とある木のお話


 それはまだ僕が小さかった……葉っぱが数枚しかなかった子供の頃の話だ。


 気づけば僕は、砂漠のど真ん中にひとりぼっちで立っていた。空を見上げれば降るような満天の星、地上を見渡せば鬱金色に滲む稜線。その他は何もない。僕はとても気紛れな風に乗せられて、たった一粒、砂漠のど真ん中まで飛んできたみたいだった。
 あーあ、本当についてないや。よりにもよって、砂漠なんかで芽を出すなんて。
 砂漠の昼は暑く、夜は寒く、そして何より困ったことに水がほとんどなかった。こんな状況で、よく種の殻を突き破って顔を出せたもんだと思う。
 でもここで大きくなれる見込みはないな。二日もしたら乾いて縮んで、砂と同化してしまうんだろう。
 飢えと乾きに朦朧としながら、僕は度々見事な大樹に成長した夢を見た。遊び疲れた精霊達を枝で休ませながら、その歌声に耳を傾けている夢。たくさんの葉っぱをつけて、さらさらと世界中の木とおしゃべりしている夢。夢が幸せであればある程、現実に戻ったその瞬間が、泣きたくなるくらい惨めだった。


 ひょっこり芽を出してから、一体どれ程月日が流れたろう。時々山から吹き降ろしてくる濃い霧のお陰で、僕は思ったよりも長生きしていた。
 長生きした分、体が成長した。そして体が成長した分、より多くの水分が必要になった。霧が分けてくれる水だけじゃもう限界、ここ数日のうちに、間違いなくお迎えがくるだろう。せめて安息の園では、豊かな森に根を下ろせますように……。
 僕から水気を奪うにっくき太陽が地平線に沈む中、少し離れたところを旅人が歩いていく。ゆっくりと近づいてきて、ゆっくりと遠くなっていくはずの足音が、突然ぴたっと止まった。
「姫、あんなところに杉が生えています」
 あんなところ? 杉の木? ……もしかして僕のこと?
 あれれ、何だろう、旅の人達が近寄ってきた。この広い砂漠の中、死にかけた木なんかに目を留めるなんてよっぽど注意深いか、逆に注意力散漫なのかのどちらかだね。
 旅人は二人連れで、睫の長い白いらくだを連れていた。薄桃色のローブを纏った女の人がらくだに乗って、白っぽいプレートアーマーをつけた男の人が綱を引いている。僕に最初に気づいたのは男の人の方だ。
 女の人が目元まで被っていたフードを引き下ろした。赤い大きな目で僕を見て、まあ、と驚きの声を上げる。そのあまりに素直な……ある意味無神経な驚きっぷりに、僕はいささかカチンときた。僕だってこんなところに好きでいるわけじゃないよ。自由に動くことさえ出来れば、緑豊かな森で暮らしてるさ。
「枯れかけていますね、かわいそうに」
 男の人がかさかさに乾いた僕を支え起してくれた。嬉しいと思う反面、僕は僕のみっともない姿が恥ずかしかった。
「お水をあげたら元気になるかしら?」
 おっとりした雰囲気の女の人は、案外身軽にらくだから飛び降りて、僕に水をかけてくれた。生まれて初めてたっぷり与えられた水を、僕は一滴も逃すまいと必死に啜った。けだるさしかなかった枝先にまで活力が漲っていく。死の間際に生きる喜びを知るなんて皮肉だなあ。
「毎日お水をあげに来ることが出来ればいいんだけど」
 水嚢から最後の一滴が滑り落ちると、女の人は困った顔で男の人を見上げた。
「ねえグレン、このままにしておいたら、この木は枯れてしまうわ。せっかくここまで大きくなったのに」
「はい。でも大丈夫です。このままにはしておきませんから」
 男の人はそういいながら、僕の横に膝をつく。
「こんなところで一人ぼっちは寂しいですしね。連れていきましょう」
 男の人が僕の周りの砂を掻き始めた。何が始まるのかとおろおろしている間に、女の人が張り切ってそれに倣う。二人は犬みたいにせっせと穴を掘り、砂塗れになりながら、僕の根を完全に掘り出してくれたんだ。


 そんなこんなで、僕は奇跡的に不毛の大地から脱出することが出来た。
 僕が改めて根を下ろしたのは、豊かな赤土がこんもりと盛り上がった丘の上だ。僕が死にかけていた砂漠は見下ろせる位置にあるけど、ここには栄養も水もたっぷりある。
 近くにムーンブルクとかいう国の関所があって、女の人はそこに早足で向かっていった。鎧を着た人達がすっごく緊張した顔で迎えていたから、この人達ってもしかすると偉いのかもしれない。あんまりそうは見えないけど。
