時のうさぎ

「あー忙しい忙しい」
 今年東京の大学に進学し、田舎から出てきたボクが、最初に耳についたのがこの言葉だった。
 東京の人は動きが速い、とか、時間の流れが速い、なんて事をよく聞いていたが、本当に田舎とは違う時間が流れているように感じられた。歩く速度が違う。ご飯を食べている時でさえ、何かに急かされているように見えた。

――何をそんなに急いでいるんだろう
 いつもそう思ったものだった。
 ボクは何をするにものんびりで、朝は早めに起きて、ゆっくり一時間かけて朝食を食べる。
 そのあと三十分かけてお風呂に入り、十分かけて歯を磨く。
 そして早めに家を出て、ゆっくりと朝日を浴びながら徒歩で一時間かけて学校へ行くのだ。
 それは、入学から二年経った今でも変わらなかった。「お前の周りは空気がゆったり流れてんな」なんて褒め言葉とも皮肉ともつかない言葉をよく言われるものだった。
 今日は午後からしか講義がなかったので、春の日差しとささやかな風を心地よく感じながら、あちこち寄り道してゆっくりと学校へ向かっていた。
 今日もボクの横を、風を切って東京の人たちが追い抜いていく。男の人も女の人も、子どもも大人も何かに追われるように視界の中を通り過ぎていった。
「あー、忙しい忙しい」
 ボクは、またその声を聞いた。
 この言葉を聞くと、なんだか自分が不思議の国のアリスになったようで、可笑しい。クスクスっと笑ってしまった。

――忙しい忙しい、って言ってるのが大きな時計を持ったウサギだったら夢があっていいのになあ。

 ボクは酷く子どもじみたことを考えている自分に苦笑した。
 ふと、どんな人が忙しくしているんだろうと気になり、そちらを見た。
 ボクと同じ目線には、誰もいなかった。少し目線を下げる。
「う、うそでしょ…」
 驚いた。余りの驚きに頭が真っ白になった。
 そこには、子どもの頃に絵本で見た「不思議の国のアリス」に描かれていたような、二足歩行で服を着た、大きな時計を首から下げた――白いウサギが走り回っていたのだ。
「あー忙しい忙しい」
 いくら田舎から出てきたボクだからと言って、東京に二足歩行のウサギがいないことくらいはすでにわかっている。
 ボクの腰ほどの身長をした純白のウサギが、「忙しい」を連発しながら大きな足で走り回っていた。少し下腹の出ているウサギは、パリっとしたワイシャツと、よく手入れの行き届いた灰色のスーツを着て、赤い蝶ネクタイをつけていた。
 ウサギは特に何かをしているわけではなく、ただ目の前の街路樹の周囲をぐるぐると回っているだけだった
「あー、忙しい忙しい」
 なんだか汗をかいて本当に忙しそうなんだけど、何をしているのかボクにはわからない。
 そこでボクは好奇心に負け、ウサギに声をかけてみることにした。
「あのー、ウサギさん?」
「あー忙しい忙しい」
「何が忙しいんですか?」
「あー忙しい忙しい」
 ボクの事なんか目に入ってないみたいだった。
 無視されて、ちょっと頭に来た。イタズラ心がふつふつと沸く。
 ウサギの進路に立ちふさがり、両手でとおせんぼをした。
「あー忙しいいそがし――!?」
 ウサギは驚いたような顔でボクを見上げ、突然顔を真っ赤にして怒鳴った。
「何をしてくれてるんですか! 私が止まったらどうなると思ってるんですか!!」
「止まったらどうなるっていうんだよ。さっきから、何をしてるんだって訊いてるんだから、別に教えてくれたっていいだろ」
 アリスのウサギは興奮冷めやらぬ様子で、ボクににじり寄ってくる。
「私が止まったらあれですよ!!私が、止まったら…止まったら…あれ、どうなるんでしたっけ」
「ボクが知るかよ」
 ウサギは突然考え込んでしまった。
 ふと、ウサギに対等に話し掛ける大学生は、端から見たらどれほど奇妙に見えるのだろうか気になる。ちょっぴり恥ずかしくなった。
 ここは昼間から人通りも多い道なのだ。さっきまで、スーツ姿のサラリーマンや、主婦の人たちなんかが、何人も通リ過ぎていたのだ。
 しかし、どこか様子が変だった。
「あれ、皆さん、何で止まってらっしゃるんでしょう?」
 ウサギが不思議そうに言った。そうなのだ、みんなその場に凍りついたように微動だにしない。
「ウサギ…もしかして君のせいじゃないの?」
 我ながらこんな考えは、ばかばかしいとは思う。でもそうとしか思えないのも事実だった。
「うーん、どうでしょう」
「っていうか、君は何をしてたのさ?」
「そう言われてみると何もしていなかったような…」
「忙しいって言ってたじゃないか」
「忙しかったような…」
