い瞳。
長いまつ毛。
腰まであるゆるやかなウェーブのかかった金髪。
「松下君」
私の直属の上司にあたるSV(スーパーバイザー)が声をかけてくる。
「水城くんを頼むよ」
「正気ですか」
私は少女の瞳に溺れていたため、言葉を選ぶことを忘れてしまった。
「今日はあまりに殺気だった雰囲気だからさ」
「だからなんです?」
「みんなの癒しになればいいなと思って。上司が『派遣少女』を頼んでくれたんだよ」
「…………」
返答のしようもない。
何人もの男性社員が、あほみたいに口をあけて水城リリアを眺めていた。
「あの、松下せんぱい?」
ああ、認める。あなたは可愛いよ。
「は、はい。なんでしょう」
私はまた、少女の青い瞳に溺れそうになったけれど、女の意地で踏みとどまった。
でも、咄嗟に敬語になってしまったのは大目に見て欲しい。
「松下せんぱいにおしごとを教わりたいのですが」
「私に?」
「はいっ」
「なんで私に?」
「君には妹がいただろう?」
少女の代わりに、SVが応える。
「妹なんて佐藤さんにもいるじゃないですか」
「ああ。そうだっけ」
要するに誰でもいいのか。
「あ、あの私…」
「はい?」
「お近づきのしるしにこれを」
少女が、傍らに置いていた袋から何かを取り出す。
「クッキーやいてきました」
くまの形をしたクッキー。形はあまりきれいではない。
「おいしい」
味は、文句なく美味しかった。
「えへへ」
少し頬を赤らめる少女。
「みなさんにもつくってきたんですよ」
少女は、両手いっぱいにクッキーを抱えて同僚たちにも配っていく。
配るたびに頭を撫でられたり褒められたりして「えへへ」と嬉しそうに笑っている。
「松下せんぱい」
いつの間にか戻ってきた少女が、私の顔を下からのぞきこむ。
「ん」
「私におしごとをおしえてください」
「できるの?」
私は素直な気持ちを口にした。
「がんばりますっ」
「いや、あの」
コールセンターは、今年二十八になる私にもきつい仕事だ。
少女に電話応対をさせるのは忍びない。
「やめといたほうがいいんじゃ」
「私がんばりますっ」
少女は、スカートのすそをぎゅっと掴みながら私に言う。
「お役にたちたいんです」
眼を潤ませて、上目づかいに私を見る。
綺麗な金髪が、目にかかるのも気にしていない。
なんてまっすぐな目で私を見るの。
「あの、あのね」
こんな可愛い女の子にクレーム対応をさせるわけにはいかない。
「はいっ。なんでもやります」
「じゃあ掃除」
「はいっ」
少女は、頭に三角巾を被り可愛らしいフリルのエプロンを付ける。
童話に出てくるアリスのようだ。
「よいしょっ」
誰から聞いたか、いつの間にかほうきを手に掃除を始める。
自分の身長よりも大きなほうきに、振り回されている。
「あのっ、すみません」
誰かの近くを掃くたびに、律義に頭を下げる少女。
男女問わず、あまりの可愛らしさにため息が漏れる。
「つぎはふきそうじー」
今度は雑巾を絞る。あの細い腕でよく絞れるものだ。
少女はなんだか慣れた手つきで手際よく拭き掃除をする。
「ふふふん。ふふふー」
鼻歌なんか歌っちゃって。
「えっと、しつれいしますっ」
今度は一人ひとりのテーブルを拭き掃除。
少女が近づくたびに、みんな破顔してゆく。
「せんぱいっ。おわりました」
あっという間だった。
体を動かしたためか、顔が少し上気して赤くなっている。
白い三角巾の下からのぞく青い瞳が、嬉しそうに輝いていた。
「つぎはなにをしましょう」
「えっと、あのね」
どうしよう。少女に見惚れて何にも考えてなかった。
「あのっ」
少女がふと何かに気づく。
「あっ」
しまった。
長いこと着席ステータスを変更し忘れていた。
ステータスを『離席』に設定せず『受話可』のままにしてしまっていたために、私の電話が鳴った。
「はいっ。東日本電信株式会社ひかりさーびすです」
とっさに、少女がヘッドセットを付け、電話に出てしまった。
「あっ」
出てしまったからには、電話を取りあげることもできない。
今かかってくる電話など、ネットが使えないという『クレーム』以外ないのだから誰が出ても変わらないのだが、だからこそ少女には厳しい対応になるはずだ。
「あ、あのっ、もうしわけありません」
案の定謝っている。
っていうか、アニメ声の佐藤さんだってもっと大人っぽいしゃべり方をするぞ。完全に少女が電話に出たとバレるだろう。
「え、私ですか?」
おそらく『お前は何者だ』とか『本当に社員か』と訊かれているに違いない。
「私は水城リリア。八さいです」
答えちゃったよ。
案の定お客さんからの『ふざけてんのかっ』って声が、ヘッドセットから漏れ聞こえる。
「いいえ! ふざけてません!」
変なところで律義な少女は、生真面目に答えてしまう。
相手は唖然としているようだ。