「君がいた砂漠は昔、大きな森だったんだって。竜王の出現で大地が荒れて以来、生き物が寄りつかない砂漠になってしまったそうだよ」
 周りの土を馴らしながら、男の人が僕に語りかけてきた。
「今ムーンブルクの国王陛下が、この地に緑を戻そうと計画されている。二年後には植林が始まる。君の周りは仲間でいっぱいになるよ」
 あの砂漠を森に変えるって? 草一本、虫一匹生きることが出来ないのに? あまりに途方もない計画を聞かされて、僕は全身の力が抜けそうになった。それは僕が砂漠で毎日のように見ていた、あの夢よりもっともっとありえない話だよ。
 だけど呆れるにはまだ早かった。男の人は身を屈めると、とっておきの秘密を打ち明けるみたいに、楽しそうに僕に囁いたんだ。
「そこで君にお願いがあるんだ。ここに出来る森の、王様になってくれないかな」
 意味不明です。僕は王様になれるような木じゃありません。大事な時期に満足に栄養を取れなかったせいで、枝も幹もみっともないくらい細いし、背だって人間の膝にも届かない。僕なんかより王様に相応しい木はそこら中にごろごろいるよ。
 僕がいじけると、男の人はそれが聞こえたみたいに笑った。
「僕と君はよく似てる。僕も昔は弱くて頼りなくて、自分に自信がなくて……正直言うと今だって、そんなに自信があるわけじゃない。でも君がここでがんばってくれるなら、僕もローレシアでがんばれるような気がするんだ」
 軽く草を踏む音がして、女の人が小走りに駆けてきた。男の人は立ち上がり、優しく目を細めてそれを迎える。彼が彼女をとても大切に思っていることが、伝わってくるような表情だった。
「お水をもらってきたの」
 女の人は水差しを傾けて、たくさんの水をかけてくれた。萎れた葉っぱから水滴が落ちる感触が、嬉しくて嬉しくて堪らない。さっきは無神経なんて言ってごめんね、美味しい水をありがとうと思う僕は我ながら現金だ。
「この子と何を話していたの?」
「森の王様になってくれるようにとお願いしていました」
「引き受けてくれた?」
「多分大丈夫だと思います」
 まだ返事してませんとつっこみを忘れるほど、ぽややんとした会話がほのぼのと交わされる。こんな調子で大丈夫なんだろうか、この二人。悪い人に騙されないといいけど。
「ここはマイラの迷いの森のような、大きな木の王国になると思うんです。姫はあの森に何本の木があったかご存知ですか?」
 女の人が首を傾げると、男の人は十万本と、とんでもない数を口にした。
 十万本、十万本、十万本……十万本の木が生えている光景というのが上手く想像出来なくて、僕は途中で考えるのを止めた。彼が思い描く光景は、きれいだけどまるで現実味のないお伽噺じゃないか。
「そうね。きっとマイラの……ううん、それにも負けない森になると思うわ」
「姫もそう思われますか?」
「グレンがそう思っているのなら、絶対になるもの」
 膝を抱えるようにしてしゃがみこみ、女の人は僕の高さに目線を合わせた。
 女の人の瞳はよく晴れた日の夕焼けのよう、いっぺんの曇りも疑いもない。彼は大地が生まれ変わることを信じているし、彼女はそんな彼を信じている。そんな風に彼女が信じてくれるから、彼はより強く全てを信じることが出来るんだ。
「あの砂漠を耐え抜いた強い木だもの、あなたはきっと立派な森の王様になるわ。後からくるたくさんの木を大事にしてあげてね」
 そしてそんな二人が、僕を信じてくれていた。
 ホントかな、なれるかな。大きく強くなって、たくさんの仲間を守れるような木になれるかな。いじけていた僕の心が、水を与えられたみたいに静かに力を取り戻していく。
「僕も負けないようにがんばります」
 女の人は立ち上がって、右手に男の人の手を、左手に僕の枝を取る。そして大丈夫だという風に、指先にそっと力を込める。彼女の柔らかい手を通して、運命の一部が繋がった気がした。


 さて、それから流れた百年という歳月と弛まぬ努力は、二人があの日語り合っていた光景を現実にした。僕は人の力いうものを少々見くびっていたように思う。
 ムーンブルク王は三万本の植林を終えた後、更に販売物として関所に幼木を用意したらしい。そこを通過する旅人がそれを安価で買取り、自分だけの思い出の木を植えるという仕組みだ。平和な時代にこの企画は当たったようで、旅人達は競い合うように木を植えて去っていった。僕のまわりはあれよあれよという間に木でいっぱいになった。
