光について |
判決が下り数時間たち、もう人気もだいぶ少なくなった裁判所の廊下で、巨大な二つの影はとてもよく目立った。 新緑の季節、窓の外、中庭越しの格子付きの小窓は弱い風にさらさら揺れる葉に隠れて見えたり見えなかったり。それは、季節がもたらした奇妙な幸運。 「奥から二番目は水が流れないぞ」 「…ありがとうございます。でも」 突き当りを左に曲がった所にトイレがある。この裁判所に出入りする人間なら誰でも知っている。逆にいえば、トイレに用がない限りはあまり足を踏み入れない。そんなロジックを冷静にたどった親切心のつもりだった。 「…俺の方か」 「ええ」 トイレ側からやってきた大男・馬堂は、ふう、と一つ息をつくとねぶっていた飴を取り出した。 「お疲れ様でした」 対するロビー側からやってきた大男・狼が深々とお辞儀をするのを見て、馬堂は皺の寄った眉根にさらに皺を寄せる。 「そこは執行猶予おめでとうございます、とか厭味の一つも言うところだろう」 「無理な話です」 ばっさりだ。 よく知っている。 これはそういう男だ。 全てが終わって全てが始まった日にあの格子の向こうで出会った。 「いっぱしになりやがって」 精いっぱいの皮肉だったのだが。 「足元にも及びません」 仕方がない、切り札を出そう。こんな早くに。 「じゃんけんをしよう」 「…はい?」 長い間下げていた頭をようやく上げた狼は、泣く子も黙る国際捜査官とは思えないふ抜けた面だった。それが妙におかしくて、馬堂の口角が上がる。 「あの凶悪犯に先に面会に行くのはどっちか、決めないとな」 どっちが先に会うかで、振れる心も変わってくるだろうなんてそんなアマいことはことあの女に限って。 「…ないと思いますが、常識的に考えて」 「だろうな。俺より4年も長くいたお前が言うんだから違いねえ」 「恐れ入ります」 「入るな、あと」 さっきからずっと引っかかっていた。馬堂は嘆息して狼の横をすり抜ける。大男二人がすれ違うにはこの古びた建物の廊下は少々狭い。 「そろそろその低姿勢勘弁してくれねえか、コートの刑事じゃあるめえし。お前のツラと図体だと逆に怖え」 背中越しに飛んだ悪口をたたかれ、狼も苦笑した。 「人のこと言えた義理ですか」 狼は言いながらちらと左の窓越しに目をやった。格子の向こうの部屋では午後の開廷の出番を待つ検事だろうか、弁護士だろうか、はたまた係官だろうか、せわしなく動く影が見える。7年前、あの中の一人だった自分を重ねると、人工的な花の香りがした…気がした。 「こういう時、お前の先祖ならなんて言うんだ?」 背後からの声に振り向く。馬堂はまっすぐ前を見据えたままだ。 「憎まれっ子、世にはばかる」 「そりゃこの国の諺だろうよ」 フン、と一つ鼻で笑う声が聞こえた。ただそれは厭味に聞こえるものではない。むしろ。 「風邪ですか」 「花粉症だ」 軽く手を振って歩きだす。振り返りもせず。 「馬堂刑事、一つだけ」 「ふざけるな、俺はもう刑事じゃねえ」 珍しく熱のこもった口調に、馬堂は悪態をつきながらもその足は止めた。 「…一つだけだぞ」 うすうす予感はしていた。だから一刻も早く立ち去りたいはずのこの裁判所で用を足した。 全てが終わって全てが始まる日にふさわしいこの場所で、たぶんこれが今生最後の逢瀬になる。 背後に、険しい獣の眼を感じる。 今日、初めての。 「アンタは裏切られたんだ」 食い殺される。 「負け犬の遠吠えだ」 わけにはいかない。 「あの検事たちがいなければ真相は藪の中だった」 何を言っているんだお前は。 「そうだな、そしてアンタの祖国も」 公私の分別くらいつけろバカ。 「俺は、絶対に裏切られない」 …だといいな。 「だといいな」 わかっている、時間なんぞ大した問題ではない。3年?7年?そんな光みたいな時間を気にするのは孫子の七五三だけで十分だ。 ただその時間が意味していたもの。 夢破れ道失う者の多いこの世界で、少なくともあの男は自分の元を巣立って行った時と同じ光を眼に宿していた。 それは己も同じ。追う者から追われる者に変わったあの日から今まで、多分光は衰えていない。 それをイコールでつなぐものとは。 最後の言葉が消えると同時に、馬堂はロビーへの扉をくぐった。がっしりとした造りの扉の外で、係官が敬礼をする。小さく手を振ってこたえると、あとは一歩も立ち止まらずに玄関を通り抜ける。 初夏の風が穴だらけのコートを揺らすと飛んでもいない花粉が目から鼻から体中の穴に染み込んだ。ひとつ鼻をすする。 「暑くなったもんだ」 背後の建物に一瞥もくれず、馬堂は歩き出した。 [END] |