 まったく会話が通じない。
 ボクは大学の講義の時間が迫っているような気がして、左腕につけた時計を見た。
 デジタル腕時計の、秒読みが止まっている。今朝まで動いていたから、壊れていることはなさそうだ。
 周りを見ても、やっぱり皆動かない。
 猫も犬も、ハトも止まっている。
 ハトなどは空中で止まっていた。ハトが羽ばたきもせず空中にホバリングできるなんて聞いたこともなかった。
 東京のハトはホバリングできるんだろうか。ボクは本気で、東京は恐ろしいとこだと思った。
 視線を戻すと、ウサギはその場にへたへたと座り込んだ。
「私、少々疲れました」
 そう言ってスーツの内ポケットからハンカチを取り出して汗を拭き始めた。
 キレイに四つ折りに畳まれたそれは、アイロンがかけられていて、ウサギの律儀さを表しているようだった。
「君、なにかしなきゃいけないんじゃなかったの?」
 ボクは訊いた。
「そうなんですよねぇ…私も仕事の最中だったはずなんですけど」
「また動いてみたら思い出すかもしれないよ?」
「でも、私ももう疲れてしまいましたからねぇ」
 そう言って次から次へと溢れ出てくる汗を、せわしなく拭きつづけている。
 ボクはなぜだかウサギがかわいそうになった。
 ふと、力になってあげたいと思った。
「よし、じゃあボクの背中に乗りなよ」
「え、いいんですか? 私、最近おなか出てきたので重いですよ?」
「まぁ、大丈夫でしょ」
 ボクはウサギを背負って歩き出した。確かに、ボクの腰ほどしかない身長の割りに、ずっしりと重かった。
 背中から、ウサギの荒い息遣いと、汗ばんだ体を感じた。いくら四月とはいえ、春の陽気の中スーツで走り回っていれば誰でも暑いだろう。それに、彼はウサギだ。びっしりと生えた白い毛がより一層暑さを増しているはずだった。
 ボクは、ウサギの体重と共にウサギの背負っているものの「重さ」を感じた気がした。
 背中に体温と呼吸を感じた。さっきまでは感じなかった風が、ボクの頬を撫でた。緑の息吹を乗せた風が、軽く汗ばんできたボクの体には気持ちよかった。
 なんとなく空を見上げた。雲ひとつない、青い空が目に眩しい。鳥達もゆっくりと空を舞っている。
 人々も、ボクの動きに合わせるようにゆっくりと動いていた。
――そう、いつのまにやら周囲が動き始めていた。
 ただし、ものすごくゆっくりと。
「あぁ、動き出しましたねぇ」
 ウサギがどこか他人事のように言った。すっかりボクの背中が気に入ったようで、背中に体重を完全に預けてくれている。
「やっぱり、君の仕事って動くことなのかな?」
「でも、もう私も疲れましたよ。年中走ってるんですよ? 休みだってほしいですよ」
 ボクは、酷く人間くさいことを言うウサギに、同情しつつも笑ってしまった。
「あ、笑いましたね。ひどいです。夏なんか汗びっしょりなんですよ?」
「あはは、ごめんごめん。今はボクが動くから休んでてよ」
 マイペースでゆっくりと歩いた。
 やっぱり東京らしからぬ、ゆっくりとした空気が流れている。
 ここが東京だからか、ゆっくりと動く風景に違和感は感じるけれど、なぜだかボクには懐かしさが感じられた。
「でもさ、ウサギさんも、ゆっくり歩けばいいじゃない」
「でもですねぇ、ボクの担当は、都市部ですからねぇ」
「君、自分の仕事思い出したの?」
「ああ、そうでした。思い出したのを忘れてました」
 頭がいいのか悪いのかわからないウサギだ。
「じゃあ君の仕事ってなんなのさ」
「あれ、おかしいですねぇ。よく考えたら…」
 ウサギはボクの質問には答えず、「おかしいなぁ」なんて言いながら首を傾げている。
「私の姿は普通の方には見えないはずなんですよね…」
「じゃあボクは普通じゃないっていうこと?」
「普通じゃないです。それに、私が止まったときになぜあなたは動けたのでしょう?」
「あー、確かに」
 ボクは完全にウサギのペースに飲まれてしまったらしい。
「うーん、おかしいですねぇ」
「おかしいね」
 ボクらの間にはボクの歩みと同じだけのゆっくりとした時間が流れた。
「まぁ、そんなことどうでもいいですね」
「そうだね」
 本来深く考えない性質のボクは、もうどうでもよくなっていた。
「ねぇ、ウサギ? きみの名前はなんていうの?」
「名前…名前ですか。なんだったっけなー」
「自分の名前だよ?」
「そもそも名前なんて必要ありませんでしたからねぇ」
「そっか」
「名前なんてなくったっていいじゃないですか」
「じゃあ、君の仕事はなに?」
「さあ、たぶん時間を運んでるんだと思いますが…」
「時間は刻むものじゃないの?」
