神に嫌われた男

プロローグ

「助けて、誰か――!」

 少年は走っていた。
 背中の深い傷から、血液とともに少年の生命力も流れ出してゆく。

(空から怪物が――!)

 街の外では、常に戦争が繰り広げられていることは知っていた。
 山のように巨大な怪物や火を吐くトカゲなど、色んな化け物がいるのも聞いていた。
 ただ、街の中が安全だった為に外の世界の危険さを完全に忘れていた。

(でも、このリンゴだけは母さんに――)

 自分の吐息がひどく大きく聴こえる。空気が気管を通っていかず、ぜえぜえとひどい音を立てている。酸欠で、気持ち悪い。
 すでに、少年の命は尽きようとしていた。
 どんなに逃げようとも、追跡者は攻撃の手を緩めはしなかった。
 背越しに聞こえる、鳥にしては大きすぎる羽音。カチカチという嘴(くちばし)をぶつける音。
 少年は、自分の人生がここで終ることを漠然と感じていた。

(母さん、ごめんね。リンゴなんて高くて買えないから――)

 ついに、足が縺れ(もつれ)、転倒してしまった。
 ただ、病床の母に甘くておいしいリンゴを食べさせてあげたかっただけなのに。
 街の外にリンゴの木があることを聞いていたから、取ってすぐに帰るつもりだったのに。

(もう、動けな――――)

 もはやうつろな彼の眼に、自分を追跡してきた化け物の姿がおぼろげに映った。
 確かに、鳥のようではあった。二つの羽を持ち、鋭い嘴を持つ怪鳥。
 ただ、その体は八歳になる少年を一飲みにできそうなほど大きかった。
 そして、目が一つしかなかった。
 明らかに妖怪の類のようだった。

(そういえば、街の中にも行っちゃいけない場所があったっけ…)

 もう恐怖も感じない。段々と体が冷たくなっていくのも、すでにわからない。
 ぼんやりとした頭で、少年は思った。

(街の一つ目の白い化け物も、怖かった)

 少年は、一度だけ見た街に棲む白い化け物の姿を思い出していた。
 一つ目、片腕の白い化け物。

(怖……かった――――)

 少年の体から完全に力が抜けてゆく。
 背中をついばまれている感覚はあるけれど、痛みは感じない。
 視界も霞んできた。

 彼が摘んだリンゴだけが、ただ赤く、鮮やかに彼の眼に映っていた。

(かあさん………………)

 巨大鳥の大きく鋭い爪が、少年を引き裂かんと迫っていく。
 引き裂かれれば、彼の体は旨そうに喰われるだろう。
 少年は、その時を悟り体の力を抜いてゆく。

 だが、いつまで待ってもその時は訪れなかった。
 すべては一瞬のできごとで、少年の眼には何も見えなかった。
 巨大鳥の頭が突然吹き飛んだのだ。
 化け物の血が噴水のように少年に降りかかってゆく。
 ふと誰かに抱えられた。
 力強くも優しい腕が、少年の体を包み込む。

(あったかい………)

 白い風が、通り過ぎた気がした。