あの日の約束


「あのね、三人で絵を描いて貰わない?」
 それはようやく涼しい風が吹き始めた、夏の夕暮れのこと。
 食後のお茶を啜っていたナナが、何の前触れもなくそんなことを言い出した。五人前の定食を平らげて幸せなアレンと、請求書を見てこめかみに青筋を浮かべていたコナンが同時にナナに注目する。
「……絵?」
「そう。この前、あたし達の十七の誕生日だったじゃない。その記念に三人で一枚どうかなと思って」
「嫌だよ、面倒臭ぇ」
 アレンは鼻に皺を寄せ、ナナの申し出をすげなく却下する。じっとしていることが何よりも嫌いな彼にとって、絵のモデルなど拷問にも等しい。
「一枚だけよ、ね?」
「嫌だったら嫌だ」
「ちょっとだけだから」
「しつけぇなぁ」
 アレンはむっと口を尖らせて、何時になく必死に食い下がってくるナナを睨みつけた。
「お前一人で描いて貰えばいいじゃん。俺は絶対に行かねぇぞ」
「ダメよそれじゃ。一人じゃ意味ないもん」
「意味って何の意味だよ」
「何って……」
 ナナは不意に口を閉ざし、数秒の沈黙を置いたのち力なく俯いてしまった。何時もは一歩も引かないナナの、あまりにらしくない落ち込みようにアレンは少なからず動揺する。
 それまで黙って様子を見ていたコナンが、心持ち身を乗り出すようにしてナナの顔を覗き込んだのはその時だ。
「それではこれから町に行ってみようか?」
「ホント?」
 雲間から日が差し込むように、ナナの表情がぱっと明るさを取り戻す。
「あたし昨日、この町の絵描きさんとお喋りしたの。今日は西の橋のたもとにいるって言ってた」
「よし、そこに言ってみよう」
「ちょっと待て、勝手に……」
 反論しようとしたその時、コナンの爪先が思い切りアレンの足を蹴飛ばした。向こう脛を蹴られて悶絶するアレンをちらりと横目で見やって、コナンは改めてナナに頷く。
「アレンにも異論はないようだ。出かけよう」


 ご機嫌で町を行くナナの背で、ふわふわと巻き毛が弾む。街灯を浴びて柔らかなオレンジ色に染まる髪は、彼女の華奢な背中を覆うほど長い。
 彼女に数歩遅れた位置で、アレンとコナンが歩を進めていた。仏頂面を隠そうともしないアレンに、視線をナナの背に留めたままコナンが囁く。
「形に残したいんだよ、ナナは」
「え?」
「僕達が共に旅をしたという形だ」
 意図が掴めず、アレンはぱちぱちと瞬きを繰り返すばかりだ。
「僕達の旅も何時かは終わる。それが勝利か敗北かは分からないが……何れにせよ別れの時がくる。ナナは僕達が旅をしたという証を、絵という目に見える形で残しておきたいんだ」
 ふうと吹き抜けた夏の風が、コナンの亜麻色の髪を柔らかく揺らした。
「ナナはそういうことに対して人一倍こだわりがあるはずだ。その理由は君にも察しがつくだろう?」
「……」
 親を殺され国を奪われ、獣に身を窶して町をさまよっていた彼女には、思い出の品など何一つ残されていないのだ。胸に秘めた思い出もそれはそれで輝かしいが、時には形あるものに触れて、昔日を懐かしみたい時もあるのだろう。
「大人しく付き合う気になったかい?」
 物事を表面的に捉えがちなアレンは、そういった心の機微に疎い。ささやかな表情や仕草から本心を探るなど神業にも等しい行為なのだ。
「……分かったよ」
 唇を尖らせたまま、それでもアレンはようやく首を縦に振った。
 先刻のナナとのやり取りを思い起こす都度、胸に苦い感情が浮かんだ。悪いことをしたと反省するものの、今更謝るのも何だか気恥ずかしくて思い切りがつかない。
「……」
 アレンはずかずかと早足で歩き出し、先を進むナナとの距離を縮めた。そしてその傍らを追い越しざま、彼女の手を握り込む。ナナの掌はアレンのそれにすっぽりと覆われるほど小さい。
「……いきなりどうしたの?」
「さっさと行かないと、爺さんいなくなっちゃうかもしれねぇだろ」
 小柄なナナを半ば引き摺るようにしてアレンが歩く。その有様に小さく肩を竦めつつ、コナンは二人の後を追った。