 砂漠の半分は牧草地に、半分は森と化し、瑞々しい四季を幾度となく繰り返した。一度徹底的に汚された大地は、辛抱強くあるべき姿を取り戻したんだ。
 ゆっくりと森が成長していく中、北から渡ってくる鳥や風から、僕は時々あの二人の話を聞いていた。
 全く全然ちっともそうは見えなかったけど。あの男の人は竜王退治、続いて北大陸平定に尽力した勇者だったそうだ。あれから間もなく新興王国ローレシアの王に即位し、周囲の助力を得ながらもちゃんと務めを果たしたという。
 即位式では緊張のあまり顔面蒼白だったとか。子供が生まれた時の喜びっぷりは凄かったとか。神聖サマルトリアの立国を提案したとか。成人した子に王位を譲ってお気楽隠居生活を始めたとか。孫が出来ても相変わらずあの調子で周囲は呆れ顔だとか。楽しく聞いていた噂は三十年を過ぎた頃から少しずつ数を減らし、五十年を越えた辺りでぱったりと途絶えた。
 だけど僕は進んで二人のその後を尋ねはしなかった。そうすれば二人は変わらず元気でいて、何時か会いに来てくれると信じることが出来るから。
 信じれば何でも叶うとは思っていない。僕が生きた百年という間には、消えた夢も費えた希望もたくさんある。人の命が朝露のように儚いということも十分に理解している。
 でもあの二人との再会を信じて生きていく日々は楽しい。朝には今日に希望を乗せることが出来るし、夜には明日に望みを託すことが出来る。それは僕にとって信じるに値する夢だ……例えどんなに途方なく、果てしないものであっても。


 昔のことを思いながらとろとろとまどろんでいると、下方から人の話し声が響いてきた。おや珍しい。旅人がやってくるなんて何ヶ月振りだろう。
 青い剣士風の男の子、緑の神官風の男の子、赤い魔術師風の女の子の三人連れ。青い男の子が幹をぱんぱん叩きながら、眩しげに僕を見上げる。
「でっけー木だなあ」
 ひょろひょろと頼りないばかりだった僕も、今や森一番の大樹に成長した。ごつごつと張り出した岩のような根、どっしりと太い幹、緑の天蓋を成す逞しい枝。幼かったあの頃、砂漠で何度も夢見た姿そのものだ。
「この森の王様よ。砂漠の真ん中に生えたこの木が、不思議な力でこの辺を森に変えたってばあやが言ってた」
 それは凄い。伝説にも噂同様、尾鰭背鰭がつくというけど、僕も随分神秘的な存在になったもんだ。おかしくて葉っぱを鳴らすと、それに合わせて仲間達も一斉に笑い出す。
 でも最近になって、僕に不思議な力が宿り始めたのは事実だ。たくさんの精霊が僕の枝や葉で遊び、その度残していく魔力の影響だろう。この森を覆おうとする得体の知れない力を、僕は何度弾き返したか分からない。
 一度平和を取り戻したはずの世界が、不穏な空気に包まれ始めたのは十年ほど前からだ。せっかく緑を取り戻したここら一体にも異変が生じ、豊かだった牧草地帯は不毛の地へ逆戻りした。僕達の王国ぎりぎりにまで、乾きの波が押し寄せているような状況だ。
 最近では旅人も減り、木を植えてくれる人も少なくなった。寂しさを感じていたさなかに訪れてくれたことが嬉しくて、僕は旅人達を歓迎する。
「さて、のんびりしている暇もない。早く木を植えなくては」
 更に嬉しいことに、久しぶりのお客さん達は、それぞれ一本ずつ苗木を用意してくれていた。
「俺、あっち」
 青い男の子は迷いもしないで、一足飛びに湖に向かっていった。ざくざくとあっという間に大きな穴を掘ると、だだっ広いその中央に苗木をちょこんと置く。
「腹減ったら悲しくなっちゃうからさ。いっぱい食えるところに植えてやるな」
 うんうん、そうだね、お腹空くのは辛いよね。僕も経験者だからよく分かる。でもあんまり水際近くに植えちゃだめだよ、根が腐っちゃうからね。
「僕が三時間かけて選んだ木に相応しい場所を探さなくては。美しいジュリエットは将来、森の女王と呼ばれることだろう」
 緑の男の子が目指すのは、森の中にぽっかり開けた花畑だ。森の女王ということは、彼の手にある小さな女の子が何時か僕のお嫁さんになってくれるんだろうか。双葉がつやつやしていて、きれいな形で、なかなかの美木だね。
