VALENTINE |
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「ばいばーい」 カタリーナと別れたナナは大路の角を曲がった。夕方の冷気を帯びた風がふうっと吹きつけてきて、反射的にマフラーを引き上げる。踏み出す足が自然と速度を増した。 「……あれ」 通りがかった公園のベンチに、ナナはベリアルを認めた。こちらに背を向ける姿に何時もの気勢は感じない。暗くなり始めた空の下で、それはとても侘しく見えた。 一瞬の躊躇いの後、ナナはベンチに歩み寄った。足音に気づいてか、振り返ったベリアルの目元は心なしか赤い。 「チョコ、あげたの?」 「……」 ベリアルは再びふいと背を向けた。 「くだらないわ、バレンタインなんて。もうあんな男好きでも何でもないし」 傍らのゴミ箱に見覚えのある包みが捨てられている。踏みつけでもしたのか箱はひしゃげ、中のチョコレートがはみ出して土に塗れていた。 彼女の恋は敗れたと見える。癇癪を起こしてチョコレートに八つ当たりしても、傷ついた乙女心は空しさを覚えるだけだ。 ナナは断りなくベリアルの横に腰を下ろした。ベリアルはぐすっと鼻を啜ったが何も言わない。 「これ食べる?」 鞄から取り出したのは、今年もついぞ渡すことのなかった本命チョコだ。包みを開くと、甘いチョコの香りがふわりと冬の空気に滲む。匂いといい形といい艶といい、我ながら良い出来だった。 ベリアルは差し出されたチョコを口に含み、舌で転がしながら憎まれ口を叩いた。 「少ししょっぱくない? わたしが作った方がおいしいわ。やっぱりわたしの方が女王に相応しいわね」 「あんたの舌が変なのよ。大体女王って何よ」 「学園の女王に決まってるじゃない」 ベリアルは遠慮なく次のチョコを口に放り込んで、 「たった一人の男を好きになるなんてくだらない。来年までには学園中の男を跪かせて見せるわ。来年まで何人従わせることが出来るか、競争ね」 「あたしは頭の切れるマッチョなイケメンな彼が一人いればいいもん」 「ふん、腰抜けね」 「何が腰抜けなのよ、意味分かんない」 ちくちくとやりあいながらも、二人はチョコがなくなるまでベンチを立とうとはしなかった。 「今年も溢れんばかりの愛情を注がれてしまった。レディ達の暖かい心が、冬の空に震える心を暖めてくれる……」 玄関から夕暮れの空を見上げ、コナンは一人詩的に囁く。 「この重みを彼女達の心と知ろう。これだけの愛を尽くされる僕は幸せ者だ」 「うわ。すごいチョコだね、コナン。こんなに食べきれるのか?」 堆く詰まれた袋の山に、驚愕の声を上げたのはグレンである。素直に目を見開くクラスメイトに向かって、コナンはふっと前髪を払う。 「勿論。一年かけて彼女達の愛情を楽しませてもらうよ」 グレンがへえと感嘆の声を上げた時、入り口からローラが姿を見せた。三年生と一年生では靴箱の位置が違うから、彼女は一旦外に出てグレンを迎えにきたのだろう。 「グレンとデートですか、ローラ先輩」 「デ、デートだなんて」 「ええ」 グレンがわたわたと否定するのも構わぬ素振りで、ローラはおっとりと頷いた。 「帰りにお茶でも飲んでいこうかしらと思って」 「いけません姫、買い食いは禁止されているんですから」 呆れる程の堅物である。コナンは思わず肩を竦めたが、当事者であるローラの笑みは崩れなかった。 「今日だけ。バレンタインだもの、今日だけいいでしょう?」 「ですが……」 「お願いグレン」 恋心を隠さない瞳に見つめられては、グレンがそれを拒否出来るわけもなかった。 「……分かりました」 呆気なく敗北を喫したグレンと嬉しげなローラが、コナンに手を振って去っていく。初々しい後姿を見送った後、コナンはふっと悟った笑みを浮かべた。 「さて」 気を取り直し、周囲に散らばる袋の群れを担ぎ上げる。いささか間抜けな姿になったが、レディ達の愛を運ぶためなら一時の屈辱も耐えて見せよう。 よろよろと玄関を出た途端、同じタイミングで下校するバズズと目が合った。彼も両脇に包みを抱え、背中に袋を負い、首から巨大な巾着をぶら下げている。 「……」 「……」 二人はしばし視線を合わせ、それからふっと微笑んで別々の方向に歩き出した。 沈む夕日が今日も世界を赤く染めていく。 町を流れる川が光を反射してきらきらと輝いている。流れに沿って伸びた長い道を、自転車に曲がった二つの影が延々と疾走していた。 「お前ー! 何時まで逃げる気だ!」 「いい加減にしろってー!」 帰り際にばったりとアトラスに出くわしてしまったのが運の尽きだった。アンジェリカから逃げ、アトラスから逃げ、逃げっぱなしの一日である。 「今日は一個も勝負ついてねぇじゃねーかよ!」 「知るかよんなこと!」 喚きながら走る二人の前方から、笛の音を響かせつつ一台の車がゆっくり近づいてくる。石焼芋だ。 「あ」 「あ」 二人は同時に声を出し、同時に自転車を止め、同時に小走りで車に近づいた。運転席から顔を覗かせる店主にきらきらと子供めいた笑顔を見せる。 「おっちゃん、芋一本」 「俺も」 「あいよ」 手渡された新聞紙を解くと、中から熱々のさつまいもが現れる。二つに割れば、その地味な外見からは想像も出来ないような鮮やかな黄金色が覗くのだ。アレンとアトラスはほくほくとそれに齧りついた。 「石焼芋美味いよなあ」 「俺んち冬は毎日ストーブの上で焼くぜ」 「ストーブで焼けんの?」 「銀紙に包んで置いとくだけな。簡単だし美味いぞ」 「ふーん、俺も今度やってみよ」 同時に芋を食らい尽くした後、二人は再び自転車に跨って走り始める。地面に伸びる影が、次第にその長さを増していった。 生徒達が下校してしまうと、アレフガルド学園は昼間の喧騒が嘘のような静寂に満たされる。 煌々と電気が灯る会議室では、学園の教師達が顔を着き合わせている。本日の報告を全て聞き終えると、校長は静かに頷いた。 「今日も何事も問題のない、良い一日だったようですね」 「一年一組の窓ガラスが全て破損していますが……」 おずおずと口を挟んだ同僚に、魔女先生がにこやかに微笑む。 「怪我人が出なかったんだからいいじゃない」 「力こそパワー」 「若い頃の暴走は美しいものです」 「多少のやんちゃは仕方ないだろう」 口々に言う教師達に頷いて、校長はそっと茶を啜る。ほうじ茶の香ばしい香りが馥郁と満ちた。 「明日も真摯に、生徒達と向き合って参りましょう」 彼女の名はルビス。この私立アレフガルド学園の校長である。 |