「そう…なんですか?」
「日本語では、時は刻むものだね」
「じゃあ私は、時刻家ですか」
「政治『家』みたいなものか」
 ボクらはゆっくり会話をしながら歩いた。
 柔らかい日差しに、ゆっくりと進む時間。東京の街を初めて『いい街だ』と感じた。
「あー!!」
 もうすぐ大学に着くというところで、突然、ウサギはビクリと体を硬直させて奇声を発した。
「まずいですまずいです! 東京の時刻が遅くなってます!」
「君、気づくの遅くない?」
 いまさら、という感じだ。
 ウサギは心底慌てた様子で、ボクの背中で暴れ出した。せっかく引いた汗がまた噴出してきた。
「人間さん、もっと急いでください」
「やだよ、重いもん」
 ウサギは困ったような声を出した。
「お願いしますよー。給料減らされちゃうんですよー」
「給料制なの?」
「困るんですよー。欲しいものがあるんですよー」
「じゃあ自分で走ればいいじゃない」
「でも走るの面倒だしなー。背中の上は楽だしなー」
「じゃあ、少しくらい諦めるんだね」
「そんなあ…」
 ウサギはがっくりと肩を落とした。
 ボクは、あまりにそのしぐさが愛らしかったから、また笑ってしまった。
「あ、また笑いましたねー。ひどいです」
「ごめんごめん」
 ボクらはまた歩き出す。今度は密かに少しだけ、足を早めて。
 行く手にボクの通う大学が見えてきた。
「ウサギさん。そろそろボク大学行かないと…」
「そうですねぇ。これ以上サボっていると私も怒られてしまいますしねぇ」
「ウサギさん。これからはもう少しゆっくり歩いたらどう?」
 ウサギは今度は泣きそうな顔をした。
「私だって本当はそうしたいんですけど…」
「だめなの?」
「私が担当している都市部の人たちは、早いのがお好きみたいで…」
 ボクは東京に来てから感じていた違和感の正体を知った。
 東京は時間の流れが早く感じるのではなく、本当に『時間が早く流れる』場所だったのだ。
 一日があっという間に過ぎて、あっと言う間に歳をとって。後には何が残るのだろう。
 ボクは心からウサギに同情していた。
「みなさんに無言で急かされるんです」
 大きな目に涙を貯めて、ウサギは訴えかけるように言う。
「いいって。無視してゆっくり歩きなって」
「でも…」
「どうせみんなわからないよ」
「人間さんって時間が遅くなってもわからないんですか?」
 心底驚いた表情でウサギがボクに訊いた。
「わかるわけないじゃない」
「でもあなたは、みなさんが早いと気づいたのでしょう?」
 漠然としたボクの不安を、このウサギは読み取ったのだろうか。
「なんでわかったの?」
「あなた、忙しいって言っている人を見ると、必ず笑っていましたから」
「ボクを見てた?」
「いえいえ。なんとなく、そんな気がしただけです」
「まあ、ボクみたいにマイペースで生きるといいよ」
「ストレスなさそうでいいですね」
 ウサギは心から羨ましそうに、ため息を吐く。
 本人にその気はないのだろうけど、トゲのある言葉だ。
「そうだね。マイペースが一番」
「ボクもあなたを見習ってみましょう」
 ウサギは、ちょっと気を取り直したようだ。
「それではボクも仕事に戻りますね」
「あー、ウサギ? 名前は?」
「ボク? ボクは以前神様に助けられたイナバ、と申します」
 そう言ってウサギは別れも言わず、煙のように消えてしまった。
「因幡の白兎…まさかね」
 因幡の白兎といえば――むかしサメを騙して利用したら仕返しをくらって、皮を剥がれちゃって泣いているところを大国主命(おおくにぬしのみこと)っていうえらい神様に助けてもらったウサギだ。大国主命っていうのは、八つの頭を持つ怪物・ヤマタノオロチを倒したことで有名な須佐之男命(すさのおのみこと)の子どもで、日本の国の基礎を作ったといわれるほどの大物神様なのだ。
 確か、大国主命を美しい姫と結婚させて、そのあとは兎神になったんじゃなかったか。
 ボクは空を見上げて、返ってくるハズもない質問を投げた。
「また会えるかな」
「会うってなんです?」
 思いもせず、どこからか声が返ってきた。
「だからボクと君とが、さ」
「私はいつもあなたの近くで走っていますよ」
「またお話できるかな」
「どうですかね〜。息切れして話すどころじゃないでしょうね」
「君は時間の神様なのかい?」
「私はただのウサギですよ」
 ボクらが忙しくしてるとウサギも忙しくて泣きそうになってるだろうから、自分だけはせめて余裕を持ってゆったり生きようと心に誓った。
「神さま、イナバに休みをあげてください」
 なんとなく、そう祈った。