   水面を滑る夜風が暑さに参った体を心地よく冷やしてくれる。昼間の暑気と喧騒が嘘のように、町は穏やかな静寂に包まれていた。
「自然な表情を描いてくれとのことでしたが」
 手にしていた鉛筆で、初老の絵描きはこめかみの辺りを掻いた。
「一番大きいそこのあなた、もう少し肩の力、抜いてくれませんかね」
 直立不動の体勢で、アレンは力むあまりこちんこちんに固まっている。小突けばそのままの形で後ろに倒れてきそうだ。
「君も一応は王族だろう。もっと優雅に美しく、気品のあるポーズをつけられないのか。滑稽極まりない」
 嫌味ったらしく肩を竦めるコナンに、アレンは強張る口元を思い切りへの字に曲げた。
「お前みたいにバラくわえてる方がよっぽど変だっての。大体何でそんな変な姿勢なんだよっ」
「これは僕が熟考して編み出した美しいポーズ第四十五、名づけて雪間に踊る薔薇の白鳥だ。この肘から指先のかけての線の美しさを、君に理解できるとは思えないがね」
「理解したくねぇよ」
 そのやり取りに我慢ならないという風情で、ナナが大仰な溜息をつきつつ振り返る。気取った風に頤を上げて二人を叱責するのだ。
「二人ともあたしみたいに自然に出来ないの? 絵描きさんが困ってるじゃない」
「何が自然に出来ないの、だよ。澄ました顔しやがって、お前こそ全然何時も通りじゃないじゃん」
「何ですってぇ!」
 怒号を皮切りにアレンとナナの口論が始まり、コナンがイライラと仲裁に入る。収まらぬ喧騒は、やがて夜のしじまを切り裂くような騒動へと発展した。
 絵描きはその騒ぎを呆れ返った顔で眺めていたが、不意に何かを思いついたように眉を持ち上げた。一人でふむふむと頷くと、鉛筆を取って紙に向き合う。線と線が幾重にも交錯し、やがて魔法のように一枚の絵を紡ぎ上げていった。


「変な絵」
 完成した絵を手にしながら、ナナは宿への道を辿りつつ、正直な感想を口にした。
 さほど大きくない紙の上には、三人が喧嘩する様が描かれている。生き生きと躍動感に溢れた見事な描写で、今にもけたたましいやりとりが聞こえてきそうだ。
「あなた達の一番自然な姿です、て爺さん言ってたぞ」
「そのあなた達、の中に僕まで含まれているとはまことに遺憾だ」
「でも素敵。気に入っちゃった」
 頬を明るい薔薇色に染めて、ナナが嬉しそうに顔を上げた。絵を胸に押し抱きながら、今にもスキップせんばかりの様相で歩き出す。
「いい思い出になりそうかい?」
「うん! 魔術書に挟んで大切にする。何時かムーンブルク城が再建したら、一番いい場所にこの絵を飾るわ」
「僕のそのような姿が異国の城に飾られるのは、あまり美しくない事態なわけだが……」
「ムーンブルクがちゃんと立ち直った日、記念にこれを複製してアレンとコナンにも送ってあげるね」
 微妙な表情を浮かべる二人の少年に、ナナは何時もの強引さで約束を取り付けるのだ。
「ローレシア城とサマルトリア城にも飾ってね。絶対に約束よ!」



 からからと歯車の音を響かせながら、一台の馬車がローラの門を向かっていく。ムーンブルク王家の紋が刻まれた荷台には、丁寧に梱包された絵が二枚積まれていた。
 初夏の風が吹き抜けていく空に、魔力を込めた花火が華々しく上がる。
 今日は新しく生まれ変わったムーンブルクで、初代の女王が即位する日。
 勇者の血を引く麗しき女王の、ちょうど二十回目の誕生日。