「おきゃくさま。いま、いんたーねっとは使えません」
おーい。ストレートに言い過ぎだ。
私はなんとか電話を奪おうと試みるが、少女はがっしりとヘッドセットを握りしめているため、奪えない。
「もうしわけございませんが、しゅうりのひとたちもがんばってます」
お客さんは言われるがままのようだ。そりゃ、こんなストレートな言葉が返ってくるとは思ってなかったに違いない。
「おきゃくさまにはごめいわくをおかけしますが、もうすこしおまちください」
舌足らずなのに、なんて難しい言葉を使うんだろう。
相手は納得したのか、電話が切れた。
通話時間わずか五分。
私なんか三時間も格闘したのに。
茫然としていると、もう一度電話が鳴ってしまった。
何をしているんだ私は。
だんだん自信が無くなってきた…。
「はい。東日本電信株式会社ひかりさーびすです」
もう好きにして。そんな適当に応対してもなんとかなるんなら私なんて必要ないじゃない。
「もうしわけありません。おきゃくさま」
はいはい。どうせお客さんは押し切られちゃうんでしょう。
「え、と。あの、その…こしょうで……」
ん、様子がおかしい。
「うう、しゅうりがんばってるんです」
ヘッドセットから漏れる声は女性のものだ。
あのヒステリックな感じは何を言っても聞かない、一番厄介なタイプ。
「あの、ごめんなさい……」
少女は大きな眼に涙をたっぷりと浮かべている。
だが、客は『謝ればいいってもんじゃないのよっ!!』とか叫んでいる。
「ごめんなさい」
少女は力なく、謝るしかない。
私は青い瞳にたまった涙の中で溺れそうになった。
『あんた頭おかしいんじゃないの!? 猫撫で声を出せば何でも許してもらえると思ってるんじゃないの? ばかにするのもいい加減にして頂戴!』
ヘッドセットから少し離れた位置にいるのに、私の耳にもはっきり聞える。
正直、この程度の罵声はよくある。
だが、少女は今にも崩れ落ちそうに震えることしかできなかった。
そして、客は電話口でこう言ったのだ。
『あんたのようなきちんとした対応もできないようなダメ人間は辞めてしまいなさい!!』
ぶちっ。
何の音かわからないが、私の中の何かが切れた音がした。
私は、少女のヘッドセットを乱暴にひったくると極めて平静を装って言った。
「何か問題がございましたでしょうか」
『あんた上司? なんであんな礼儀もなってない人間を応対に出すの』
「何か問題がございましたでしょうか」
私は意図的に同じことを二度言った。電話口から怒りのために息を飲む音をはっきりと聞いた。
『あんたも客にたいしての礼儀ってもんがなってないわね。もう解約してやるわ!』
「現在、首都圏の全てのネット網が停止している状態ですので同業他社でも同じ障害がでておりますが」
『まあ、なんて失礼な!!』
「それと、お客様――」
私は、もう我慢ができなかったのだ。
「お客様の礼儀も相当に『なってない』と思われますが」
ぶちんと、音を立てて電話が切れた。
そのあと、私たちはこっぴどく叱られた。
少女はまた目に涙をたっぷりと浮かべていたけれど、私はなんかすがすがしい気分でいっぱいだった。
もうこんな会社やめてやる。
小一時間経っただろうか。
ねちねちとしつこい課長からの説教を終えた私は、少女に声をかけた。
「いやな思いさせてごめんね」
正直な気持ちだった。
まあ、どう考えてもこんな職場に純真な少女を連れてきた上司の責任なんだけれど。
「…………」
少女は私を上目づかいに見つめた。
「ど、どうしたの」
「せんぱい、たすけてくれてありがとう」
そう言うと少女は、小さな体を震わせて私の胸に飛び込んできた。
全身の水分を絞り出すように、長い金髪を揺らして泣く少女。
私はただ抱きしめてあげることしかできなかった。
「あの、せんぱい」
少女は、少し赤くなった目を私に向けて言った。
「せんぱいかっこよかったです」
「そ、そう?」
「はいっ。わたしもせんぱいみたいになりたいです!」
胸につかえていたものが取れたような気がした。
私も少しは成長しているのかもしれない。
「ありがとう」
私が少女に心からの礼を言うと、はにかむように彼女は笑った。
フランス人形のように可愛らしい、輝くばかりの眩しい笑顔だった。
次の日から、もう水城リリアは来なかった。
けれど、彼女の残した涙と笑顔はいつまでも私の胸に残った。
「お電話ありがとうございます。東日本電信株式会社光サービス担当松下です」
今日も必要以上に明るい声で、応対を繰り返す。
嫌なことはあるけれど、もう私は負けない。
もう少女ではない大人として。彼女に笑われないように。
『いつになったら直るんだっ!!』
「申し訳ございません。現在全力で復旧作業中です」
負けないよ。
『いますぐお前が直しに行ってこい』
「……申し訳ございません」
――たぶんね。