「光の当たり具合、風の流れ方、溢れる鮮やかな色彩。何もかも完璧な僕だが、木を植えるという単純作業にすらこのような才能を発揮してしまうとは……」
 男の子は至極ご満悦な様子でふっと前髪を払った後、妙に気取った素振りで穴を掘った。木を植えた後はぶつぶつと呟きつつ、懐から取り出した雑記帳に文字を書き連ねている。彼がお義父さんになると思うとちょっと怖い……。
 赤い女の子は場所を決めかねてしばらくうろうろしていた。森の奥に行ったと思ったら結局戻ってきて、僕のすぐ傍に穴を掘り始める。僕の翳す枝が、優しい陽光を遮らない場所。僕の太い幹が、冷たい北風を遮る場所。君の選択は正しい、そこは穴場だよ。
「大きな木になってね」
 女の子は柔らかく土を被せながら囁いた。
「……あのね、あたしが暮らしていた国、なくなっちゃったの。でも旅が終わったらあたしが必ず復興させるんだ。あなたが大きくなるのとあたしが国を復興させるの、どっちが早いか競争ね」
 ああ、そうか。この女の子はムーンブルクの出身か。
 ムーンブルクの大地から不吉な力が弾けた瞬間は、僕のみならず森全体が震え上がった。あの時あの場所で何が起こったのか、詳しいことは何も分からない。何しろその場に居合わせた命は、ほとんど死んでしまったのだから。
 女の子は作業を終えると、手についた土を払いながら僕を見上げた。
「あたしの木をよろしくね」
 僕はその時初めて、女の子が僕を助けてくれた女の人に似ていることに気づいた。違うと言えば髪の毛の色くらいだろうか。瞳の輝きも鼻の形も、にこにこ微笑む表情まで鏡に映したようにそっくりだ。
 男の子達はその顔立ちや体つきに二人を髣髴とさせるものはない。でもたった一つだけ、決定的なのはその目の色。晴れた日の空を掬い取ったような澄んだ青は、あの男の人に瓜二つだ。
 ああ、そうか。僕が思っていたのとはちょっと違う形だったけど。あの二人は百年という時を経て、僕に会いきてくれたのかもしれないな。
 ねえ、今の僕はどう見える? 君達が思い描いていたような森の王になっていればいいんだけど。僕が問いかけると、女の子の唇を通してその答えが返ってきた。
「あなたが傍にいてくれれば平気よね。だってこんな立派な森の王様なんだから」
「ナナ、そろそろ行こう」
「置いてくぞ」
「待って、今行く!」
 女の子はじゃあねと苗木に微笑みかけて、男の子達の後を追った。さっさと歩き出していたはずの男の子達は、ちゃんとあの子が追いつける距離しか離れてない。
 元気でいっておいで。そして無事に帰っておいで。僕は風や小鳥達から、今度は君達の話を聞かせてもらうよ。
 葉脈を透かす木の葉の間を精霊達が飛び交い、その後を夏の風が追いかける。さわさわと葉が揺れる都度、僕は銀色の風に祈りの言葉を乗せた。
 世界に根を下ろす僕の同胞よ、あの子達が雨に打たれた時には頭上に枝を差し伸べてくれ。あの子達が寒さに震えた時には暖かいうろに匿ってくれ。あの子達が渇いた時には澄んだ雫を、あの子達が飢えた時には甘い果実を分け与えてくれ。
 風は山を、川を、渓谷を越えて世界の果てにまで渡る。ややあって返ってきた数多の快諾の中に、世界樹の応えがあるのを知って僕はびっくりした。
 世界樹は空の国の大樹。精霊神ルビスに縁ある神木。万物の傷を癒し、あらゆる命を救う世界樹の守りを得たなんて、こんなにも心強いことはない。あの子達が助けを必要とした時には、きっと神秘の力が授けられるだろう。
「凄ぇ風。森がごうごう言ってるぞ」
「だが美しい響きだ。僕を慕うレディが誕生日に奏でてくれた楽器の響きにも似ている。そう、あれは僕の十五歳の誕生日。レディ達が津波のように押し寄せて僕が愛の海に溺れそうになった時……」
 三人の声が遠ざかり、姿が消えると、森はまた何時もの風景を取り戻した。少し寂しく感じる静寂の中、僕は足元に植えられた苗木を見下ろす。
 まだ生まれたばかりの小さな木。若葉を水滴で彩りながら、しゃんと誇らしげに背筋を伸ばしている。僕があの二人の言葉を抱き続けているように、この子も女の子の想いを背負っている。きっと大きく強い木になるだろう。
 まだ幼い命が、たくさんの木々に合わせて風に歌を乗せる。奇しくもこの子は、僕を助けてくれた人達が夢見てた、十万本目の僕の仲間だ。